5・襲撃
レドが立ち上がった。汚れた皿を持って、どこかへ移動するようだ。
「食器を洗ってこよう。その間に君は湯浴みでもするがいい、気分が変わるだろう」
思いがけない言葉が、メーガンに向けられた。おお、とメーガンは呻いて椅子から立ち上がる。
「湯が使えるのか」
「ああ」
頷くレドは、浴室への道順を簡単に教えてくれる。
暗殺者のメーガンは昼間にずっと、汗まみれで走ってきていた。毒の王の城に風呂があるというのは知らなかったが、ありがたいと思える。
レドが部屋を出て行くのを見届け、早速教えられたとおりに城の中を走った。
下りの階段が見える。それを下りると、蒸し暑い。かなりの量の湯が沸かされているようだ。
通路の先に、扉が見える。それをくぐると、脱衣所らしき場所がある。かなり暑くなってきた。
その先にある引き戸を開けてみると、大量の湯が沸いていた。浴室全体が、まるで豪邸の庭のように広い。
見ているだけで気持ちが癒されるような、いい浴室だと思える。メーガンは服を着たままで中に入って、湯に手を入れてみた。少し熱い。どうやら、地熱で湯を沸かしているのだと考えられた。どういう構造でそのようなことを可能にしているのかは不明だが、そのようなことは気にしても仕方ない。
湯の深さはメーガンの太ももの辺りまで、広さは泳げそうなほどだ。端から端まで歩いてもたどりつくのに一分くらいかかるだろう。
何か薬品が入っているのか、少しだけ肌にからむような湯だった。
メーガンは脱衣所に戻って服を脱ぎ、湯を浴びる。存分に汗を流すことができた。
湯の中に身を沈めると、自然に息がもれてしまう。表情も自然にゆるみ、力が抜けていく。
笑みを通り越して腑抜けたような顔を無防備にさらしながら、湯の中へとろけるように身を任せた。顔を洗ってみると、それだけで気分が一層よくなる。疲れが流れ落ちていくようだ。
暗殺者のメーガンの素肌はお世辞にも美しいとはいえない。戦闘や鍛錬でできた傷が体中についている。
腕は太く、短剣を握り続けた手のひらの皮膚は硬くなっている。メーガンが今まで見たきた王族の女性の、卵の殻のような乳白の肌とは比べられもしない。
しかしメーガンは、自分が女性であるということをほとんど意識していなかった。女性である前に、暗殺者であると思っているのだ。
少し前までは暗殺のための都合上、娼婦のふりをして標的に近づこうと考えることもあった。が、そうした方法を採用すると必ずといっていいほど見破られて危機に陥ったのである。女性らしい振る舞いなどまったく教えられてこなかったメーガンには無理な作戦だったといえる。
そうした経験を繰り返すうちに、メーガンは自分の性別を意識することをやめてしまった。もとより、暗殺者が男か女などということは些事であり、結果が出たかどうかのほうが何十倍も重要であった。その結果をメーガンは出していたので、わざわざ女性であることを利用する必要も薄れ、意識することもなくなっていったのだ。
こうした悩みを抱えていたのは彼女だけなのかといえば、そういうわけでもない。暗殺組織にはメーガン以外にも女性がいた。子供のころから地獄の鍛錬をさせるためか、発育の早い女性のほうがむしろ多く生き残っていたくらいである。
しかし、その中でも顔立ちが整っている女性は、他の子供たちとは引き離されて別の訓練を受けることになっていた。メーガンと同時期に組織に拾われてきた子供の中にも、別の訓練を受けることになった女性がいる。
あの子はおそらく、女性であることを生かした暗殺術を叩き込まれることになったのだろう、とメーガンは想像している。メーガンたちが互いに殺し合い始めたころに引き離されたが、まだ顔と名前、性格も思い出せる。
昔の友人の顔が、メーガンの心に浮かんだ。彼女はまだ生きているだろうかと考えてみる。
同時期に拾われてきた子供たちは少なくとも最初、三十人近くいたはずだ。しかしながら毒の王暗殺任務をメーガンが受けるころには、その三十人の子供は二名に減っていた。一人はメーガン。もう一人は自分の地位を脅かす後輩たちを何人も手にかけ、疑心暗鬼の中でぎりぎり生き延びている。最近はメーガンが話しかけてもまともな受け答えをしていない。こうした事情を考えると、生きている可能性はかなり低かった。訓練の途中で命を落としたか、あるいは暗殺任務に失敗したか、仲間に殺されたか。理由はいくらでも考えられる。
メーガンは黙って湯の中で体を倒し、背を伸ばした。天井を見上げてみると、淡い光を放つ灯が見える。
昔のことを思い返していたせいか、いつのまにか視界がぼんやりとしてきていた。
暗殺者のメーガンは毒の王を倒すために、死を覚悟していたはずだった。
そうして毒の王と対峙し、まだ、自分も標的も生きている。どういうことなのかと、暗殺組織が怒り狂うかもしれない。
だがもう、それすら些事に思えてきた。
殺して、裏切りを繰り返して、それでも生きている。生きているということが、それだけでどれほど尊いものかメーガンは知っている。
知っているつもりだった。
汗を流して湯からあがったメーガンは、着替えが用意されていることに気がついた。
自分が着ていた暗殺者の衣装もそのまま置いてあった。しかし長旅と汗で汚れきった服を着なおすよりは、用意された服を着るほうがよいと思ったので特に抵抗もなく用意された着替えを手に取る。
服を着込んでみるが、ローブだった。動き回るにはあまり向かない、ヒラヒラとした装飾の多い服であると感じる。青と白で衣装を凝らされたものである。
装飾が多いとは思ったが、つくりは意外に頑丈で、決して見栄えだけを優先した服ではない。多少は色あせたり、端が擦り切れたりしているが問題なかった。着込んでから軽く跳躍してみるが、このまま戦闘となってもそれほど問題なさそうだ。
暗殺者の衣装から短剣を抜いて、腰に差す。これだけあれば、メーガンは戦闘に困らない自信があった。
気分はかなり落ち着いている。疲れがとれたといってよい。
メーガンは食事をした部屋に戻ろうとしたが、階段の先からレドが下りてきた。
「もう上がったか、気分はどうだ」
彼は淡々とした調子でそう声をかけてくる。メーガンは頷き、いい湯だったと返答した。
「おかげでだいぶ落ち着いた。このまま寝台に入ればよく眠れそうだ」
「ああ、そのまま眠るといい。玉座のある部屋からまっすぐ出て、二つ目の部屋を用意した。遠慮なく使うがいい」
「なんだかすまないな」
「気にするな。あの服は洗ってもいいのか。明日の朝までには乾くだろう」
その質問に頷くと、レドは服を回収にいくのか自分も風呂を使うつもりなのか、そのまますれ違って階段を下っていった。
メーガンはその背を見ながら、レド一人しかいないはずのこの城に、このような衣服があることが不思議であることに気づいた。ローブはあきらかに女性向けの採寸がされている。
しかし気にしてはいけないと思い返し、言われたとおりの道順をたどって今夜の寝床へ歩くことにする。
決して、胸の辺りの布地が余っているような気がしたから追究をやめたわけではない。
それにしても、晩餐と湯までもらっておきながら、この上まだレドを殺さなければならないと考える自分は、相当に嫌な人間だと思える。メーガンは、暗殺組織を裏切ることをまだ考えもしていない。毒の王を、殺すべきであると信じていた。
用意してもらった部屋は、綺麗に清められている。メーガンはそこで一夜を過ごす。
翌日になっても、結局レドは現れない。
メーガンとしてはてっきり夜にレドが部屋にやってきて説得を試みてくるものだと思っていた。そういうことを彼は言っていたような気がするし、そうしなければ結局無為のまま休戦協定が期限切れとなってしまうからである。
もう朝なのだ。
メーガンは夕方に少し眠っていたにもかかわらず、かなり深い眠りに落ちていた。目覚めたときにはもう窓から光が差しており、日は高かった。
あわてて飛び起き、身なりを整えてから部屋を出る。疲れていたし、酒も飲んだし、これもやむないことかもしれないと考えながら、玉座のある部屋を抜けようとする。食事が用意されている気配があったからだ。
扉をくぐる、その一瞬。そこだった。
何かが下りてきた。殺意をまとった、黒い何かが自分の背後に下りた。
その殺意が自分に向けられていることを、メーガンは直ちに察知する。
察知した瞬間、メーガンは短剣を抜いて背後に切りつけた。
不思議なことに、「レドかもしれない」とは思わなかった。もう朝になっているので、休戦協定は終わっているはずなのにだ。
実際、背後に降り立った殺意の正体は、レドではなかった。
暗殺者だ。メーガンの暗殺組織にいた連中だ。間違いなく、自分と地位を争っていた暗殺者であった。
馬鹿な、と思わずにいられない。
メーガンは自分を監視する人間が存在することを、知っていた。少なくとも集落に入るまでは、誰かに見られていた。
それはメーガンの暗殺が成功するかどうかを見届けるためであり、またメーガンが敵前逃亡をしそうになったら始末するためである。だが、毒の影響下に入ったときにはその気配は消えていた。
さすがに彼らも自分が死ぬことになるのは嫌なのだろう、と考えていたのだが、彼らは職務に忠実にメーガンの姿を追ってここに来たらしい。
それでも疑問に思う点はまだまだある。しかしそれ以上、考えている時間がなかった。
殺意を向けられている以上、少し前までの味方であっても容赦はできない。そう心を決めたメーガンは短剣を繰り出す。
敵の暗殺者はその短剣を、同じつくりの短剣で防ぐ。表情に変化は見られない。
その暗殺者の顔に、見覚えはある。自分の地位を脅かしている後輩の一人だ。斜に構え、赤い長髪を指先にからめながら不敵に笑う姿をよく見かけた。メーガンよりも二つほど年齢が若いはずだった。名前もよく覚えているが、あえてメーガンはその名を呼ばない。呼ぶ暇もない。
無言で短剣を振り、突きこむ。敵はそれをかわし、防ぐ。
土色の髪の暗殺者メーガンと、彼女を殺そうとする赤い髪の殺意はそれでよかった。言葉も何も必要なかった。
どうしてこの暗殺者がメーガンに刃を向けているのか、などということはどうでもよい。自分を殺そうとしている存在である、ということがすべてだ。
死線にいるメーガンの判断基準は、敵か味方かという二択でしかない。それで十分であった。ほかの事は、終わってから考えるべきである。
しかし、戦闘はなかなか終わらなかった。
赤髪の暗殺者の腕前が、メーガンの予想よりもずっと高かったからである。何度かこの暗殺者とは模擬戦闘をしたことがあったが、これほどの腕はそのときに見せていなかった。実力を隠していたのだろう。
ほかに秘めたものがある可能性も大きかった。
攻めきれないために苛立ったのか、赤髪の暗殺者がするりと左手を懐へ入れた。隠してある武器を取り出そうとしたのかもしれない。通常ならここで何か秘策をつかわれるものだと判断し、後退して防御を固めるものだ。
だが、その一瞬を隙だと判断したメーガンは鋭く動いた。右手が踊り、赤髪の暗殺者の胸元を抉る。
勝負はそれで決まった。心臓を貫かれた暗殺者は、自分の胸に突き刺さる短剣を驚愕の表情で見下ろし、懐へ入れた手を出すこともできないまま、後ろへ倒れこんだ。恐らくはそのまま、二度と起き上がらないだろう。
仕留めたのである。メーガンは短剣についた血を払ってから、
「レド」
すぐに毒の王のことを気にかけた。
倒れた赤髪の暗殺者のことなどもう気にもせず、青白のローブを着たままで手に短剣を握って食堂へ飛び込んだ。彼の身を案じたからだ。無意識のうちに、彼女は急いでいた。
昨夕に食事をした部屋。
テーブルが倒れ、ワインの瓶も割れて床に赤い水溜りをつくっている。おそらく倒れる前のテーブルにはあたたかな食事が用意されていたのだろう。今は床にへばりついている有様である。もう食べられないだろう。
その惨状の脇に、レドはいた。暗殺者の一人と戦っている。
再び、多くの疑問がメーガンの頭のうちにわきあがった。だがそれらを考えるのは後回しにする。
メーガンはレドに打ちかかる暗殺者にも、覚えがある。名前までは知らないが、激戦を生き抜いてきた暗殺者だ。同じ組織の暗殺者から何度か襲撃を受けるも、すべて返り討ちにしたと聞いている。自分よりもしかすると強いかもしれない。当然ながら、それらの勝利も無傷のものではない。激戦で全身に刀傷を受けている。だが、その度に強くなった百戦錬磨の暗殺者であった。
そんな暗殺者が、レドに打ちかかっているのだ。
考えるよりも先に、体が動いた。二人の争いの間に、飛び込む。
暗殺者のメーガンは勢いのままに動いた。自然にその短剣は、刀傷の暗殺者に向けられる。
メーガンは、レドを護るように動いたことになる。
レドに背を向けたことになる。
休戦協定は終わっているはずだった。レドも敵となっているはずだった。
敵に、無防備な背を見せていることになる。
どうして、などとはその場にいる誰もが口にしなかった。態度がすべて、事実がすべて。何を考えていようと関係がなかった。
邪魔をするものはすべて、殺す。後の脅威になるものもすべて、殺す。それだけだった。
少なくともメーガンと対峙している刀傷の暗殺者にとってはそうだった。ゆえに、彼はメーガンを殺そうと短剣を振るった。
応じて、メーガンは短剣でそれを受ける。避けるなどということは無理だった。
技量は、ほぼ同等ではあった。この刀傷の暗殺者は普段から実力を隠してはいなかったため、メーガンは敵の使う戦術をある程度思い出すことができる。そのおかげで、どうにか敵の攻撃は対処できる。
毒塗りの刃が、メーガンに次々と迫ってきているものの、どうにかそれを追い払っていた。
毒の王、レドはこの様子を見てどうしているのだろうか。メーガンは彼に期待しながら少しだけ後ろを向く。
すぐに彼には期待できないとわかった。別の暗殺者がやってきていたからだ。
しかも、その暗殺者は幹部クラスの者だった。十九年前にメーガンを拾った悪魔のうちの一人だ。
いったい何がどうなっているのか、とメーガンは自分の思考が止まるのを感じた。手が止まる。
それを隙と見た、刀傷の暗殺者の鋭い短剣がメーガンに迫る。
すぐにメーガンも意識を戻したが、刃が迫る速度はすさまじいものだった。これをまともにくらってしまうと、死ぬしかなくなる。刃に塗られた毒は強力なものであり、たとえレドに診てもらったとしても回復することは難しいだろう。強力な毒薬、致死毒といわれるものだ。
メーガンは短剣で受けるには時間がないと判断する。ひざを振り上げた。体重移動も何もない、むちゃくちゃな動きである。
しかし、敵の短剣はメーガンの膝に叩かれて軌道をずらす。わずかに体の横を抜けていく短剣と、刀傷の暗殺者の腕。
メーガンは大きく体勢を崩しながらもそこに自分の短剣を突きこむ。これは、回避されなかった。血飛沫が飛ぶ。
刺した短剣を、わずかにひねる。
途端、敵は飛び跳ねるような痙攣を起こしてその場にくずれおちた。
痛覚神経をことさらに刺激し、激痛を与えた。というだけではなかった。メーガンはそこにある運動神経までもを強く刺激したのだ。結果、刀傷の暗殺者は反射的に痙攣を起こす。どのように訓練をしても決して逆らえない力で、その場に立っていられなくすることができるのだ。
メーガンが長年の裏切り生活の末に体得したこの技術は、他の誰にも伝えていない。模擬戦闘でも使ったことのない、とっておきだった。
倒れた敵にすばやくとどめをさし、メーガンは振り返った。