お姉さん(3)
「……ん」
チリチリと瞼の裏が点滅する。
薄く目を開くと、歪んだ視界には一面に暗闇が広がっていた。
(……私)
後頭部から首筋にかけて鈍い痛みが走る。
思わず手を当てようとするが、身体が思うように動かない。気づけば、両手足が分厚い革のベルトで縛られている。
(……なに、これ)
混濁する記憶の一つ一つを丁寧に掬い上げていく。
(私…そう、勤務日で…いつものホテルで…客が…いなくて…)
(……!!)
鮮明になっていく記憶と共に、言い様のない恐怖が明美を襲う。
「…んん!んん!!」
叫び出したくても、口の中に球体状の何かが詰め込まれ、吐き出そうにも、首の後ろまでベルトのようなもので固定されているため、それも叶わない。
ボール状の猿轡。SMプレイなどで使用されるそれは、明美自身は一度も使った事はないが、オプション用の小道具として店に置いてあるのを見たことがある。
もちろんそれは店から持ち込んだものではない。あの男がこのシチュエーションを作るために周到に準備し、明美を気絶させ、縛り上げたのだ。
(あの男…!!あの男…!!)
単純な見た目の良さに、浅はかに気を許してしまった自分の愚かさと、男の異常性に対する怒りが綯交ぜになり、ボロボロと涙がこぼれ落ちる。
「んん…!!んん…!!」
(…この程度で済むはずがない)
抵抗も、拒絶の声もあげる事のできないこの状況。
これから一体何をされるのか、身が竦むような想像を無理やり頭の隅に追いやる。
(とにかく…この場から逃げなきゃ)
体勢を立て直すべく立ち上がろうとした明美だが、手首から伸びる鎖によって阻まれた。
見ると、床にくさびのようなものが打ち込まれ、鎖がグルグル巻にされている。
力まかせに引っ張っても、くさびはビクともしない。
(なによ!!なによこれ!!!)
ガキン、ガキン
完全に血が上った明美は、怒りに身をまかせて手首のベルトを冷たいコンクリートの床に打ち付ける。
ガキン、ガキン
鈍い金属音が部屋に響き渡る。
「……ハァ……ハァ」
上がった息によだれやら鼻水やらが混ざり合ってグチャグチャになる。
(……コンクリート……どうして……)
どうして今まで気付かなかったのか、ここは先ほどまでいたはずのホテルの一室ではなかった。
(…どこ)
横たわった体勢のまま、首と視線だけでなんとか空間を仰ぎ見るが、僅か1メートルほど先が暗闇で覆われ、手がかりになるようなものはどこにも転がっていない。だが、先ほど床を叩いた反響音から察するに相応の広さがある空間である事は間違いない。
(気絶している間に運びこまれたの…?)
(時間……そうだ、時間は…)
呼吸を整え、冷静に状況を把握すべく思考を巡らせる。
男の部屋で見たデジタル時計は、23時を少し過ぎていた。明美が店側からの指示を受けたのは90分コースである。仮に男が延長を要求したとしても、最大でプラス60分。
(2時間半…さすがに、それ以上経っても、私から何も連絡がなければ、店の人間が不信がるはず…)
無論、店側は男の携帯電話もホテルの部屋番号も控えているはずだ。
(どれだけ気絶していたかはわからない…でもなんとか持ち応えれば…)
ギィイイ
心の奥で微かな希望の光が差したその時、突然金属を擦るような音が部屋中に響き渡った。
(…扉?)
コツ…コツ…コツ…
床から通して伝わる足音。
(あ、あの男…?)
コツ…コツ…コツ…
一旦は静まったはずの鼓動が、再び激しく脈打つ。
コツ…コツ
(と、止まった)
そう、思った瞬間、激しい光が明美を襲う、まるで太陽が突如目の前に現れたような。
「……!!」
「あれぇ、起きてたんだぁ」
滲む視界の中で、男の声が聞こえる。
どうやら、舞台で使うような大型の照明を、いきなり眼前に当てられたようだ。
「あーあ、せっかく寝てるうちに色々遊ぼうと思ったのに」
そう言って男は横たわった明美の傍へ膝をつく。
真っ白な世界にようやく目が慣れた頃、男の顔は明美の鼻の先まで近づいていた。
「んー!!んー!!」
精一杯の敵意をその目に込めて、男を睨む。
「あれ?怒ってるの?なんで?」
男は、ホテルで見た時と変わらない丹精な顔に、湿り気のある笑みを湛えて言った。
「せっかく、これから二人で楽しもうと思ったのに、そんなに怒らないでよ……」
「 ねぇ…“明美ちゃん” 」