第八話
翌朝、エルネは日が完全に上がってからようやく目覚めた。普段であれば、すでに朝食を済ませ、一息ついている時間だ。
窓からは暖かそうな、夏に入る前の日の光が差し込んでくる。
大陸の北西側に位置するこの国では、四季がはっきりとしており、特に王都の側、すなわち北側においては冬には雪が一ヶ月間ほどつもり、春には雪解けと共に青々とした草などが芽吹く。
収穫の時期は秋にあたり、各村や街ではこの時期毎年、精霊に感謝を捧げる意味での精霊祭が執り行われている。
今現在は、ちょうど春と夏の中間に当たる時期で、最も過ごしやすい時期でもある。
扉がノックされ、エルネはその相手に扉を開けることを許可した。
入ってきた人物は自分の乳母兄弟であり、従者であるフレードリクだ。
「ようやくお目覚めですか。光の精霊もさすがに呆れていますよ」
「仕方ないだろ。どうやら思っていたより、かなり疲れていたみたいだったんだから」
「そうみたいですね、お体の加減はいかがですか?」
「それほどひどくは無いかな。ただやっぱり体のふしぶしが痛いし、下半身なんてろくに動かせやしない。トイレだってこんなビンにしなきゃいけないなんて最悪だよ」
「予想していた通りですね……仕方ないとはいえ、これはやはりなんともいえませんね」
苦笑しながら、クリスティナから受け取った着替え一式を用意していくフレードリク。
「なんだ、もう着替えを用意してくれていたのか。仕事が早いな」
「さすがは大公女殿下の御付きの侍女というところですね」
「ん? お前なんで髪が濡れているんだ?」
「朝一番に、この宿にある温泉を利用させていただきました。いやーいいお湯でしたよ」
そういってフレードリクはニヤリと笑う。
「お、お前! 主を差し置いて自分だけ温泉につかるだなんて、おかしいだろ!」
「おや? エルネスティ様は自分がやれないからって、部下にもそれをするなと禁じる主なのですか? それでは部下の心を掴むことなど出来ませんよ」
「そういう問題じゃないだろ……だいたい僕のほうが昨日は大変だったんだぞ……一番働いた僕を差し置いて温泉につかるだなんて……気の短い主なら処刑してるかもしれないじゃないか」
「ええ、ですので俺の主がエルネスティ様でほんとに幸せです」
そういってニッコリと微笑む。
『エルネ! エルネ! 僕も早く温泉に入りたいよ! 早く行こうよ』
「お前は何を聞いていたんだ! 動けないといってるじゃないか。あーもう、どいつもこいつもまったく、何で僕の周りにはこんなやつらしかいないんだよ」
そういって頭を抱えながらも、フレードリクに手伝ってもらいながら何とか着替えを終えた時、新たな客が部屋をノックした。
次に現れた人物は、小麦色の肌をしており、綺麗なアイスブルーの瞳とふわりとした感じの銀髪もつ愛くるしい顔をした少女であった。
「おお、さすがに目が覚めておったか。いやいや、そなたが倒れたときはさすがに慌てたぞ。お礼を言うのが遅くなったな。我が身を助けて頂いた上に、部下の被害はあったものの、貴殿の働きのおかげで最小限に留まった。このシーヴ・ブレンドレル。そなたに心より感謝の念を捧げる」
いきなり現れてシーヴはここまでの言葉を一気に言ってのけた。
そして、どうだ? わたしとて、自分でこれくらいのことは言えるのだぞ! と言わんばかりに胸を張る。
さすがに公女殿下がいきなり現れて面を食らった上に、このなんともいえない態度だ。
思い切り困惑した二人の少年。そして、その後ろでは額に手をやり頭を悩ませているクリスティーナが見える。
本来であれば、まずエルネがある程度、体を動かせる頃合を見計らい、従者であるクリスティーナとフレードリクを通して、簡易ではあるが謁見の形をとって、改めて御礼を言うのが礼儀として正しいのであるが、シーヴのわがままに押され、クリスティーナはまず自分が、彼らの部屋を訪ね、体調を聞き許可を得ようとしたのだが、シーヴはノックと同時に部屋に飛び込んだのだ。
貴族社会において、目上の者が目下の者の部屋を訪ねるというのは、よほど親しい関係や招待されない限り良しとされない。
例えば国のトップである国王が、日ごろの部下を個人的に労おうと、部屋を訪れた場合、まずその部下は恐縮してしまい、仕事が手につかなくなるだろう。
また個人的にひいきされていると、周りのものに映る可能性もある。
他にも様々な事情があるが、ともかく王族や公族などの明らかに身分の高いものが、それほど親しくない人物の部屋を訪ねるというのは、お礼を言うべきであっても、むしろ呼びつけることが大事なのだ。
ゆえに国王が部下に労をねぎらう場合は、謁見の場にて、その他大勢のいる前でその労を労ったり、あるいは催し物などのパーティなど開いて大勢を招待した上で、声をかけるのが普通である。
それ以外にどうしても個人的に言いたい場合は、人をやって自分の執務室なり何なりに呼び寄せて、声をかけるのだ。
子爵クラスや、男爵クラスともなればお互いが個人的にたずねても、特に思われることは無いだろうが、それが伯爵クラスより上の身分ともなると話は違ってくるのだ。
つまりシーヴのしたことはそういった過程や不文律を一気にすっ飛ばしたことになる。
それゆえ、部屋にいた少年達はどう対応して良いか分からず、思わず立ちつくしてしまったのだ。
そんな少年達を見ながらも、シーヴは今だ満足げな顔をしている。
そして、わずかな沈黙の後、フレードリクはあわてて膝をおり、敬礼の姿勢をとり、エルネはろくに動かない下半身を無理やり動かしたことによって、ベットから転げ落ちた。
「痛……た、大公女殿下に置かれましては、まさきゃきぃ」
そして思い切り噛んだ。
「お、おい大丈夫か? 無理はするな」
「大公女殿下。ですから、まず私が部屋の様子を尋ねて、改めてご報告すると申したではありませんか。それをなんですか。相手の返事も聞かず殿方の部屋に飛び込むとは! 大公様が聞いたら卒倒されます! ましてや、大公女殿下がいきなり部屋に現れれば、誰だって、このように慌ててしまうのは必然です。まったく……ヴィクセル様、大丈夫ですか?」
最後にヴィクセルに声をかけたクリスティーナの言葉を聞いて、うなだれるシーヴ。
「だ、大丈夫とはいいがたいかな……と、取り合えず、何もご用意できませんが、椅子だけでもご用意させていただきます。フレードリク。大公女殿下に椅子をご用意して差し上げろ」
床にはいつくばりながらもなんとか、フレードリクに指示を出した。
「はっ、では失礼します」
そういって、敬礼の姿勢をとき、部屋にある椅子を用意する。
貴族御用達の宿なだけあり、部屋の作りは立派なもので豪華な絨毯にソファーが備え付けてあり、当然、高級な素材で作られている椅子などもある。
そのうちの一つ用意して、主人を助けおこし、ベットの上に再び上げた。
その間、シーヴがクリスティーナに睨まれ罰の悪そうな顔をしていたの当然のことだ。
「えっと……それでは改めまして、大公女殿下におかれましては、まさか我が身にお礼を言われるために部屋を訪れていただかれるとは、この不肖なる身としては至極光栄の至りにございます。未だ立ち上がれぬ身にて、非礼なのは重々承知しておりますが、どうかお許しくださるよう、慈悲を賜りたく存じます。また動けぬこの身に対して、このような計らいをしていただけることにも改めて御礼申し上げます」
「う、うむ。慈悲も何もそなたは私達を助けるために、そのような身になったのだ。感謝すればこそ、なにゆえ責めることが出来ようか。そのようなことをすれば、我が身は精霊から見放されてしまう。改めてそなたに感謝を捧げよう」
「過分なお言葉をいただき、この身は恐縮のかぎりにございます。大公女殿下にお怪我が無く。我が心も安堵しております。この上はどうか御身を大切にしていただけるよう」
「やめよ!」
シーヴが途中でエルネの言葉をさえぎる。
「は……?」
思わず間抜けな声がエルネから発せられた。
「昨日そなたは意識が朦朧としていたので聞いていなかったのかもしれないが、恩人にそのような堅苦しい言葉を使われるのは好かぬ。それにそなたは侯爵家のものであろう? なればもう少し砕けた口調を私は望む」
そのようなことを言われて、内心、ああそんなようなことも言っていたな。とエルネは思い出し、ならばそうしようと決めた。
「わかりました。ならば大公女殿下の望むようにいたしましょう」
いきなり口調を変えられて、少し戸惑ったが満足したように笑みを見せた。
「うむうむ、やはりその口調のほうがそなたらしい、私も遠慮なくそなたを名で呼ばせてもらうぞ、エルネ」
名前どころかいきなり愛称で呼ばれて、困惑顔になるエルネだが大公女殿下が、そうお望みであればと内心ため息をつくも、表情には出さない。
後ろで控えているクリスティーナの内心を、おして知るべしというところか。
「しかし、昨日の戦いぶりには私も目を奪われたぞ。ヴィクセル家は皆、あのように戦うのか?」
「うーんどうでしょうね、兄上とはいくつか手合わせをしたこともありますが、実戦はさすがに見たことはありませんし」
「ふむ、そうなのか。いや、ほんとに感謝してもしきれないぞ。王都には使いをやってエルネの到着が遅れる旨をしたためたゆえ、ゆっくりと休むが良い」
「それは大変ありがたいですね、温泉の街に来たのにもかかわらず、温泉に入れないなんてさすがにつらいですから」
「なんだ、その程度のことか。よし私に任せろ。エルネを私とクリスで温泉につからせてやろう。そなたの身の運びはデニスに任せれば問題あるまい」
もはやここまでと、とうとう我慢していたクリスが口を挟んだ。
「大公女殿下。その儀はなりません! まったく13にもなって、と、殿方と温泉につかるなどと……と、ともかく、なりません!」
わずかに顔を赤面させながら主をたしなめるクリスティーナ。
「ぬ……ふむ……駄目なのか? そういえばデニスと家で入浴しようとしたときもお父様に怒られたな……」
「当たり前です! 全く何を考えているのですか……そ、そういうことは今はしてはいけません」
「なら、いつならしてよいのだ?」
無邪気にアイスブルーの瞳を向けられ、答えにつまるが、救いの手が別のところから現れた。
「大公女殿下、僭越ながら発言の許可を頂きたく思います」
クリスティーナと同じようにここまで黙ってみていた、フレードリクだ。
「許す。発言せよ」
「は、恐れながら、淑女というものは肌をむやみに男性に見せる事は良しとされてはおりませぬゆえ、あまり褒められた行為ではありませぬ。ましてや大公女殿下ともなれば余計、その礼儀が求められます。やがて、どういうときに肌を見せるべきか、自然と身につくでありましょうから、その時までご自愛くださるようお願い申し上げます」
フレードリクに言われて確認の目線を思わずクリスティーナに向けるシーヴに対して、クリスティーナはうなずいた。
「ふむ……そういうものなのか……わかった。ではそのときが来るまで我慢しよう。エルネいずれ一緒に湯につかろうではないか」
「は……?え……あ、そ、そうですね……」
エルネはそういうのが精一杯だった。
「さて、あまり長居して体を悪化させては元も子もないからな我らはこれで失礼しよう」
そういって部屋からクリスティーナと共に出て行くが、部屋を出るさいに、クリスティーナが視線をわずかにフレードリクに向けて感謝を表した。
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嵐のように来て去っていった部屋で二人の少年は、呆然とする。
「なんか……とんでもない殿下だな」
ぽつりとエルネがつぶやく。
「ええ、さすがに私も面を食らいました」
「というか、あの歳で一緒に湯につかろうなんてさすがに驚いたぞ」
「よほど大事に育てられてきたのでしょう。男に対して警戒心がありませんね。あれは王都で苦労なさることでしょう。クリス殿の悩みが増えそうですね」
「……お前、悪い癖を出していないだろうな?」
「はて? なんのことですか?」
「とぼけるなよ。領内にいたとき散々、年頃の女性を相手にしてきたくせに……まさか大公女殿下のお付きの侍女にまで色目を使っていないだろうな?」
目つきをわずかに細めて、フレードリクを見据えるエルネ。
「心配入りませんよ。今のところ脈なしですから」
「何が心配入りませんよだ! 思い切りモーションかけてるじゃないか!」
「健康的な男子であれば、手の届く可愛い子がいれば口説くのが当たり前じゃないですか。大体エルネスティ様のほうがおかしいんです。領内にいたとき、どれだけの同じ年のころの女性が貴方に視線を向けてたと思っているのですか。普通なら1人、2人抱いてもおかしくは無いですよ」
「好みの女性がいなかったんだよ。それに僕はお前ほど器用に火遊びなんて出来ないしな。まったく一夜を共にして円満に関係を断てるやつなんてお前くらいなものだよ。兄上だって呆れるほどだって言うのに」
「お褒めに預かり恐縮ですがね、エルネスティ様。貴方の好みとやらをお聞きしたいですね」
「お、お前には関係ないだろ……」
「いーえ、従者として把握しておく必要があります」
「いや、関係ない!」
「……まあ予想はつきますがね……」
そう言われて、わずかに赤面するエルネ。
そして沈黙するエルネを見ながらニヤリと意地の悪い笑みを見せ、さらに続ける。
「赤茶色の髪で年上の女性が好みなのでしょう? 9歳ほど離れていればなお、よしというところですか?」
図星を指されて、さらに言葉に詰まる。
「べ、別にエドラが好みだなんて一言も言っていないじゃないか……」
語るに落ちたとはこのことだが、フレードリクはあえて突っ込まずため息だけを吐き、主のために朝食────とはいえない時間だが────を運ぶため部屋を出た。