12・商談
瞬間、大量の羽音がその場に湧き上がった。耳障り極まりない、虫の羽音。
しかもひとつひとつが蚊や虻のような、小さなものではない。羽音は太くうなるようなものであり、明らかに大型の昆虫を浮かせるためのものだ。
それがその場に湧き上がった。大量にだ。
メーガンは咄嗟に隠れようとした。だが、その行為は無意味であることも悟っていた。
羽音に聞き覚えがあったからだ。毒蜂だ。ただの蜂ではなく、凶暴極まりない大型種。
レドがやったのは間違いない。
何かが壊れるような音は、恐らく溜め込んでいた毒蜂を入れていた瓶を投げつけた音なのだ。
この毒蜂はたやすく人間を殺傷する毒針を備えているが、この状況にもひるまず、暗殺者達はレドやメーガンに襲い掛かる。
しかし瓶から解放された毒蜂たちは不機嫌な様子で、手近な人間達に次々と襲い掛かった。暗殺者たちの目や髪、服にまとわりついて離れない。
蜂の大きさは、大人の親指ほどもあった。その巨体に供えられた針は、旅衣装をたやすく貫いてその肌に突き立つ。顔などを狙われた場合などは尚更である。
メーガンの周辺にも毒蜂は飛んでくる。
蜂は次々にメーガンを仕留めようとしていた暗殺者達をその針で刺していく。死をも厭わない暗殺者達はその激痛を感じているのかいないのか、それでもメーガンを殺そうとしているが、明らかに動きは鈍っていた。
メーガンも蜂に刺されていれば彼らの短剣をかわせなかったかもしれない。だが、不思議にもメーガンは蜂に刺されなかった。
まれに顔のあたりにまとわりつかれるが、マントで振り払うと逃げてしまう。
そのことに気付いたとき、まるで、自分が蜂の主人であるかのように錯覚してしまった。レドは蜂に攻撃対象を指示することさえできるのか、とメーガンは思う。
いずれにせよ、メーガンは動きの鈍くなった暗殺者達を次々とその短剣の餌食にした。蜂に刺されて早速顔が腫れあがっている暗殺者達は、次々と地をなめていく。
弓を握っていた暗殺者達も、それを引くことさえままならない。矢を放てたとしてもその弓勢など子供のおもちゃにも及ばない有様である。
蜂が相変わらず威勢良く羽音をたてている中、死体を見下ろしているとレドが近づいてきた。どうやら彼に群がっていた暗殺者達も全て毒蜂とレドの餌食になってしまったようである。
レドは死体も蜂たちもそのままにして、採取は終わったので早々に集落に戻ろうと言った。メーガンはそれに頷いて応じる。
余計な質問をしている場合ではないと感じたからである。
二人は薄暗い森を抜け、集落に戻った。
商人団が集落に店を出していた。露店である。
広場に藁を編んで作った粗末な敷物を敷いて、その上に売物を並べている。まだ朝早いため、商売の準備中だと思われた。営業時間ではないといえるだろう。
しかし、気のはやい集落の人々が何人か商人たちと会話しながら早くも値引き交渉をしているようだ。
レドは宿に戻ることもなく、彼らに近づいていく。メーガンもそれについていった。
彼らはそれぞれに雑多な商品を並べていた。
薬になるという植物の種も売っていた。薬師のレドがどういう反応をするのか、とメーガンは彼に目をやってみる。
その視線を気にすることもなく、レドは商人団と軽く言葉を交わした。内容は取るに足りないもので、先程暗殺組織に狙われたことなどおくびにもださない。
しかし、やはりといおうか昨夜の出来事については言及があった。
「あいつのせがれがあんたを狙ったとかいう話があったな」
「そうらしいね。ぼくは寝ていたからわからないが、うちの護衛とアダークでお仕置きをしてくれたそうだな」
気にしてないとばかり、レドはそんな返答をした。薬種を並べている男は、渋面を見せて唸る。
「お仕置きというかねえ。弓で射かけたとか言っていた。レド、あんたと俺たちの付き合いも結構長い。無理かもしれんが気を悪くしないでこれからもよろしく頼む」
「ああ、気にしていないからいいよ。こう見えて商売敵は多いしね。そのためにこっちの護衛を雇ったんだ」
軽く言って、レドはメーガンを片手で示した。レドの後ろに控えていたメーガンは、気まずく目をそらす。
「そんならいいけどな。したってよ、女の護衛なんて珍しいな」
「こう見えて強いんだ」
メーガンはむずがゆい思いである。確かに護衛ではあるが、先程の襲撃もほとんどレドが自分ひとりで撃退したようなものだ。何が護衛なものかと思わずにいられない。
「おいおいレド、隠さなくてもいいんだぜ。護衛なんて言っているが堅物のお前もついに嫁さんをもらったってわけなんだろう?」
薬種の隣で金物を扱っていた男が、そんなことを言う。
やはり女性の護衛というのは奇異であるらしい。レドがかなりの実力者であることもある。ラエニーを彼らの目の前であしらったのだろうから、レドが強いということは商人団もわかっているに違いない。
「なんだ、そうだったのか。レドの結婚祝いだ。今夜は酒でもやるか?」
薬種の男もその話にのって、笑みを見せた。
「残念ながらそういうわけではないな。この子と結婚するのも悪くないと思うが、彼女は晩熟でね。それより、アダークはどこにいる」
「アダークなら森の中だ。仲間を葬ってくると言ってな。集落の中ならまあ護衛はいらんだろうと思ったので行かせたよ」
「そうか」
「それで、商売の方はどうするんだ」
薬種の男が真面目な顔になって、問いかける。レドは頷き、荷物の中から採取した薬草らしきものをいくつか取り出した。
「融通できるのはこのくらいだな」
採取した全てではなく、その三割ほどを薬種の男に手渡す。その代金として男はレドに銀貨を五枚、銅貨を三枚返した。
「今回は良質のものだから、少し色をつけておくよ。だが俺としては材料でなくあんたの調合した薬のほうをもらいたいんだがな」
「ああ、その話は断ったはずだ」
「しかしな、あんたの腕は誰もが認めているが。あんたの薬なら都の方で高値がつけられる。金貨で買う奴もいるだろう、本当に売るつもりはないのか」
「前にも言ったがぼくの薬は日持ちしないんだ。この周辺で手堅く稼がせてもらう」
「それだもんな、うちらと一緒に来ればいいのに」
そんな会話をひとしきり続けた後、レドは薬種を売る男から離れた。
次に彼は商人たちの端のほうにいる、織物を売る男に近づく。そこに並べられた織物は麻から絹まで揃っていたが、さすがに絹は少量である。丈夫で安価な麻や必要十分にやわらかい綿のものが目立っていた。
その男は四十を超えているだろう、苦労を重ねたような皺をいくつも顔面に深く刻んでいた。その彼の隣に、両腕を縛られて罪人のような扱いをされている若い男が座っている。昨夜レドを襲撃した商人だ。
「待ってた、レド」
織物を売る男は、レドを発見するなり即座に頭を下げた。真摯なものだ。
いかつい顔からは想像もできないような姿だな、とメーガンはのんきに思う。
「このたびは本当にすまねえことをした。あんたは怒鳴ったり物に当たったりしねえ性質だからわからねえが、腹の中は煮えているに違いねえ。だが、俺はこうして頭を下げるくらいしかあんたに謝罪する手段がねえんだ」
「ビクス、やめろ。ぼくは別に怒ってない」
レドは両手を軽く開いてそう言ったが、ビクスと呼ばれた織物商は頭を上げない。
「だが、俺の息子が金のためにあんたの命を狙ったんだぞ。殺されても文句いえねえよ。恩義を忘れて私欲のために人様の命をとろうなんざ、商売人失格だ。そんな息子に育てちまった俺もだ」
「怒っていない、と言っている。そのために護衛も雇ったんだ。むしろ護衛が仕事をしてくれたんで彼女の能力がわかって安心したくらいだ」
「だがレド、あんたも商売人ならわかるだろう。あんたが許しても俺が許せねえ。償いをしなきゃ俺は恥ずかしくて商売できねえ」
ビクスは非常に真面目な性格のようだ。息子がレドに弓を向けたことが、真に恥ずかしいと思っているのだろう。息子への怒りはさておき、そんな性格にしか育てられなかった自分を情けなく思っているし、財産を投げ打ってでも償わなければと考えているに違いなかった。恐らくレドが死ねといえば、よろこんで死ぬだろう。
メーガンはビクスという商売人に興味をもった。利益のみを追求し、粗悪品を詐欺同然の手段で売りつけてなんとも思わない輩も多い中、ビクスは自分のやりかたに誇りをもっており、客を大事にする精神をもっているのだろうと思ったからだ。
レドとビクスの会話は平行線をたどっていた。なんとしても償いたいというビクスと、怒っていないから無用と突っぱねるレド。その足元では当事者である息子がうなだれている。
「レド」
そこへ、メーガンは声をかけることにした。レドが折れるべきだと思ったからである。落としどころを考えてやらねば、誰が間に入るまでこの二人は永久に話を進められないだろう。
「ビクス氏の謝罪を受け入れるべきだと思う。彼は自分の商売に誇りをもっていて、真摯に謝罪をしている。それを受け入れないということは、彼を認めないということになる」
レドは、不意に声をかけてきた自分の護衛を軽く見た。そして、頷く。
「なるほど。しかし迷惑を受けた覚えは無いんだが。具体的にはぼくにどうしろと?」
「実際にレドを狙った息子を鞭打って、ビクス氏からはいくばくかの財産を頂戴すればいいと思う」
「そうした場合息子は怪我をして行商を妨げるかもしれないし、ビクス氏の財産に手をつけると彼の商売に悪影響を与えるのではないか」
そんなことを言いながら、レドは小さく笑っていた。メーガンがなんと返答するのか楽しみにしているようだ。
この男は私をオモチャか何かだと思っているのではないだろうかと思いつつ、メーガンは返答をする。
「それをビクス氏が望んでいると私は判断する」
「そうなのか、ビクス」
レドに問われて、ビクスは深く頷いた。
「それで完全に償われるとは思わないが、そのようにさせていただく」
その後もレドとビクスはしばらく話し合い、結局、迷惑料としてレドは絹を手に入れることとなる。
ビクスの息子への鞭打ちはある程度手加減して行われたが、それでも息子は苦痛に呻いて泣き、翌日まで立ち上がることができなかった。
メーガンは涙を流して震えるビクスの息子を見ながら、鞭打ちは余計な提案だったかもしれないと少しだけ思った。が、すぐにレドに弓を向けたのだから本来は死んで当然であり、このくらいですんでむしろ感謝するべきだ、と考えを改めたのであった。
宿に戻ったレドは、薬草をすりつぶし始めた。草の匂いが部屋にひろがっていく。
メーガンはそれを横目に見ながら、短剣を取り出して手入れをする。今のところ、武器は変わっていない。短剣と弓、スリングだけだ。実はそれほど弓を使う気がなかったため、持ち歩いている矢の数は元々少なかった。昨夜の戦いで残り一本になってしまっている。補充する必要があった。
レドがこのまましばらく製薬に時間を使っているようならば、集落の中を見回って、矢が手に入らないか見ておくべきだと考える。最終的には自分で作ることもできるが、時間がかかる。
手に入らなければ、しばらくスリングだけでやっていくしかないだろう。
そう思いながらスリングを確かめてみると、かなり痛んでいる。このまま使っていくといずれ切れてしまうかもしれない。矢の補充のメドがつくまではもってほしいものだと思いながら、仕舞いこむ。
「そういえば、蜂に刺されなかったか」
思い出したように、レドがそんなことを訊ねてきた。刺されていないとこたえると、ああそうかといってまた薬の調合に戻ろうとする。
メーガンはそこで気になっていたことを訊いた。
「なぜあの蜂は私たちを刺さなかったんだ」
「刺されなかったわけじゃないんだがな。ぼくはいくつかあの針を食らっている。処置はしたが痛みはあるぞ」
「だが敵のほうに群がった蜂のほうが多かった」
「まあそうだな。一応、温泉に入っていたおかげだと思っておいてくれ」
「温泉?」
地下に湧いていたあの温泉のことだろうか。毎日のようにあそこで湯浴みをしていたわけであるが、そのおかげで蜂に刺されなかったというのはどういうことだろうか。
「あれに駆虫剤でも入っているのか」
「駆虫剤というと強すぎるが、まあ正解だ。ある程度は虫が忌避するような薬が入れてある。多少は蚊や蝿も寄り付きにくくなっているはずで、君はあのお湯でマントや服を洗濯していたみたいだから余計だろう」
なるほど、とメーガンは思う。そういうことなら納得である。
暗殺組織でも獣の嫌うにおいをマントに擦り付けるということは結構やっていたはずだ。しかし、虫に殺されるとは思わなかったかもしれない。あるいは、ある程度の虫除け対策もしていたが、レドの薬のほうが効果が強かったかだ。




