お兄さん
煌々と輝く街路灯に、羽虫が砂嵐のような群れをつくっている。
宏太はバイト先のガソリンスタンドで暇を持て余していた。両手にホウキとチリトリを携え、ろくに汚れていない給油場のゴミを掬っていく。
「…ああ、帰りてぇ」
幹線道路から脇道に逸れた場所にあるこの店は、24時間セルフサービスを行う大型店舗に客を取られ、すでに閑古鳥が鳴いている。
腕時計に視線を落とすと時刻は23時を回っている。他店に対抗して、ここでも深夜営業をだいぶ前から始めたらしいが、この時間帯では住宅街への仕事帰りの車も期待できない。
「はあ」
勤め始めてまだ半年に満たない宏太だが、仕事はすでにはマンネリ化していた。
(今日はもういいか…)
適当に時間を消化すべく、手短に掃除を済ませスタッフルームへと戻る。
「お疲れ様でーす」
「へい、お疲れー」
中では、高岡が椅子に背を深く預けて、タバコをふかしている。
高岡は、開店当時から働いている古株の先輩社員で、歳はすでに50を過ぎているらしいが、スタンド勤務特有の日焼けた肌と、白髪染めしたばかりの艶のある黒い短髪も相まって、遠目から見れば、30代に見えなくもない。
「どう?」
「全然ですね、車が通る気配すら無いっすよ。」
分かりきった返答だったのか。高岡は特にリアクションもせず、手元のマイカー情報誌をペラペラと捲っている。インスタントコーヒーを適当にカップへ入れ、ポットのお湯を注ぐ、タバコに火を点け、宏太も向かいの席に腰を下ろした。
「燃費が良いってのも考えものだよねぇ」
「え?ああ、そうっすね」
唐突な問い掛けではあったが、どうやら雑誌の中の話題らしく。表紙に『この夏のドライブ、超!燃費節約術!!』と謳ってある。
「コウちゃんは、お盆は実家帰るの?」
「んー…どうすかね」
「たまには親に顔見せなきゃダメだよぉ」
「…ハハ」
何気なく苦笑いで返したが、宏太にとっては、それはなるべく場にあげたくない話題であった。
ガソリンスタンドにバイトを決めたのも、ゴールデンウィークやお盆の大型連休など、仕事を口実に帰省を免れるからだ。
もともと、親との折り合いがあまり良くないこともあるのだが、さらに実家から足を遠ざけるのに拍車をかけたのが、一昨年の暮れ、久しぶりに掛かってきた父親からの留守番電話であった。
『母さんが、いなくなった…』
電話口から聞こえる無機質な声音は、まるでそれが予め決まっていたかのような調子で、宏太は特に驚く事もなく、そのまま放置した。
母親は、昔から何事にも完璧を求める人だった。宏太は求められるままの人生をこなし。高校、大学と、母親の指定する学校へと進学してきた。そして当然の如く、挫折した。
自らは何も考えず…いや、あえて考える事を拒否し、母親の決めた道を漠然と歩いていた宏太は、自立への第一歩を踏み出し始めた同年代の人間達と比べて、あまりにも幼すぎた。
これまでの呪縛を引きちぎるかのように、半ば強引に一人暮らしを始めた宏太だったが、環境の変化にうまく適応できず、大学を中退。そのままフリーターとしてずるずると日常を消化していた。
今さら母親がいなくなったところで、俺の人生には何の関係もない。
家族なんて必要ない。三十になっても四十になっても、このままずっと一人で、その日食うだけの金を稼いで、寝るだけ。人生なんてそんなものだと、宏太は考えていた。
「…よいしょ」
高岡がわずかに顔をしかめ、腹をさすりながら席を立つ。
「なんか、今朝から調子悪いんだよなぁ」
「大丈夫すか?」
「便所行ってくるから、モニターお願いね」
「ういす」
そこまで詮索されずに、この話題が終わって良かった。家族の事を根掘り葉掘り聞かれても、宏太は今の現状を面白可笑しく昇華させる技術はない。
宏太は言われたままにモニターに視線を移す。
スタッフルームには、5台の監視カメラのモニターが設置されている。
道路際を映す2台、さらに給油場を各々別角度から映した2台、そして、客用の休憩スペースを映した1台だ。本来なら、屋外に立って客を迎え入れるのが店員としての勤めなのだろうが、一度落ち着かせた腰はなかなか重い。
休憩スペースからトイレへと向かう高岡の姿が写る。
宏太は道路際に設置された2台のみに視線を据え、車の入りをチェックする。
スタッフルームの窓や、エンジン音などで分かるのだから、熱心に凝視しなくても良いのだが、そこまで神経を研ぎ澄ませるのが億劫な宏太は、ただただモニターに写る霞みがかった映像を眺めていた。
それは、二本目のタバコに火を点けようと、ライターを手にした時だった。
「…ん?」
道路際を映すモニターに微かに写る人影。
給油場に架かる大屋根を支える鉄柱に、半身をしのばせている。
「…女?」
その足元で、スカートのようなものがヒラヒラとはためいているのがうっすら見て取れる。さらに腰のあたりまで伸びた髪も。
「なんだ、あいつ…」
街路灯や店内照明の反射もあり、その表情や年回りまではわからない。だが…
「…こっちを、見てんのか…?」
まるでカメラの先の宏太の存在を見通すかのように、女は微動だにせず、こちらをジッと覗っている。時折入るモニターのノイズに、背中を悪寒が走る。
まさか。とは考えたが、この界隈で心霊現象の噂など聞いたことがない。だが、モニター越しの得体の知れない存在に、どうしても怪異めいた憶測に思考が働くのは仕方のない事だった。
鼓動が早くなるのがわかる。
「なんなんだよ、気持ちわりいな」
確かめれば済む事だ。まさに、目と鼻の先、スタッフルームから一歩出れば、すぐに得られる答え。だが、それがもし肉眼には写らないモノだったら?まさにB級ホラーのようなシチュエーションは、図らずも先ほどの憶測をより一層強くさせ、まるで根が生えたようにその場に留まるだけで、宏太はモニターから目を離せないでいた。
その時だ。
女の影がフっと動き始めた。
それは、命が潰えたモノとは到底思えない、しっかりとした足取り。
ものの数秒で女はモニターの死角へと消えた。
「…あ」
すぐに隣のモニターに視線を移す宏太。だが、その他の4台、どの画面にも女の姿は無い。歩いていった方向から、店外に出たとも考えられない。
不審者か、徘徊者か。
いや、例え女と言えど、物盗りの可能性だってあるのだ。宏太は先程まで縮こまっていた体に小さく喝を入れ、スタッフルームを出た。
湿気を含んだ風が体を撫で付ける、給油場は変わらず夜の静寂を纏ったままだった。先ほどの女の影以外に、モニター越しに見た以上の変化は見受けられない。
おそるおそる、数秒前まで女が佇んでいた鉄柱の傍まで歩を進めるが、痕跡のようなものは何もない。宏太はその場でグルっと視線を泳がせた。
カメラの設置されている場所、その死角と成り得る場所を頭の中で瞬時に巡らせる。
女が身を潜ませているとすれば、考えれるのは洗車場とトイレ、物置の中、そして隣地と建物の堺にある僅かなスペース。
いくつかの候補を挙げている中で宏太はハッと気づいた。
(…そういえば、高岡はどうしただろうか)
モニターを凝視していた時間を差し引いても、体感で5分以上は経っているはずだ。極端に長引いているとも思えないが、先ほど高岡がトイレに立った様子を思い返すと、そう簡単に声を掛けられる状況では無いかもしれない。
高岡の手は借りれない。
相手は女だ、例えもみ合いになったとしても、こちらが力で屈する訳もない。そうして拳をグッと固める事で、心の奥で熱いものが激ってくるのが分かる。
「…よし」
宏太は、念のため手近にあった、油圧ジャッキを昇降させるための細身の鉄パイプを握り締めた。
(…まずは、洗車場からだ)
洗車場は、ガレージをひと回り大きくした程だろうか、両側の壁面と天井部分には洗車用の巨大ブラシが備え付けられ、配管やダクトが縦横無尽に走っている。
意を決し、トンネルのように大きく開いた口へと宏太は足を踏み入れた。
ジジジジジジジジジジジー
普段は気にも留めない、低くくぐもった電気機器の待機音が、唸り声のように充満している。
「おい、誰かいるのか…」
先ほどの決意はどこへ行ったのか、自分でも語尾がかすかに震えているのが分かる。洗車場は10m以上の奥行があるため、店内の照明の光は、その奥底までには届いていない。
宏太はその暗闇から視線を外さないようにしながら、入口付近の非常用スイッチに手を伸ばす。まさにトンネルの中のように、ナトリウムランプのオレンジがかった光が洗車場内を薄く照らす。
人の気配はない。
そこで引き返していれば良かったのだ。
宏太は、洗車場の奥に機器制御装置が入った大きな鉄の箱があり、その箱と壁面との間に人ひとり分が隠れられるだけの空間がある事に気づいた。
(まさか、あんな所に…)
そう切り捨てれば済んだ事。だが宏太はその先へと歩を進めた。
ヒタ……ヒタ……
額には大粒の汗が浮かび、鼓動は既に、はち切れんばかりに高鳴っている。
ヒタ……ヒタ……
空間に佇む暗闇、その暗闇が微かにでも揺らげば、宏太は悲鳴を上げて、腰を抜かす事だろう。
ヒタ……ヒタ……
もう、手を伸ばせば届く距離だ。あとは、身を屈めて、空間を覗き込めば…。そう考えた矢先、照明に薄く照らされた洗車場の床に、微かに影が揺らいだ。
「 本当に、悪い子… 」
心臓が跳ね上がる。
振り返るか否かの刹那の逡巡。
……グチャ
宏太は、腰の辺りに鈍い衝撃を受けた。
(…え)
視界がグルリと回転する。
カンッ、カランッ
眼前に湿った床と、先ほどまで手にしていた鉄パイプが見える。
(…倒れたのか?俺)
自分の体から流れ出す生暖かいモノが、シャツをジワジワと侵食していくのを感じる。
(…あれ?血?…刺されたの……俺)
やがてそれは全身を覆って、排水口へと吸い込まれていく。
「 本当に、悪い子ね 」
……グチャ
さらに背中に、熱く鋭い何かによって、肉をグチャリと抉られる感触。
「……ぐぁぁああ」
(え……なんで……)
(俺……殺されるの……)
掠れたような呼吸音と、衣擦れの音。
あと少しで潰える意識の中で、宏太の目に写ったのは、手首を持ち上げる女の筋ばった手と、自分の指にあてられた鈍く光る刃。
そして―
(……指輪)
(……あれ……これ……子供の頃……見た……)
―ブチン…ッ
既に事切れた、宏太の亡骸を女が見下ろす。
「おかあさんとちゃんと約束したのに…」
そう呟いて、女は宏の右手から奪ったものをポケットにしまい、低く笑った。
「 本当に、悪い子 」