お父さん(1)
プルルルルル…プルルルル…
藤倉澄夫は、携帯電話を耳にあてていた。机の上を指で忙しなく叩くのは自身が苛立っている証拠だ。
(…いったい、いつになったら電話に出るんだ)
時刻は午後6時を過ぎている。
思えば前の晩から何度も掛け続けているのだが、相手は一向に応答する気配が無い。
(…まったく)
机を叩く音は勢いを増し、絶妙なバランスで山積みにされた書類が今にも崩れそうだ。
プルルルル…プッ…
澄夫は携帯を背広の内ポケットへと押し込み、変わりに取り出した手帳をパラパラと捲る。
(あの年頃の娘にとっちゃ、無断外泊など珍しい事ではないかもしれんが…)
意外とすでに帰宅していて、冷房の効いた部屋で安穏と寝ているだけなのでは―。そんな楽観的な考えに思考を切り替えようと試みるが、どうにもうまくいかない。
S県警Y市警察署生活安全課の一室に、澄夫の行き場の無い苛立ちが霧散していく。
「おつかれです、スミさん」
コトンと傍らにコーヒーカップを置かれる。横目に見ると隣には若手警官の沢田央介が立っていた。
警察官とは思えない痩せた胸板に洒落た細身のスーツを着こなし。その長身と爽やかな風貌は例え冗談でも、俺の若い頃にそっくりだとは言えない。
「随分と、ご執心ですね」
沢田はそう言って、携帯電話を納めた胸元をニヤリと見やる。
「バカ野郎!」
「ちょ、冗談すよ、ド突かないでくださいよ」
この手の、年長者をおちょくる事に躊躇がない若手には、遠回しな嫌味よりこうして直接体に訴える事の方が効果があると、澄夫は知っている。
同世代の後輩からは“鬼のスミオ”で恐れられ、ドスの効いた一声で市民、犯罪者問わず縮み上がらせてきた澄夫だが、さすがに息子同然の年齢差ともなるとその威光は薄れつつあった。
「まったく、お前こそどうなってんだ、例の幼馴染の彼女は」
「だから彼女じゃないですって、それに幼馴染って言っても幼稚園が一緒ってだけで、それ以来全然会ってなかったんすから」
少しも照れた様子はなく、沢田は爽やかに白い歯を見せる。
(まったく、いつの世も顔の良い男には自然と女が寄ってくるものなんだな)
長年生活安全課少年係に身を置き、非行少年ばかりを相手にしてきた澄夫にとって、もとよりそれは今さら経験したくても出来ない事だ。
まだまだ定年には程遠いが、後輩の育成も立派な仕事だ―。そう割り切って、せめて目の前のこの軟派な男が警察官にあるまじき不貞など起さぬ様、澄夫は特別目を掛けるようにしていた。
「だったら、変なちょっかい出すんじゃないぞ」
「んな事しないですって、それに彼女、こっちに戻ってきたばっかりで頼る人もいないみたいですし」
そう、その彼女が幼少の頃まではこのY市在住ではあったが、家庭の事情で他県に移り住み、およそ20年後の現在また故郷に帰ってきた。という話は既に沢田から聞き及んでいる。
数日前、挨拶がてらにふらっと生活安全課を訪れたらしいのだが、ちょうど巡回中であった澄夫は彼女の顔を拝んでいない。
この沢田のニヤけた表情から察するに、相応の美人なのだろう。
正直、幼稚園時代の知り合いを頼るのもどうかとは思うが、そこは警察官という肩書きが活きたのだろう。妙齢のしかも一人暮らしらしい女性からすれば、そんな存在は心強く思うのは当然だ。
しかしながらそれも、沢田が全うな警察官としての立場を守ってこそなのだが。
「まあいい、俺はこれで直帰するからな、あとは頼んだぞ」
「うぃす、お疲れ様です」
澄夫は脱いだ背広を肩に掛けて、生活安全課を後にした。
◆◆◆
夕立の過ぎ去った後の空に大きく西に傾いた太陽が、濡れたアスファルトをキラキラと照らしている。
薄暮時から深夜にかけては少年犯罪が一層顕在化、活発化する時間帯だ。澄夫はこの時間帯をいつも巡回にあてている。
Y市有数の駅前の歓楽街は、仕事を早めに切り上げたサラリーマンたちが一時の至福を得ようと、各々が思い思いへの店へと流れていく。上着を片手に携え、首元のネクタイを緩める。一見すれば澄夫もその中に混ざっていてもおかしくない風体だが、今はまだ、その誘惑に負けるわけにはいかない。
夏休み目前のこの時期、期末試験を控えた一般的な青少年たちの姿はまばらだ。それでも、駅裏の一帯や、ゲームセンターなどには馴染みの面子がたむろしている。
澄夫は、そんな青少年たちに小まめに声を掛けていく。
はじめは怪訝そうにする彼らだが、澄夫の顔をみとめると、澄夫の長年の成果なのか、それとも彼らの中で“警察官と知り合い”という事に一定のステータスがあるのか、特に嫌がる風もなく気安く話にのってくれる。
「お前ら、試験は大丈夫なのか」
「問題ないっすよ、てかハナから捨ててますし」
某高校の制服を着た男子生徒達の集団がケラケラと笑う。
一昔前ならタバコや金髪ピアスなど、肉眼で分かる範囲の非行であったが、スマホやらSNSやら、小さな箱の中で形成された独自のコミュニテ内での横行は、さすがの澄夫も気軽に目を光らせる事が出来ない。それでも、こうして相手の表情を見ながら直に言葉を交わせる事が出来るだけでも救いがあった。
やはり、試験前は学生の姿も少ない。
何組かのグループに声を掛け終え、手持ち無沙汰に不動産屋の前で物件情報を眺めていると、ふいに後ろから声を掛けられた。
「あれ、藤倉警部補じゃないですか」
「ん?」
振り返ると、40手前ぐらいの男が、薄く色の付いた眼鏡を上下させながら笑みを浮かべている。
「ああ、お前か」
自称ジャーナリストの、久住恵太朗だ。
随分と聞こえの良い肩書きだが、その内実は事件や風俗問わず、ネタになりそうなものは何でも漁って、新聞社や雑誌社に売り込んでいる、ただのフリーライターだ。
どこから嗅ぎつけてくるのか、たまに事件が起こるとほぼ必ずと言っていいほど現場に出没するため、Y市管轄内では、ある意味そこいらの新聞記者よりも、警官たちに顔を知られている。
「なにか、事件ですか?」
久住は、聞く気まんまんと言った体で、カバンから手帳とペンを取り出す。
「そんな訳ないだろう、いつもの巡回だ」
澄夫自身も非行少年の補導現場などで、幾度となく取材させられそうになっている。
その情熱と根性はある程度買っているが、そもそも未成年相手の仕事で、そう易々と情報を漏らす訳がないだろうという事を、この男がどこまで理解しているかは甚だ疑問だ。
「なんだ、そうですか」
久住が残念そうに手を引っ込める。
「最近、特にこれといったネタが無くて困ってるんですよね、何かでかい事件でも起きないですかね」
「でかい事件?」
「例えば連続殺人事件とか」
キラキラとした瞳で久住が答える。
「不謹慎な事を言うな」
周りの人の目もあるため、わざと押し殺したような声で、久住に詰め寄る。
「冗談、冗談ですって」
「まったく…」
「まぁ、でも何が起きてもおかしくない世の中ですから、お互い気をつけましょう。それではまた。」
お前は誰にものを言っているんだ。という言葉を澄夫が口にする前に、久住はそそくさと去って行ってしまった。
気づけば、日もとっぷりと暮れ、時刻は8時をまわっている。このまま、居酒屋になだれ込んでも良いのだが、まだ週の半分だ。
(…俺も、そろそろ切り上げるか)
澄夫は駅前駐在所の警官に二、三声を掛け、そのまま帰宅する事にした。