お姉さん(2)
ピンポーン
突然鳴り響いたインターホンに、明美は身動きが取れずにいた。
ドクドクと脈打つ鼓動が、全身を支配していく。
持て余す時間から生まれた、ほんの些細な好奇心―。
(べ……別に、な、なにもしてないじゃない)
『 ホントウニ ワルイコ 』
脳裏に焼き付いた先刻のメールの文面が、怪奇な声音となって何度も耳の奥で再生される。
ピンポーン
「ちょっと……やめてよ」
そんなはずがない。頭の片隅では分かりきっていた事だが、明美は、先ほどの不気味なメールと、そのドアの向こう側にいる来訪者の存在をリンクさせずにはいられなかった。
(今日はじめて会う客が、私のアドレスを知ってるはずがない)
そう頭の中で反芻し、明美は意を決して一歩ずつ、ドアへと近づく。
何気ない一連の流れに偶然が重なっただけ。ただそれだけの事。
(大丈夫、大丈夫よ)
その行動にはたして意味はあるのか、明美は外の人物に気取られぬよう息を潜め、足音を立てぬようドアへと歩を進めた。
ピンポーン
未だ、心臓の鼓動は治まらない。なけなしの勇気を振り絞り、明美は慎重にドアスコープを覗いた。
その先には―
スーツ姿の、細身の男性が立っていた。
ドア越しからでも分かる、丹精な顔立ち。
『あのぉ、部屋の者なんですがぁ』
インターホンから聞こえる、その妙に腑抜けた声が明美の緊張した心身を弛緩させる。
『あのぉ、いますかぁ?開けてほしいんですけどぉ』
激しく脈を打っていた心臓が、ゆっくりと静まっていく。
明美はロックを外し、ドアを開けた。
「ああ、すみません、留守にしちゃって」
長身から伸びるスラリとした足、耳元で切り揃えられた清潔感のある髪。
「結構、待たせちゃいました?」
苦笑いを浮かべながらもその表情は、先ほどドア越しに見たそれよりもより一層顔立ちの良さが際立つ。
「あ、いえ…」
思わずこちらが目をそらしてしまう程だ。
「あ、あの、今日はご指名頂きありがとうございます。マユ…です」
「いやぁ、こういうの初めてなんで、電話するとき緊張しました…でも、良かった」
少し照れたように、男はこちらを見つめる。どうやら、相手の心証も悪くはないようだ。
(こんなことなら、さっきちゃんと化粧直しとけばよかった)
「あのぉ」
「え?」
「部屋、入れてもらっていいですか」
そういえば、先ほどから部屋の入口で喋っているばかりだ。
「あ、すみません!ど、どうぞ」
そう言って、明美は男を中へ迎え入れる。
本来なら逆の立場なのだが、予想以上の男のルックスの良さに舞い上がってしまった明美はそんな可笑しな状況にまるで気づかない。男はスーツの上着をハンガーに掛け、内ポケットからタバコを取り出した。
「あの、一応決まりなんで、お店に電話させて貰いますね」
「ええ、どうぞ」
明美は、携帯から店のアドレスを引っ張り出す。一瞬先ほどの忌々しいメールの事が頭をよぎるが、今度は容易に“単なるイタズラだ”と切り捨てる事が出来た。
「…あ、もしもし、マユです。…ええ、今お戻りになられました。…はい…はい…」
男はベッドに腰掛けて、紫煙を燻らせている。
「…はい、わかりました。では失礼します」
一通り、サービス内容の確認をして電話を切った。
「じゃあ、お風呂入りましょうか」
明美はわざと照れたような表情を造って、男にそう伝える。
「え、一緒にですか!?」
男はポカンと口を開ける、長くなったタバコの灰が今にも膝元に落ちそうだ。
そういえば、先ほど男は“こういう事は初めてだ”と言っていた。その相貌から30才前後だとは思うのだが、多かれ少なかれ男などこの手の経験があるものだという偏見がある明美にとって、目の前で顔を真っ赤にして照れているこの男を見ると、客という立場を超えて愛おしささえ感じてしまう。
「えーと、じゃあ、後ろ…向いててもらっていいですか」
「ええ、いいですよ」
明美はその可愛らしさに吹き出しそうになるのを堪えながら、男に背中を向けた。
その間に手提げカバンから入浴用具やら、消毒用のうがい液などを手早く準備していく。
背後から、カチャカチャとベルトを外すの音が聞こえる。
「ねぇ、マユさん?」
「はい?」
背を向けたまま返答する。
「こういう仕事、長いんですか」
「いえ、まだ一ヶ月ぐらいです」
本当はもう一年以上経つのだが、無意味な虚栄心が易々と嘘を吐かせる。
「そうですか」
ガサガサと何かが擦れるの音が聞こえる。
「ねぇ、マユさん」
「…はい?」
「 バッグの中、見ましたか 」
(…え?)
バチン!!
振り返る暇も、驚く暇もなく、全身を走る激しい痛みと共に、明美の意識は途絶えた。