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Bitter End

作者: 成田
掲載日:2014/10/28

 ただひたすらに、苦しかった。

 痛くて、辛くて、悲しくて。

 次第に私という輪郭はぼやけ、意識が得も言われぬ浮游感に包まれていく。

 気づけば世界は色を失って、忙しなく鼓膜を揺らしていた騒音も、遙か遠くへと薄れてゆく。

 

 そして何もかもが、わからなくなって……。

 

 運命に抗おうとする意志も、常に傍らに住まう恐怖も、今さらになってようやく気づけた本当の想いでさえも、そのすべてが白い暗闇の中に溶けていった――。

 


 目を開けると見えてくるものは、決まって白い天井だった。

 重い病を患った私は、もう長い間こんな味気ない目覚めを繰り返している。

 繰り返し過ぎて、もうこれ以外の目覚め方が思い出せない。

 私はいつも通りの決まりきった動作で身を起こすと、軽く伸びをした。こうやって毎度眠気を覚ますのだ。

 実際、朝の陽ざしを一身に受けながら、思いっきり両腕を伸ばすのはとても気持ちがいい。こうすることで鬱葱とした気分を少しは晴らすことができる。

 ――さて、今日は何をして時間をつぶそうかな。

 入院生活というものはとにかく暇で仕方がない。

 本を読む、というのもありだけど、あいにく今手もとには未読のものが残っていないし。この身がもう少し元気であれば、町に繰り出して図書館で新しい本を借りてくるという選択肢もあるのだけど……それができればそもそも読書以外のことをやってるね。

 ため息を一つ。

 ふと、まぶしい日差しに誘われて窓の外に視線をやる。そこには青々とした空が遙か彼方へと続いていた。

 それは、私がここにくる前にいた世界の風景。

 しかし今はもう、かつてそこにいたことさえ朧気な記憶の底に沈んでしまっている。まるでそれ自体が儚い夢だったかのように。

 そんな風に思ってしまうのは、この白く限られた空間に長くいすぎたせいなのかもしれなかった。

 そしてたぶん、ここから出られる日が来ることは、もう二度とない。

 ――なんで、私なんだろう。

 もし、神様なんてものが本当にいるのだとしたら、私はどうしても訊きたかった。

 なんで私に、こんな苦しい人生を押し付けたの。

 世界中にはたくさんの人がいて、言い方は悪いかもしれないけど、中には生きることに積極的ではない人だっているのに、どうして私がこんな運命を背負わされなきゃいけないの。

 私は、こんな苦しいだけの人生にすり潰されたくて生まれてきたわけじゃない。こんな人生ならいっそのこと――。

 と、不意に扉が動く音がした。ついで、誰かが室内に入ってきたことを、その誰かの足音が私に伝える。

 ――ノックもしないで、失礼な客ね。

 少々気持ちが荒んでいたこともあり、無礼者に一言文句を言ってやろうという心づもりで、私は入り口の方へと振り返る。しかしそこにいたのは――。

「……なんだ、亮太だったの」

 無遠慮に入室してきた常識知らずは幼馴染の亮太だった。私が入院して以来、亮太はほとんど毎日のようにお見舞いに来てくれている。たぶん幼馴染という立場上、私のことを気遣ってくれているのだろう。私は亮太が来てくれるおかげで、入院生活の、いや、人生の退屈さをだいぶ紛らわせることができていた。本人には言っていないけど、実は毎日亮太がお見舞いに来てくれるのを、一日の一番の楽しみにしているくらいである。けどそう思う一方で、病気を理由に、私なんかのために時間を使わせてしまっているという事実が、少なからず後ろめたくもあった。言ってしまえば亮太は、私だけでこなさなければならない、無意味な時間の消費を一部、自分の時間を犠牲にしてまでも共有してくれているのだ。だから、私にとっても亮太にとっても、私という人間は本当に迷惑な存在だった。しかし、

「いつも……ごめんね」

 私が決まり文句のようにそう言うと、亮太は決まってこう返してくれるのだ。


『僕が好きでやっていることだから、気にしないでくれ』

 

 そう言ってくれるたびに、私の心の中に温かいものが積み重なっていった。しかし、

 ――あれ?

 いつもならばすぐに決まりきった文句が返ってくるのに、今日は何もない。それどころか亮太は口を開くことなく傍にある椅子に腰を下ろす。思えば入室の際にノックをしなかったことといい、今日の亮太はどこかいつもと様子が違っている。……いったい、どうしたのだろう。

 なんだか嫌な感じがした。それは冷たい指先が背筋をそっと這っていくような、そんな感覚。少し不安になって、私は亮太に窺うような視線を送る。

 ――もしかして、ここに来るのが嫌になった、とか。

 そりゃ毎日私みたいなつまらない女の面倒に時間を潰されていたんじゃ、やっぱり内心は苦痛だったに違いないけど……。

 ――やっぱり、もうここには来てくれなくなるのかな。

 そんな不安を抱えながらもしばらく様子を見守る。すると亮太は肩から下げていた鞄を、膝の上に乗せた。

 茶色くて無難な作りの鞄。

 それは、お見舞いに来てくれる亮太が、いつも私のことを気遣って何かしらのモノを入れてきてくれる鞄だった。文庫本だったり、新作の携帯ゲームだったり。そういえばいつかは、おまんじゅうを入れてきてくれたこともあった。でも来る途中に潰れちゃっていて……あの時は中身のはみ出したおまんじゅうを見ながら二人して笑い合ったりしたっけ。

 なぜか無性に懐かしさを感じる。

 いつもはこんなことなかったのに……。

 私が戸惑いを感じているその間にも、亮太は鞄の中から何かを取り出していた。そこはかとなく見覚えのある、厚手の表紙をした本のようなもの。ひょっとして――アルバム?

「部屋を整理していたら、出てきたって。……詩織さんが」

「――ッ!! それじゃ、そのアルバムって私の!?」

 どおりで見覚えがあるわけだ。というかお姉ちゃん、私の部屋は勝手に掃除しちゃ駄目だって言っておいたのに。これは今度お見舞いに来てくれた時に厳しく言い含めておかないと。

「こうして見てみると懐かしいな。どれも昨日のことのように覚えている」

 って、いつの間にか私のアルバムが亮太に閲覧されてる!

 まあ、別に見られて困るようなものじゃないけど……。

「……目の前にいるんだから、開く前に一言くらいあってもいいのに」

 文句を言いつつも、実は私自身も中身が気になっていたのでそれ以上は言及せずにアルバムを覗き込んだ。もう内容をほとんど覚えていない。いったいどんなだったっけ?

 最初に目に飛び込んできたのは小学校の運動会の写真だった。

 必死になってトラックを駆けている、今よりもずっと幼い姿の自分。それと、競うようにそばを走っている小さな亮太。あの頃はまだ、自分にこんな運命が待ち受けているなんて知りもしなかった。何の不安もなく、ただ無邪気に全力で毎日を楽しんでいたんだよね。……すごく懐かしい。

 次は中学校の入学式のものだ。

 慣れない制服に当惑している二人の様子が、桃色の風景を背にありありと写し出されていた。私も、亮太も、あの頃は新しく始まる中学校生活が楽しみで仕方がなかったのを覚えている。何部に入るかを悩んだり、初めて会うクラスメイトと友だちになったり、とにかく毎日が新鮮だった。

 そしてそのあとは――真っ白だった。

 その先には、もうなにも写真が貼られていない。

 たった数ページで終わってしまった私のアルバム。

 そういえば中学に入ってすぐに私は入院してしまったのだった。

 だから、アルバムが数ページでこうなってしまうのも仕方がない。

 仕方がないことなんだけど……。

「――なんだか寂しいな」

 不意に亮太がそう呟いた。

 寂しい……? それっていったいどういう意味なんだろう。しかし、私が問うよりも先に亮太は言葉を続ける。

「中学校、おまえがいなくなった教室、僕にはどこかもの寂しかったよ。今まではっきりとは言ってなかったけど僕はさ、もっとたくさんおまえと一緒に中学校にいたかったんだ。本当に。だっておまえとは結局、全然中学生らしいこと、やれていなかったしな」

「亮太……」

 悲しそうに視線を落とす亮太。

 私だってもっと中学校に……亮太と一緒にいたかったよ。やりたかったことだって、たくさん、たくさんあったんだよ。

 だけど私には、そんな未来は用意されていなかった。

 結局私は中学校を卒業することはできず、そのまま高校に行くこともできなかった。

 もう何年も、何年も、私はこの白くて冷たい部屋にいる。

 どこへ行くこともできず。

 何をすることもなく。

 ただ私は、ここにいた。

「――だから」

 亮太は伏せていた顔を上げた。その瞳にはわずかばかりの、決意の色が浮かんでいる。

「以前の僕はおまえに会うためにここに来ていたんだ。少しでもおまえと一緒にいたかったから……でも、肝心なことが、一番大切なことが結局最後まで僕にはできなくて、そのことが今でもずっと僕の中で引っ掛かっている」

 一番大切なこと……?

「でもそれも、もう終わりにする。今日はそのために来たんだ。さすがにいつまでもこんな気持ちを引きずってはいられないからな」

 そう言って亮太は立ち上がった。意志のこもった視線はベッドを見下ろすようにそそがれている。

「ここに来るたび、僕はいつもおまえに『僕が好きでやっていることだから、気にしないでくれ』って言っていたよな。でも本当は違うんだ。僕は、本当はずっと、こう思っていたんだぜ――」


『おまえのことが好きだからやっているんだ。だから、気にしないでくれ』


「――え?」

「……そうじゃなきゃ毎日来たりなんてしねーよ、さすがにさ。でも僕はおまえのことが好きだったから、おまえに会いたかったから、毎日ここに来ていたんだ」

 ――知らなかった。

 私はてっきり、幼馴染という立場だから仕方なく面倒を見に来てくれているのだと思ってた。

 けど亮太は私のことを好きだって――。

 そんなにはっきりと言われると、なんだか気恥ずかしくて、顔が、体中が、勝手に熱くなってくる。おかしいね……私が何か言ったわけじゃないのに。なんでだろ……私、今すごくうれしいって思ってる。亮太には迷惑ばかりかけていて、申し訳ないという感情しかないと思っていたのに……もしかして私も亮太のことを――。

 すると、私のそんな動揺を知ってか、亮太はからかうように続けてきた。

「案外おまえも、僕のことが好きになっちまっていたんじゃないか。毎日通い詰めていたからな。徐々に心が動いていって、気が付いたら……みたいにさ」

 ううっ、やっぱりそうなのかな……。

「そうだったとしたら、うれしいな。……もし、もしもの話だけど、僕が告白していたら、おまえはどんな返事をしてくれていたかな」

 こ、告白!?

 こんな、私なんかに……? 

 信じられず、窺うような視線を向けると、亮太の表情はいつになく真面目さに満ちていた。

 ……本気で、言ってるんだ。

 そう思い至った瞬間、私の口も自然と言葉を紡いでいた。

「……うれしい。私も亮太のことが……たぶんずっと前から好きだったんだと思う。気づいたのは今さっきなんだけどね。……だけど」

 私はこんなありさまだし、亮太には迷惑をかけることしかできない。そして、遠くない将来、きっと私はいなくなってしまう。だから、

「私なんかとは――」

 と、

 そこで亮太は、なぜか私の言葉を遮った。

「――なんてな。今さら何言ってんだろうな、僕は」

 渇いた笑みを浮かべて、亮太はそのままドサッと乱暴に席に着く。

 え、なにこれ……?

 ひょっとして私、からかわれてたの?

 そう思うと、途端に今までとは別の意味で顔が熱くなる。そうとも知らずに私は何を……もうっ、最悪っ。これは……一発くらいひっぱたいてもいいやつだよね。

 私は一発、文句つきでくれてやろうと亮太に向き直る。しかし。

「え……?」

 予想外の事態に私は言葉を失う。

 亮太の様子が、おかしい。

 こんな、こんな亮太は、見たことが無い。

 肩を震わせ、今にも泣きだしそうな顔をして……。

「い、いったいどうしたっていうの……?」

 わからない。

 なにが、どうなっているの。

 不意に亮太は、震える声でつぶやいた。

「なんでだよ……おまえ……」

 え、私……?

 私のせい……なの?

 私が亮太に、何かしてしまったの……?

 でも、いったい何を――。


「なんで、こんなにあっさり……死んじまったんだよ――ッ」


 ……。

 …………え?

 何、言ってるの?

 私が死んだ?

 そんなはずはない。

 だって、私は今、ここにいるのだから。

「ちょっと、やめてよ。そんな縁起でもない冗談は――」

 そう言いながら、私は亮太を小突く。しかし、

「うそ……なに、これ」

 突き出した手が、一切の感覚を伴わずに亮太の身体に沈み込んだ。

 そして、そんな異常な事態が発生しながらも、亮太は一切の反応を示さない。

「まさか……本当に」

 引き戻した手は何ともない。

 まるで何事もなかったかのように。

 もう一度、今度はそっと、亮太の肩に触れてみる。

 しかし、

「……なんで――ッ」

 伸ばした手は、いつまでたっても亮太の温かさを感じることはなかった。

 それじゃあ、私は本当に――。

「……そろそろ帰るか」

 ある程度気持ちが落ち着いてきた様子で、亮太は椅子から立ち上がった。

「ちょっと、待ってよ……!」

 対照的に混乱しきった私はとっさにそう叫ぶが、それでも亮太は歩き出してしまう。

 無視された……というよりこれは、聞こえていない……?

 そうとしか思えない反応だった。

 もう死んでいるから、今の私の声はきっと亮太に届いていないんだ。

 それだけじゃない。

 今までの会話も、ずっと会話になっていなかったんだ。

 何も、伝わっていなかった。 

 何も。

 何一つ。

 私の、やっと気づけた本当の気持ちさえも――。

 亮太はゆっくりとした足取りで、しかし確実に出口へと向かって歩いて行く。私を、私の気持ちだけを置き去りにして――。


「……そんなの、やだよ」


 わかっている。

 今の私には、何もできないってことは。

 だけどこのまま何もしないで、亮太が行ってしまうのをただ見ているだけなんて、そんなのは絶対にいやだ。 

 私はベッドから跳び下りると駆け寄り、去りゆく亮太の手を掴む。

 しかし、当然のことながらその手が亮太に触れることはない。

 ただ、虚しく空を掴むだけ――。

 でも、あきらめない。

 今度は、部屋を出て通路を進んでいく亮太の目の前に立ちふさがる。両手を目いっぱい広げて。

 あわや衝突するかという瞬間には、さすがに目を閉じてしまうが、やはり想像していたような衝撃がおとずれることはなかった。

 恐る恐る目を開ければそこに亮太の姿はなく、背後からは遠ざかる足音が響いている。

 それでも、あきらめない。

 通路を過ぎて、階段を下り、そしてまた通路へと……亮太は変わることない歩みで、病院の玄関口を目指していく。

 私は何度も、何度も、手を伸ばして、立ちふさがって、亮太の歩みを止めようとした。

 けれどその度に、亮太は私を置いていく。

 私を置いて、一人で進んでいく。

 それが、たとえ変えることのできない現実なのだとしても、私は、今回だけはまだ、あきらめたくない――ッ。


「……あれ? なに、これ」


 何度も亮太へ伸ばした私の手。

 それは今回も、やはり亮太に触れることはなく空を切るが……それよりも。

「うそ……なんで!?」

 手が、腕が、消え始めている。輪郭がぼんやりと、しかし確実に薄れ出している。

 もしかして、私、消えるの……?

 もう、終わりなの……? 

 ……いやだ。

 まだ、消えたくない!

 私は必死になって亮太にすがる。

 すがりつこうとするが、それは叶わない。

 そして亮太が病院の出口に近づいていくにつれて、徐々に私という存在の境界があいまいになっていく。

「待って、亮太! お願いだから、これが本当に最後のお願いだから……ねぇ、止まってよぉ。私を置いていかないで――あっ」

 病院の出入り口を目前にして、私は足をもつれさせてしまう。

 そして、勢いそのままに床に倒れた。

「……い、痛い」

 生前と変わらぬ痛みに打ちのめされる。そのせいでじんわりと視界がにじんだ。しかし、そんなことでくじけている時間はない。そうしている間にも亮太は――。

「うそ……そんなぁ」

 すでに亮太の姿は、目の前から消えてしまっていた。

 ……やっぱり、ダメだった。

 言いようのない絶望感が湧き上がる。

 これで本当に終わってしまったのだと思うと、急に目の奥が熱くなる。もう死んでいるのに、いまさらになって頬を伝っているものは一体なんだっていうのだろう。もしかしたら今までため込んでいた想いが、消えてしまう前にあふれ出しているのかもしれない。

 それはとめどなく流れ続ける。

 今まで、どうして気づかなかったんだろう。

 こんなに、こんなにたくさん想っていたのなら、いっぱい溢れ出すくらいに想っていたのなら、本当の気持ち、生きているうちに伝えておけばよかった。

 亮太に、伝えたかったよ。

 私も好きだったって。

 でも、それはもう――。

 

「おまえ、まだこんなところにいたのかよ」


 どこか呆れたような声、しかし、私の大好きな人の声でもあるそれは傍らから聴こえてきた。

「ふぇ……?」

 今はとても人に見せられるような顔ではないと分かっていながらも、私は顔を上げずにはいられなかった。そこにはやはり、行ってしまったと思っていた亮太が立っていた。

 そして、目と目が、しっかりと合う。

「おいおい、おまえ今幽霊ってやつなんだろ。それなのになんだよその酷い面は?」

 苦笑を浮かべながら私を見下ろす亮太。その優しげな表情は、今まで何度も見てきた、いつもの、私が大好きな亮太の表情に違いなかった。

「私のこと……今は視えてるの?」

「まあな……ん、今は? ……て、もしかしてここにいる間、ずっとそばにいたのか」

 亮太は驚いたように問い返してくる。

「……うん」

 本当は私の病室に来てくれた時からだけどね。

「じゃあ、まさか病室でのあれ……全部訊いてた?」

「……うん」

「……」

 亮太は照れ臭そうに頬をかく。しかしそれも数秒のことで、次の瞬間には私に向けられていた瞳が曇る。

「というか、おまえ……その身体」

 亮太に指摘されて私も現状を思い出す。

 視線を落とすと、もう薄らと床が見えるほどに私の身体は透き通ってしまっていた。

「もしかしておまえ、もう、消えちまうのか?」

 病室でも聞いた、悲しみを内包した亮太の声。

「……うん」

「そうか……」

 肩を落とし、悲しそうに眼を細める亮太。そんな亮太を見ているのはつらかった。

 けれどそれだけ、私が消えてしまうのを悲しんでくれているってことなのかな。そうだと思うと、不謹慎だけど、ちょっとうれしかった。

「おまえさ……」

 不意に亮太がつぶやくように口を開く。

「もしかして、僕に何か伝えたいことがあったんじゃないのか?」

「え……?」

 私が亮太に、伝えたいこと。

 それはさっき気づいた、私の本当の気持ち、だけど。

「ひょっとしたらさ、おまえ、それを言うためにまだこんなところに残っていたんじゃないのか?」

 ――ああ、そっか。

 そうなのかもしれない。

 今の私には、私が死んでしまうその時に、どんなことを思いながら逝ったのかはわからないけど……でも、なんとなくだけど、わかる気がする。きっと、後悔していたんだ。

 たぶん死ぬ間際に秘めていた想いに気づいたけど、それを伝えることもできずに死んでしまったことを。……いや、違う。生きているうちにちゃんと想いに気づいて、それを伝えておかなかったことを、後悔したんだ。

 何もかもが手遅れになってしまった、その瞬間に――。

 だから、その未練が、私をここにとどまらせたんだ。

 厳密に言えば、今の私は、本当の意味では私自身ではないのかもしれない。強い思いだけが残されて、それが形になったもの。もしかしたら、それが今の私なのかもしれない。でもだからといって、いや、だからこそ、やるべきことは何よりも明確だった。

 私の、本当の気持ちを亮太に伝える。

「その顔は、ちゃんとあるみたいだな。……ほら、聞いてやるからまずはちゃんと立てよ」

 亮太が手を差し伸べてくる。

 私はその手を掴もうとして、寸前で伸ばした手を止めた。

「どうした?」

 亮太がいぶかしげに眉をひそめる。

「いや、その……」

 私は亮太に触れることができない。

「なんだ、今さら僕と手をつなぐのが恥ずかしいのか? しょうがない奴だな」

 呆れ気味にそうつぶやいた亮太は――さっと、私の手を引いた。

「え……?」

 どうして……。

 さっきまで私は全然亮太に触れられなかったのに、どうして亮太は私に触れられるの。

「安心しろよ。今お前のことが視えているのは、たぶん僕だけなんだからな」

 亮太だけ……。

 亮太だけに私が視えている……。

 ――ああ、これはそういうことなんだ。

 視えているから、触れられる。だから、さっきまでの私は亮太に触れることができなかったんだ。

 周囲を行き交う人々は、私たちのことなんかまるで気にも留めていない。どうやら亮太の言うように私のことが視えているのは亮太だけのようだった。

 私のことは、ほかの誰にも、認識すらされない。だけど――。

 亮太にだけは触れられる。

 亮太にだけは伝えられる。

 それだけでもう、今の私には十分すぎるよ。

「……ねぇ、聞いてくれる? 私が亮太に伝えたかったこと」

「ああ」

 亮太は私の目を視て、きっと私の決意も汲んだうえで、頷いてくれた。

 その瞬間、私からは緊張も躊躇いも消えていた。心に浮かぶままの気持ちをそのまま亮太に伝える。

「私も、亮太のことが好きだったよ」

「……」

「ずっと、ずっと好きだった。いつも、いつも私のことを気遣ってくれて、お見舞いに来てくれて、優しくしてくれて、それからいろいろ学校の話をきかせてくれたりもして、本当にうれしかったよ」

「……ああ」

「なのに……ごめん。ごめんね。本当の気持ちに気づくのも、伝えるのも、こんなに遅くなっちゃって」

「いいよ。それはお互い様だろ。僕だってもっと早く言えていたらよかったんだ。……最後におまえの本当の気持ちが聞けてよかったよ。もしかしたら僕たち、付き合っていたかもしれなかったんだな」

「……うん」

 亮太は少し悲しげに、それでも嬉しそうに微笑んでくれた。

 ちゃんと想いを伝えることができて、本当によかった。

 これで、どうしようもなかった私の人生も、とうとう終わる。

 あとは消えるのを待つだけ。

 そう思った矢先に、亮太がゆっくりと、しかしはっきりとした口調で私に言ってきた。

「――僕からも、おまえが消えてしまう前に言っておきたいことがある。それは絶対に伝えておかなければならない、とても大切なことなんだ。聞いてくれるか?」

「え……? う、うん」

 とても大切なこと……それって告白よりも大切なことなの。

 私は気になって顔を上げた。そして亮太のことを見つめる。

 すると。

 不意に温かさに包まれる。

 一瞬何が起きたのかわからず、頭が真っ白になる。ようやく自分が亮太に抱きしめられているということに思い至ると、途端に身体が火照って、胸の内から高鳴る鼓動が全身に響きわたる。

「ちょ、ちょっと……」

 な、なに、どうしちゃったの……?

 いきなりのことに思考が追い付かない。

 戸惑う私の耳元で、亮太はそっと口を開いた。


「生まれてきてくれて、本当にありがとう」


 ――――。

 瞬間、私は体中から、すっと力が抜けて行くのを感じた。

 ――そっか。

 私は心のどこかで、自分のことを必要だと言ってくれる人を求めていたのかもしれない。自分自身ですら必要なかったと思ってしまった私の人生を、それでも肯定してくれる誰かを。

 私だけでは、ついに自分の人生に意味を見出すことができなかった。だけど――。

 亮太、あなたは私が生まれてきたことに意味をくれていたんだね。

 そして、私が自分自身でも気づいていなかった願いを汲み取ってくれた。

 本当、亮太には何から何まで、お世話になりっぱなしだね。

 生きていたころはいつだって私は自分の不幸を呪っていた。

 けどその分、亮太はいつも私に幸せをくれていた。

 今さらだけど、そのことに気づけてよかったよ。

 それだけで報われた気がする。

 こんな私の人生にも、ちゃんと意味はあったんだね。

 亮太からそっと離れると、今までにないくらいに自分が温もりで満たされているのを実感した。もはや心につかえるものはなく、一杯に満たされたものが、自然と目から溢れて頬を伝う。

 こんな風に、心から満たされて涙を流すのは初めてだった。

 最初で最後の、最高の想い出。

 気づけばもう、限界を間近に感じるほどに、身体のほとんどが透き通っていた。

 けれどまだ、後ほんの少しだけ、私の身体には猶予が残されているようだった。

 最期の最後にあと一言だけ、亮太に何か伝えられる。

 ならば言うことは決まっていた。

 私は涙をぬぐって、精一杯の笑顔で、亮太に最期の気持ちを伝えた。


「今まで本当に、ありがとね」


 そして、白い光の中で消えゆく私は、最期の最期に一つだけ、心から願った。


 ――いつかまた、あなたと巡り会えますように――


了


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