お姉さん(4)
「そんなに怒らないでよ……ねぇ“明美ちゃん”」
(………!!)
唐突に呼ばれた自分の名前に驚愕する。
(どうして…知っているの……免許証も保険証も、身分が分かるものなんて、持ち込んでなかったのに!)
「ああ、驚いた顔もかわいいね」
そう言って、男は明美の髪から首筋にかけて、ゆっくりと指でなぞる。
全身が総毛立ち、口の中の猿轡がガチガチと音を立てる。
(いや、やめて!!やめて!!)
身を捩らせて、必死に抵抗する。
「あんまり、暴れない方がいいよ。痛い事。嫌でしょ?」
男が片手に持ったモノから、バチバチと青白い閃光が走る。
(…スタンガン!!)
「んん!!んん!!」
「これ、すごいよね、ちょっと加減がわからなくてさ、さっきはびっくりしちゃった」
それを少しずつ、明美の顔へ近づける。明美は涙と鼻水でグチャグチャになった顔を、ブンブンと横に振る。
「大丈夫だよ。もう痛いことはしないから」
男はヒクヒクとした笑みを浮かべながら、スタンガンを引っ込め。尚も言葉を続けた。
「ホントはね、明美ちゃんの事、ずっと前から知ってるんだよ」
男が独白をはじめる。
「あれは明美ちゃんがまだ高校生だった頃かなぁ、まだコンビニでアルバイトしてた頃だよ?喋った事だってあるんだから、でもね、その時明美ちゃんはすごく冷たかったんだ。僕の事全然見てくれなかったんだ。だからね、僕ね、いっぱいお金を使ってかっこよくなったんだよ。顔も、髪も、服も、明美ちゃんが好きそうなものに変えたんだ。そしたらね、明美ちゃん、さっきのホテルで僕の顔を見たとき、すごくうっとりしてた。“雌”の顔してたよね。あれはうれしかたなぁ。僕ね、うれしかったよ。僕ね僕ね僕ね僕ね僕ね僕ね僕ね僕ね僕ね僕ね」
(…やばい…こいつマジでやばい)
「でもね…」と言って男は、スっと立ち上がった。
「どうしても、許せない事があるんだ。僕…。ねぇ明美ちゃん、なんでこんな仕事してるの?知らない男と寝る仕事なんて僕耐えられないな。こんな汚らしい仕事、明美ちゃんには似合わないよ。明美ちゃんはお姫様なんだから。お金が欲しいなら、僕がいっぱいあげる。綺麗な服もいっぱい着せてあげる。僕が……明美ちゃんを飼ってあげるから」
「んー…、んー…」
「今日は僕と明美ちゃんの初めての夜だから…。いろいろ“準備”してきたんだ…だから、もうちょっと待っててね、直ぐに戻るから…」
そう言うと男は振り返り、部屋を出て行った。
(…無理だ…もう、どうしようもない…)
白い光に照らされたまま、再び取り残された明美。すでに唸り声すら出す気力さえない。“なんでこんな事に”何度も頭の中で自問するが、その答えはどこにも転がっていない。
(一方的に弄ばれて、そして…)
(私の人生…あんな男に滅茶苦茶にされるの?)
明美が送ってきた短い人生は、実に平凡なものだった。平凡な家庭に、平凡な家族、平凡な職に付き、時代の歯車となって生きていく日々。そんな不変さに嫌気が差していた明美は、そんな人生に抗うように自らこの業界に足を踏み入れた。
男の性向をちょっとくすぐってやれば、金が沸いて出る世界。そんな心身を切り売りする生活に溺れる内に、明美は家庭や家族の事など顧みなくなっていった。
どこで道を間違ったのだろう。気づけば、兄も、弟も、家を出て行ってしまった。そして母親も…。
(ごめんなさい……お父さん)
呆然とした思考の中で、唯一浮かんだのは父親の事だった。
仕事一筋だった父は、家の事など二の次三の次で。靴下の在り処ひとつ、母親がいなければ場所さえも分からない程だった。だからと言って明美は母親の代わりをしようなどとは思わなかった。母親がいなくなったのは、父の甲斐性が無かったせいだ。そう心のどこかで感じていた明美は、無意識の内にも父との距離を空けていた。会話はひと月に数回程度、一緒の食卓を囲むなど、古い記憶の彼方に葬られている。
(今朝、お父さんは何をしてたっけ…)
(…そう、茶の間で新聞を読んでたわ)
枯れたはずの涙が、再び溢れ出す。
(声、かければ良かった)
(一緒にご飯食べようって、言えばよかった…)
家族が二人きりになってしまって、心細かったのは父も同じなのに。
今でも幸せだった頃の五人の写真を、財布にしのばせている事も知っているのに。
(ごめんなさい…ごめんなさい…)
(お父さん、お父さん…助けて…助けて…お父さん)
いくら念じても、それが届くはずもない。だが明美はグッと目を閉じ、まるで子供のように、瞼の裏に映る父の背中に語り続けた。
どのぐらい時間が経っただろうか?
明美を照らす投光器がジリジリと音を発てるだけで、空間は静寂に包まれたままだ。
「…………」
「…………」
(今…何か、音がした…?)
「…………」
(…ほら、また…)
それは、先ほどの扉の金属音とは違う、低く篭った、どこか遠くで聞こえる音。
何かが、倒れる音。
ギィイイ
しばらくして、再び部屋の扉が開いた。
(…ああ、戻ってきた)
すでに心臓の鼓動すら、なんの反応も示さない。
カツ…カツ…カツ…カツ…
(…足音)
カツ…カツ…カツ…カツ…
(…足音が)
カツ…カツ…カツ…カツ…
(…違う)
さっきの男じゃない。
(…まさか、助けがきた!?)
薄目を明け、なんとか体勢を整え、身体をそちら側へ向ける。白い光の中に黒いシルエットが浮かんでいる。
(店の人間?それとも警察?)
再び心に灯された、微かな希望は、そのシルエットから放たれた言葉によって、無情にも掻き消された。
「 本当に、悪い子 」
伸びきったテープから聞こえるような、ガサガサと掠れた女の声。
明美の脳裏には、ホテルでのメールの文面が一瞬にして甦る。
「………!!」
声を発しようとしたその瞬間。
明美の目の前にゴロゴロと転がる、バレーボール大の大きさのもの。
それと“目が合った”
それは―
先ほどまで喋っていた。あの男の“頭部”だった。
「あああああああああああああああああああ!!!」
自分のものとも分からない悲鳴が、部屋中に木霊する。
男の顔はグチャグチャに切り裂かれ、所々からシリコンのようなベトベトした液体が溢れ出ている。
(どうしてどうしてどうしてどうしてどうして)
「 そんな男に、弄ばれるなんて 」
「 本当に、悪い子ね 」
逆光を背にし、その顔に暗闇を携えたまま、女はゆっくりと明美に近づく。
その手には、粘り気のある液体がベットリと付いた。鋭く光るモノ。
(いや、いや、いや、いや)
ゆっくりと腰を折り、明美の元に跪く。知らぬ間に、明美は失禁していた。下着を通して、滲み出る、それを一瞥し、女は言った。
「 はしたない子… 」
女の左手が、明美の頬を撫でる。
「 おかあさんとの約束、ちゃんと守らないから… 」
明美は確かに見た。
まるで、ミイラのように細く萎びれた、女の薬指を。
そして、その根元にある、赤黒く錆びた指輪を―
グチャ
瞬間、下腹部に鋭い痛みが走る。
「んあああ!!」
それは、何度も明美の身体を貫く。
何度も何度も何度も何度も何度も何度も―
白い光に照らされて、真っ赤に染まった明美を見下ろす女。
明美の鎖に繋がれた両手、その指に刃先を当て“それ”を奪い取る。
ブチン
女は、それをボケットにしまい、明美の顔を撫でながら、低く笑った。
「 本当に、ひどい顔ね 」