お姉さん(1)
「…ひどい顔」
明美はレストルームに設置された鏡を見つめながら、そう呟いた。
先週から数えてもうすでに4日連続の勤務だ。正直もう身体もボロボロなのだが、ここ数日の散財を顧みれば、多少の激務も我慢しなければ…。
「…はぁ」
肩から提げたカバンから、化粧ポーチを探る。
(部屋に入る前に、軽く直しとこうかしら…)
買ったばかりのコンシーラーを手の平でクルクルと転がす。
(これ、結構したんだよね…)
この手の客など、所詮“こと”が始まってしまえば、ろくに顔など見やしないのだ。
(別にいいか…)
明美は崩れかけた化粧をそのままにして、ポーチをカバンへとつっこみ、重い足取りでレストルームを出た。
薄暗い廊下には、ビジネスホテル特有の換気性の悪いどんよりとした空気が充満している。
黄ばみの目立つ壁紙に捲り上がった床のカーペット、外見はそこそこだったが、中はお世辞にも手入れが行き届いているとは言えない。真っ直ぐに伸びた廊下は、そのどこにも死角などないのに、何かに見られているような気配さえする。
(さっさと終わらせて帰ろ)
背中の悪寒を振り払うように進むと、目的の513号室に着いた。
手櫛で髪を梳きながら、インターホンを押す。
「………」
返答がない。
少し間を置いてもう一度、インターホンを押す。
「………」
念のため、部屋番号を確かめるが、間違いない、513号室だ。
(なんなんだよ、さっさと出ろよ)
そう心の中でぼうやきながら、再度手を掛けようとしたその時、カバンの中で携帯が鳴っているのに気づいた。
(もう、こんな時に何?)
画面に表示されているのは、明美が勤務する店の番号だ。
「はい、もしもし」
『…あ、マユちゃん?お疲れ』
電話に出たのは、いつも案内所で客寄せをしてる吉田だ。ちなみに“マユ”とは明美が仕事上で使用している名前…いわゆる源氏名である。
「お疲れ様です、どうかしたんですか?」
『マユちゃん、もう部屋着いた?』
「着きましたけど、なんかお客さん出ないんですけど」
『ああ、うんうん、あのね、今そのお客さんから電話来てさ』
「もしかしてキャンセルですか!?」
事前の話では明美ご指名と聞いていたが、わざわざホテルまで来て部屋にも入れずキャンセルなんて、たまったものではない。
『ちがう、ちがう。ちょっとさ、外に出る用事が出来たんだって』
「え?」
『そんでね、すぐ戻るから部屋で待っててくれって』
「ちょ、何言ってるんですか!?いくらなんでも…それに部屋の鍵だって」
『それがね、鍵は取っ手の所にあるからって言うんだけどさ』
「取っ手?」
明美が視線を落とすと、ドアの取っ手にハンガータグが掛けられている。
本来なら室内側に掛かっているはずのそれが、廊下側にあるのはどう見ても不自然だ。手に取り裏返してみると、カードキーが無造作にテープで貼り付けられていた。
「……ありました」
『あった?じゃあさ悪いんだけど中で待っててよ』
「え、ちょっとそんな…」
『じゃあ、よろしくねー』
そう言って通話は切れてしまった。
(ちょっと、どういう事…?)
しばらくカードキーを眺めていたが、一人廊下に佇んでいるのがなんだか虚しく思えて明美は部屋へ入る事にした。センサーにキーをあてると、擦れた電子音と共にカチャリと鍵が開く。
ノブに手を掛けたところで、ある考えが頭をよぎる。
(もしかして、中にいたりしないよね)
吉田にああは伝えながらも、実は外出などウソで私を驚かそうとしてるのかもれしない。明美は今までそんな酔狂な客に会った事はない。だが、ちょっとした悪戯心でそんな事をする客がいたとしても別段おかしな事でもない。
(まぁ、わざわざ高い金出して呼んでるんだから、少しはノってやるか)
そんな軽い気持ちで、明美はドアを開き、部屋へと入った。
この手のビジネスホテルはカードキーが分電盤のスイッチ代わりにもなっているため、案の定中は真っ暗だ。
「…失礼します」
わざと、怯えたような震えた声を出してみせる。
それにしても、この暗闇の中で客が息を潜めているかと思うと些か滑稽だ。
壁際に設置されたホルダーにカードを差し込むと、部屋一面に照明が灯される。
(ほら、驚かすなら、今よ)
しかし、部屋は変わらず静寂に包まれたままだ。
(…あれ?)
シワ一つないベッドに机、小型の液晶テレビとミニ冷蔵庫。何の変哲もないシングルルーム。
人の気配はない。念のため、ユニットバスも覗くが、そこも同様だ。
(は?マジでいないの?)
半ば肩透かしをくったかのように気の抜けた明美は、ベッド脇にどかっと腰を下ろした。
「ったく、なんなのよ…」
ベッド脇のデジタル時計は、指定の時間からすでに10分近く経過している。
客はすぐ戻ると言っていたようだが、一体どれだけ待たせるつもりだろうか。
タバコでも吸おうか、テレビでも付けようか、しかしなんだか気が引ける。いっそのこと、もう帰ってしまおうかとも考えたが、吉田に待っていろと言われた手前、それはさすがにまずいだろう。
仕事は仕事、待たされたならその分だけ、早く切り上げるか、適当な理由をつけて延長料金でも貰ってしまえばいい。
明美は後ろに手を回して、足をバタバタさせる。
(……ん?)
何の気なしに、部屋に視線を泳がせていると、ある物が目にとまった。
机に備え付けられた椅子に革製の黒いバックが置いてある。微妙なサイズとデザインで、男物とも女物とも見てとれる。
(わざわざ、置いていったのかしら…)
急用だと言っていたのだから、別に不思議でもなんでもない。だが、妙に気になる。
「………」
少しだけそれに身を寄せる。
(まさか、変なアダルトグッズじゃないでしょうね)
この手の客にはたまにいるのだ、自ら卑猥な道具を持ち込んでくる輩が。
(別に、盗るわけじゃないし)
別段、厳重に封がされている訳でもなし、片手で軽くボタンをはじけば、簡単に覗けるではないか。
そんな軽い気持ちに後押しされて、明美が、そっと手を伸ばした、その時。
ティラリラリン
「ヒッ…!」
一瞬固まってしまったが、なんのことはない、ベッドに放っていた自分の携帯が鳴ったのだ。
(…メール?)
携帯を手に取り、中を開く、その文面に明美はギョッとした。
『 ホントウニ ワルイコ 』
心臓が跳ね上がる。
「な、なによこれ…」
まるで、今の自分の行動を見られていたような…。
そんな一瞬の思考を遮るように、インターホンが部屋に響き渡った。