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手紙  作者: 人見 庭
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春の日昼夜を分かつ

 遠くで雷鳴の聲がする。春の嵐といふ奴だ。此方では疾うに桜が咲いてゐてね、今日も訓練の間中桜吹雪が凄かつた。けれどこの風雨では、吃度明日には粗方散って無くなつて仕舞ふだらう。

 実を云ふとね、大學に来て、私がまず驚いたのは桜だつたのだ。卯月朔日の入学式、赤門から講堂に向かふ道はずつと、両腕に花篭でもぶら下げて歩いてゐるやうだつた。白く光る花鞠のやうな花も、風吹く度に舞い落ちる雪のやうな花弁も、何も彼も眩しくて仕方無かつたよ。おまへのやうな無粋な男は、どうせそんな物ひとつも覚へてやしないのだらう。

 しかし、おまへは聲だけは良かつたな。音痴の癖に宝の持ち腐れと皆口々に云つてゐたぞ。それでも美聲には違いないから、おまへが喋ると誰でも不思議と耳を傾けて仕舞つた。私も良く覚えてゐるよ、あの下手糞な仏蘭西語の朗読を。敵性言語に成つちまつて難しいかもしれないが、この手紙を読んだなら、ひとつ、あの時の詩を朗唱して呉れないか。小さな聲で良い。何だか女々しい気分の、確か、春を惜しむ詩が在つただらう。あれは吃度この桜吹雪に良く似合ふ筈だ。

 私の故郷では、桜が笑ふなんて卯月も随分遅く成つてからのことだつた。しかも、満開に成るには皐月まで待たなけりやならない。花ももつと小さくて、花弁の桃色が濃く滲んでゐた。それが咲く頃にはもう田植えが始まつてゐるからサ、のんべんだらりと桜見物なんざ出来た年は無かつたよ。

 ところが大學はどうだい。花の命は短いつてんで教授連も目を瞑つてゐるのか、やれ新入生だの進級だの留年だのと、学生らのお祭り騒ぎと云つたら夜も寝られた物ぢや無かつた。勿論私も騒ぎに担ぎ出されたがね、正直、飲めないおまへが心底羨ましいと思つてゐたサ。私ほどの酒呑みだつて、あんな乱痴気騒ぎで飲む酒なんて甘くも何とも無い。

 そうさなあ。夜半、不忍池あたりの桜の下で、おまへと並んで飲む酒ならどんなに甘かろう。白い花弁越しに見る月は、どんな安酒だつて甘露に変へて呉れただらうよ。何、おまへは水でも啜つてゐれば良い。月は酔漢も素面も区別しないだらうから。

 あゝ、あの頃なら、そんな夜桜見物何時だつて出来たのに、私たちは一度たりともそうしなかつた。もう、このまま一生無いのだらう。

 何時でも出来ると思つてゐて、機を逸して仕舞ふ物のなんと多いことか。二度と手に入らなく成つてはぢめて悔やむのだから、人間とは何とも愚かな物だと思はないか。

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