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手紙  作者: 人見 庭
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蜩の聲に旅立つ

 この基地は九州でも端に在る。だから梅雨も早く来て早く去る。それなのに夏ばかりがだらだらと居座つて、良い加減にしろと怒鳴りつけたく成るほどだ。

 随分と可笑しなことを云ふやうに成つたと思つてゐるだらう。あゝさうさ。私の頭はすつかり此処の気候に遣られて仕舞つた。毎日毎日脳まで茹だるやうだし、思考は何れも彼れも湿気て使い物に成りやしない。今ならおまへとどんな問答をしたつて負ける気がする。それどころか、どんな秘密だつて、うつかり漏らして仕舞いさうだよ。

 だがそんな無様を晒すことは無いだらう。この手紙が、おまへと話す最後の機会になるのだからな。

 驚くなかれ。私は明日の朝出撃する。この短い夜が終はつて天頂に日が昇る頃には、私は空高く舞つて、玄界灘を見下ろしてゐるのだ。敵艦に大穴を開けるか、せめて敵機と正面衝突出来れば良いのだが、私の操縦では海に落ちるのが関の山かも知れぬ。

 何故私が特攻するのか知りたいか。何、単純な話なのだよ。私の隊に一人将来有望な少年が居てね、有望過ぎて出征前に子供を作つて来て仕舞つた。尤も、妊娠の報せが来たのは既に彼が特攻に志願した後だつたのだがね。それが、産婆の見立てによれば今日明日が出産だと、かういふ訳だ。

 誰だつて、自分の子が産まれるといふ日に死にたくは無い。会ふことは叶はずとも、無事産まれたといふ報せだけ待つて死にたい。彼は涙を流して云ふのだよ。母と成る人も、死んだ男の子供より、本の少しの間でも父と呼べる男のある子を産むほうがずつと良いだらう。

 しかし出撃機の数は決まつてゐるからね、操縦士が一人足りないなんてことに成つたら私が上から大目玉を喰らう。今から別の者に覚悟しろと云ふのも酷な話だ。だからまあ、仕方無し、明日は私に任せろと、胸を叩いて見せたのサ。

 何、私だつて、隊に居る以上は何時出撃しても可笑しくは無かつたんだよ。その爲に、家族への暇乞いを配属前に済ませて置いたのだから。

 だからと云つて他人の子の爲に死を早める道理は無いだらうと、云ふ者も在るがね。この出撃はそんな物ぢや無いんだ。永遠に子供を持つことのない私のやうな人間が、明日の世に命を繫ぐ者の爲に本の少しでも役に立つ、その機会を、最後の最後に与えて貰つたといふだけなんだ。決して、犠牲とか献身とかいふ物では無いのだよ。

 おつと、本当に口が滑つて仕舞つたぞ。ついに私の頭は茹だつて可笑しく成つて来た。だがもう遅い。この上は全て書いてやらう。狂人の戯言だと思つて、読み飛ばして忘れて欲しい。

 私は子が作れない。如何してつて、理由は簡単だ。私は女が抱けんのだ。抱きたいと思つたことも無い。気味が悪いだらう。けれど仕様が無いのだ。世の中にはさういふ人間も居るのサ。

 あゝ、蜩が鳴き始めた。もう直に夜が開けるだらう。この手紙を書いてゐるのは窓辺に在る文机でね、夜空が東から白けて行くのが良く判る。先刻まで満天に瞬いてゐた星々も、今にも消えて仕舞ひさうだよ。こんな明け方の猫の目のやうな三日月を、一度、おまへの腕の中から見てみたいとずつと思つてゐた。

 さようなら、愛しき友人よ。何時か平和に成つたなら、操縦を覚えてこの辺りを飛んでみると良い。空から見る海は、恐ろしいほど美しい青をしてゐるぞ。

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