6・殲滅
レドは直立していた。二本の足で床を踏み、構えもせずに立っているだけである。
その手には何も握られていなかった。空手だった。
にもかかわらず、傷は負っていない。徒手空拳、構えもせずに暗殺者と対峙して無傷でいる。
メーガンが見たとおり、彼に相対しているのは暗殺組織の幹部である。眉一つ動かさずに人間を殺すことのできる暗殺者たちを束ねる者だ。その実力のほうも、相当なものがある。若い力というものにはさすがに欠けるだろうが、老練な技術、老獪な戦略をもって確実に目標をしとめている。今回もそうなるはずであった。
だが、レドは生きている。幹部であるはずの、暗殺者は動くこともできない。頭に巻いた黒い布の隙間から長い白髪が漏れ出ていた。
メーガンは、この白髪の暗殺者の名を知らない。教えられることもなく、知ろうとも思わなかったからである。
白髪の暗殺者も構えていない。その手に長剣を握ってはいるが、だらりと垂れ下がっている。今すぐに使用される気配はない。
睨み合っている、といえば聞こえがいい。だが、互いに殺気も飛ばさずにただ見詰め合っているだけというほうが近い。
メーガンにはわからない。
二人が何を考えているのか、まるでわからなかった。
二人ともが、構えも取らずにかつ、攻撃も仕掛けずにいる理由がわからないのである。
レドと白髪の暗殺者は、互いに殺意を抱いていた。ただ単に、呆けているわけではない。
だが、二人ともが棒立ちである。殺意を抱きながらも、棒立ちである理由が存在する。
その理由は、二人ともが毒使いであるというところに起因している。毒の王であるレドは毒の使い手である。一方の白髪の暗殺者も、毒の研究をしている。これまで仕事に毒を使うことも多かった。
その毒の知識と技術に二人ともが自信をもっており、必ず相手を毒殺できると確信していた。
白髪の暗殺者は、率いてきた二人の暗殺者がメーガンに倒されたためにレドの前に姿を見せた。しかし、それ以前から彼は城内に毒を持ち込み、振り撒いていたのである。
その毒は無味無臭というに近いものであったが、毒の王であるレドはそれに気づいていた。
毒使いである二人は、この毒に対しても免疫がある。常人の致死量を超える毒を吸引しても、戦闘を続行できるだけの耐性があった。とはいえ、その毒を完全に無効化しているわけではない。どれほど鍛えようとも人間である以上、レドも白髪の暗殺者も毒を吸い続ければ倒れてしまう。
つまり、白髪の暗殺者はレドが毒で倒れるのを待っているのである。
自分のほうこそがより毒に対して免疫があると信じているゆえに、彼は相手に攻撃を仕掛けない。うかつに攻撃を仕掛けることは体力を消耗することにつながり、ひいては先に倒れることになるために控えているのだ。
かといって完全に緊張を解くことも当然、してはならない。相手の不意打ちにそなえながらもできるだけ体力を消耗しない姿勢を保って、敵が毒で倒れるのを待つ。そういった戦略だった。
一見、時間がかかるだけの愚かな策ではあるが、それだけ白髪の暗殺者は毒を扱う技術にかけては自信があったのである。
毒の王であるレドは敵のその戦略に気づいている。しかし、彼も自分の技術には自信があった。ゆえに、相手と同じ戦略を採用した。そのため、レドと白髪の暗殺者は棒立ちになってお互い見つめあうということになったのである。
白髪の暗殺者は、毒の王がそうするであろうと予想していた。
仮にも『毒の王』と名乗るほどの毒使いなのであるから、当然にして毒の扱いにただならぬ自信をもっているだろう、と彼は考えていた。よって自らのほうが毒に対して免疫があるということを示すために、この『誘い』にのってくることは間違いない。
この状況を、白髪の暗殺者は誘ったのだ。
毒の使い手だけがわかる、勝負への誘いであった。それに毒の王は応じたのだ。
そのことに対して、白髪の暗殺者は安堵していた。この状況になりさえすれば勝てると信じていたからだ。手に握った長剣はだらりと垂れ下がっているが、わずかでも毒の王が弱まった兆候をみせれば即座にその胸を突き殺せる。
彼が振り撒いた毒は、ある高山植物の根に蓄積される神経性の猛毒である。抽出した毒を蒸散しやすい液体に溶かし、城内に撒いた。常人なら十五分で体の自由が効かなくなる。
部屋は換気窓もなく密閉状態であるため、毒に強い暗殺者といえども影響は免れない。毒の王にしてもそうである。
裏切りと血の暗殺組織を束ねる幹部の一人である白髪の暗殺者は、当然その戦闘技術に関してもそこらの者とは比較にならない。若さはすでに失っているものの、それでも正面からメーガンを打ち負かすことくらいはできる。そのくらいの実力はある。
毒の王と、正面から切り結んでも勝つ自信が彼にはあるのだ。しかし、それをしたくはなかった。毒使いとして、毒の王を打ち負かすいい機会だと彼は考えたのである。
ゆえに、わざわざ毒を撒いた。自分自身も少なからず影響を受けることになるというのに、だ。
メーガンの存在は、無視されていた。
暗殺者二人を倒した実力者で、敵となったかもしれない存在だというのに。これまでの様子を見るに、毒の王とそれなりの信頼関係を築いていると考えられる。それでなくとも暗殺対象と会話をし、殺しもせずに殺されもしないという時点でメーガンの存在は暗殺組織から切り捨てると決めていた。ゆえに、排除するべく暗殺者を一人差し向けた。
明らかにメーガンは、既に敵であった。にもかかわらず、白髪の暗殺者は彼女に注意を向けていない。
白髪の暗殺者は、メーガンが自分を殺すことはないと確信していた。
それはなぜか。赤子のメーガンを拾ったのは、彼自身だからである。幼子を拾って育てて、暗殺者として仕立て上げたのは暗殺組織である。その組織の幹部である。子供が親を殺そうとするのと同じくらいに、ありえないことだと考えていた。
親殺しをする子がいるように、これまで幹部に武器を向けた恩知らずもいないことはなかったが、それも今回の場合はありえなかった。そう考える理由のひとつが、メーガンに植えつけた記憶だ。
彼女には恩を感じさせてきた。毒物を扱う彼にとって、人の心を揺さぶることは簡単なことである。興奮させたり、落ち着かせたりといったことは少量の薬品で簡単にできる。あとは、それを適度に行うだけでよかった。
厳しい訓練のあとに、ほんの少しだけ薬を仕込んだものを食わせるだけ。強く恩を感じさせたり、帰属意識を高めたりする効果がある。
そうしたことは、当然のように行われてきた。白髪の暗殺者は長年にわたって行ってきたそれを罪とは全く感じていない。
人の心を揺さぶることも含めて、すべては訓練であり教育であった。そうして、暗殺という任務に何の疑問も抱かずに突き進む者ができあがるのだ。
友人、あるいは自らに優しくする者を裏切ることを罪とも思わせぬように煉獄のような環境をつくりあげながらも、自らの帰属する『暗殺組織』への反逆は決して行わぬように調整する。そのようなことを、薬物の力も借りずにどうしようというのか。
試行錯誤をしながらも白髪の暗殺者は、メーガンのような優秀な暗殺者に対して細かな調整を行っている。ゆえに。
彼は、メーガンが自分を刺すとは全く予想していない。
メーガンと顔見知りであるはずの暗殺者二人が、メーガンに刃を向けることをためらわなかったように。メーガンには白髪の暗殺者と戦うという選択肢さえも考え付かないはずであった。
そうした考えで、彼はメーガンを無視しているのである。
悪いことに、白髪の暗殺者のそうした考えは全て実際にその通りになっていた。
メーガンは、動けなかったのである。
どちらを攻撃するべきか迷った、というよりもどうしていいかわからなかった。暗殺者が自分を狙って剣を振るったのだから、もはや暗殺組織は自分を見捨てたのだと理解するべきであり、彼らとは決別するしかないということは少し考えればわかることである。だが、メーガンはそうしたことがわからなかった。
馬鹿だから、というのではない。
暗殺組織が彼女にとって、帰属するべき組織だからである。他に帰る場所が、彼女にはないのだ。
追い出されれば、死ぬしかないと本気で思っている。だから、考えられないのだ。暗殺組織が自分を切り捨てたということを。自分が生きるには組織に剣を向けるしかないということを。
このような次第で、メーガンは勝負に介入できない。その場でただ、知らず知らずの間に白髪の暗殺者が撒いた毒を吸うだけだった。
毒の王は、数多くの毒物を研究しているはずである。
だが、人間を殺すことのできる毒のことであるなら、それを専門に研究しているほうがより知識が深い。撒いた毒に対抗するための薬も持ち歩いている。
撒いた毒は、解毒剤をつくりだせない毒だ。せいぜい、対症療法をとるための薬を与えるくらいしか延命の手がない。解熱剤と水分をしっかりと補給させ、本人の体力をできるだけ消耗させないようにしながら身体が毒を排出するのを待つだけが治療手段という毒なのだ。現在のところ、都にいる薬師や医師の誰に聞いてもそうした返答があるはずだ。
だが、この白髪の暗殺者はこの恐ろしい神経毒に対する抵抗剤を作り上げていた。あくまでも抵抗剤であり、解毒剤ではない。しかしこのような状況では十分に自分を有利にしてくれる。
自分だけがこの毒に対抗する薬物の存在を知っている。
ゆえに、この勝負は勝った。
白髪の暗殺者はそう信じており、実際に彼と対峙した毒の王は、この毒に気づいてからも何か薬品を口にした様子はない。それはつまり、毒の王は抵抗剤の存在を知らないということであった。知っていればこの状況で、口にしないわけがないからである。
毒の王はさまざまにすべきことがあり、毒の研究にばかり時間を割けるわけではないのだろう。後は、その身体が崩れ落ちるのを待つだけだ。
そう考えて、彼は待っていた。それでも最大限に毒を吸わないようにしながら、毒の王が毒によって弱まるのを待っていた。
こちらを見ていたメーガンには既に、毒の影響が如実に出ている。彼女は立っておれずに座り込み、息苦しそうに胸を押さえていた。毒にかなりの耐性をつけているはずのメーガンをしてそれであるから、毒の王も苦しくなっているはずである。
白髪の暗殺者は抵抗剤を飲んでいるにもかかわらず、徐々に膝から力が抜けていくのを感じていた。時間が経ちすぎたのかもしれない。だが、抵抗剤を飲んでいない毒の王は自分以上につらいはずである。
毒の扱いにかけては自分以上のものはいないと信じる彼にとって、ここで退くことはできなかった。毒の王を殺すのは、自分であると執念を燃やす。
彼は耐え、足を踏みなおして毒の王の様子をつぶさに観察した。敵もつらいはずであった。
そして彼の辛抱がついに実を結ぶ。
毒の王が、ついに立っていられなくなったのだ。直立の姿勢をくずし、よろめいたのである。
この瞬間を、白髪の暗殺者は待ち望んでいた。即座に握っていた長剣を、研鑽されつくした動きですべる様に突き出す。
切っ先は流れるように毒の王の胸元に吸い込まれていった。
確かにその瞬間、刃が胸元に食い込んだ。血飛沫が散って、刺された男は驚愕に目を見開く。
床に武器が落ちて、澄んだ音をたてる。
それに少し遅れてから、男の身体が崩れ落ちた。
毒の王のレドは、倒れた男を見下ろす。刺されたのは、白髪の暗殺者だ。驚愕の表情を浮かべたまま、息絶えている。心臓を貫かれたからだ。
倒れた死体から、血だまりが広がっていく。レドは彼の死体を見下ろすのをやめて、すぐにメーガンに近づいた。白髪の暗殺者によって毒が振り撒かれていることを、レドは当然知っていた。強力な毒物なので、真っ先に心配するべきはメーガンの容態であった。
「動けるか」
確認のために声をかけるが、返答はない。
仕方がない、とばかりにレドはメーガンを抱えあげる。意外に重かった。
そのままメーガンに貸し与えた部屋に行き、寝台に彼女を横たえる。レドは彼女の口に丸薬を入れ、水で流しこんだ。
丸薬は、解毒剤だった。
ただし白髪の暗殺者が撒いた毒に対する解毒剤ではない。それは、『レドが撒いた』毒に対する解毒剤だった。
白髪の暗殺者が毒を撒いて持久戦を挑んできたことに気づいたレドは、別の毒を彼に気づかれぬように撒いた。その毒は、『毒の沼』から精製した猛毒であり、毒の王であるレドだけが知っている毒だった。当然ながら、白髪の暗殺者がどう毒を研究しようがこの毒の存在を知りえるはずがない。
ゆえに、白髪の暗殺者はこの毒に対する免疫をもっていなかった。レドはこの毒に対する免疫訓練を行っているために彼よりも長く耐えることができたのである。
あとは白髪の暗殺者の撒いた毒の影響が本当に出る前に、こちらの毒が彼を弱体化したところを見計らって、弱った振りをするだけでよかった。そうすれば彼のほうから勝手に攻めてきてくれる。あとはそれを返り討ちにするだけだ。
レドのこうした戦略は成功した。
白髪の暗殺者は老獪な男であったが、毒の王のレドはそれ以上に狡猾であったといえる。
この争いを間近で見ていたメーガンが弱ったのは、主にレドの撒いた新たな毒の影響による。
こうなることはわかっていたが、白髪の暗殺者が撒いた毒はこれ以上に強い毒であったので仕方がなかった。解毒剤があるので彼女の命にかかわることはないと確信していたが、複数の毒や薬を同時に取り入れるのは身体にあまりいい影響を与えない。
メーガンをそのまま休ませることにした毒の王レドは、撒かれた毒や暗殺者の死体を処分するために部屋を出た。
彼が部屋を出て扉を閉じると同時に、メーガンは目を開く。
最初から意識を失っていたわけではない。息苦しくて目を閉じていたら、抱きかかえられたので何を言っていいのかわからず、結局そのまま意識がない振りをすることにしただけである。
飲まされた丸薬が何であるのかはわかっていなかったが、毒ではないだろうということは理解していた。
今更になって、彼が自分を毒殺するということはないだろう。休戦協定の期間が切れたとはいえ、そのようなことをするくらいならこちらが襲い掛かった時点でもう返り討ちにされている。
幹部であるはずの、白髪の暗殺者が討たれた件については特に何の感傷もない。
自分を殺そうとしたのだから、死んで当然だという思いがあるだけだ。つらいとか悲しいとかいうことはない。
このあたりは、仲間の死に慣れすぎたせいかもしれない。
しかしレドは、暗殺組織の仲間とは違う気がしていた。
彼が死ねば自分は、多分怒るだろう。悲しみもするだろう。会ってからまだほんの一日か二日くらいしか経っていないが。おそらく彼が私のことを、何度も助けてくれたから。
レドは、既にメーガンの中で大きな地位を占めつつあった。