お父さん(2)
駅前の広場から線路下をくぐりホテル街を一気に抜けると、住宅外へ続く幹線道路へと繋がる。すでに出来あがったサラリーマン連中の歓声と、立ち込める下水の匂いの中を潜り抜けていく。
さすがにこの辺まで来れば青少年の姿はどこにもない。
ホテル街はその土地柄もあって、風営法やら薬物関連のきな臭い事件も稀に起きるのだが、今晩は“健全”な喧騒に包まれている。
(…ん?)
黙々と家路を辿る澄夫がその光景を目にしたのは、偶然と言わざるを得ないだろう。
少しタイミングを違えば、過ぎ去る群衆に溶け込んでしまう程の景色。澄夫が歩く歩道から僅か5m程の道路を挟んだ向かい側、風俗店の案内所の入口越しに女の姿を捉えた。
あまりに特異な光景、その相貌からキャバクラ嬢の類ではない事は確かだ。もう夜中だというのに、つばの広い帽子を目深に被り、日焼け防止用だろうか、二の腕まで覆った長い手袋が妙に印象的だ。だが、ガラスに貼られた細かいビラと案内所のネームが影になり、その表情までは窺えない。
女は微動だにせず、ある一箇所のコーナーを凝視しているようだ。
あそこはキャバクラやヘルス店など男性用の情報ばかりで、ホスト店などのそれは無かったはずだ。案内所の店員もどうしたものかとオロオロしているのが、この距離からでも見て取れる。
店舗経営の関係者か、単に風俗求人と勘違いしてい入ってしまっただけだろう。そう断ずれば、なんとか納得できるものでもあるが。澄夫はその女の佇まいから目を離せずにいた。
「社長、社長、どうですか!」
「え?」
「特別サービスしますから、ちょっと覗いてってくださいよ」
どうやら、澄夫自身が案内所に入るか否か迷っているように見えたらしく。路地側で客引きをしていた店員が寄ってきてしまった。多少の心残りはあったが、澄夫は案内所の女から無理やり視線を切り、客引きを無視して再び歩を進める。
しかし客引きは、澄夫にまとわり付くように勧誘を続けてくる。
(…まったく)
澄夫は無言で懐から手帳を取り出し眼前に差し出す。客引きの男は喉の奥で「あ!」という声を出し、そのまま群衆の中へ消えていった。この距離からではもう案内所の建物すら見えない。
澄夫は少しだけ振り返り、また自宅への帰路を歩き始めた。
◆◆◆
錆び付いたポストから郵便物を抜き取り、建付の悪い玄関戸にガタガタと音を立てながら鍵を差し込む。暗闇が鎮座する玄関に明かりを灯し、舞い上がる埃と湿気のこもった空気をかき混ぜるように廊下を進むと、澄夫は台所の椅子にドカっと腰を下ろした。
テーブルに置きっぱなしの煙草に火を点ける。煙を部屋いっぱいに漂わせると、たゆたゆと揺らぐさまをボーっと見つめた。
今では煙草の煙を疎ましく思ってくれる家族もいない。低い天井に残る雨沁みが時の流れのもどかしさを思わせる。
(沢田に偉そうに言えた立場じゃないな)
わずかに苦笑いを浮かべながら、まだ半分以上ある煙草を灰皿に追いやった。途中で買ったコンビニ弁当の封を切り、ビール片手に箸でつつく。
一般的な労働者からすれば、この時間帯は憩いの一時なのかもしれないが、澄夫にとっては苦痛でしかなかった。思えば、ほぼ毎日のように退署後に街を巡回するのも、こうした時間をなるべく日常から排除したいがためかもしれない。
あとは風呂に入り、床に就くだけで今日という日を消化できる。
ニュース番組を横目に、旨くも不味くもない弁当と、ぬるくなったビールを一気に口へ押し込み、流し台へと放り込む。チマチマとやりすぎたか、時刻は既に22時を回る寸前だ。
洗い物カゴには、たまった食器が無造作に積まれている。
(横着せずに片付けておくか…)
そう考えた矢先、テーブルで携帯がブルブルと震えているのに気付く。慌ててタオルで手を拭き、ディスプレイを眺めると、そこには『沢田央介』の名前が表示されていた。
(こんな時間に、なにかあったか…)
職業柄、帰宅早々呼び出される事など珍しくはない。澄夫はアルコールを入れた事を少しだけ後悔した。
「もしもし」
『あ、スミさん、遅くに申し訳ないです』
「別に構わんさ」
『もう家ですか?』
「そうだが、何かあったのか?」
『いや、ちょっと前に彼女から電話が入りまして』
「例の幼馴染か」
『ええ、ええ』
「いったいどうした、ノロケ話なら聞かんぞ」
精一杯茶化した澄夫だが、対する沢田の声は浮かない。
『誰かに見られてるって言うんですよ』
「なに?」
『自宅にはいるらしいんですが、すぐ前の路地から彼女を見てるやつがいるらしくて』
「ストーカーか?」
『わかりません、俺、ちょっと今から彼女のとこに行ってきます』
「お、おい、ちょっと待て」
『一応スミさんには知らせとこうと思って、それで連絡したんです』
「大丈夫なのか?家はどこなんだ」
『成宮町っす。問題ないですよ、たぶん彼女の勘違いか何かでしょう』
「いや、お前な…」
『じゃあそういう事なんで…』
「おい!一応駐在所の…」
駐在所の警官を同行させろ。と澄夫が言う前に、通話は切れてしまった。
(勝手に突っ走りおって)
成宮町は、澄夫が帰路に使った幹線道路を反対側にさらに15分程歩いた先にある。
澄夫は駅前駐在所の番号を手帳から引っ張り出し、電話に出た警官に事の次第を伝え応援に向かわせた。沢田との会話では詳しい番地を聞き漏らしてしまったが、成宮町自体はそう大きくない、古くからある住宅街だ。
すぐに合流できるだろう―そう澄夫は考えていた。
(何事もなければいいが…)
澄夫は薄暗くなった携帯の画面を眺めるしかなかった。
◆◆◆
成宮町の一角にある児童公園。
その公衆便所で、『沢田央介』の遺体が発見されたのは翌日の午後の事であった。
刃物で滅多刺しにされた沢田のその遺体からは、右手の親指が持ち去られていた。