1・薬師のレド
大陸の中でもっとも大きな都から東へ大きく離れた位置に、大きな沼がある。この沼は、猛毒の沼として知られていた。
水は紫色で、腐った食べ物のようなにおいが充満している。この沼地に生き物は棲めない。あまりにも毒性が強いので、どのような生物もここには来れなかった。
その毒の沼から、少し離れた位置に城が建っている。
誰が建てたのか、何のために建てたのかもわからない古城。
たったひとりでそこに住んでいる者。
それが、毒の王だ。
毒の王。
彼はあらゆる毒について精通し、なかでも強力なものを持ち歩いている。彼に手を出すことは、死を意味した。
それは毒の王を殺そうとした者一人だけの、肉体的な死を意味するのではない。本人のみならず一族全ての肉体的精神的、速やかなあるいは緩慢な死を意味した。
彼に逆らったものはあらゆる毒によって、可能な限り苦しまされて死ぬ。そう信じられていた。
民衆にとって毒の王は、常に恐怖の対象であった。
毒の沼からは、常に毒の水が蒸散している。
蒸気には当然ながら、毒が含まれる。そのため、毒の沼の周囲にさえも生物は棲めないでいる。
毒の王の城のある位置もその影響下にあり、誰も近づけない。毒の王以外は、古城に近寄ることさえできないのだ。
したがって、毒の王の顔は誰も知らない。
古城に住むただ一人の人間が、毒の王であると伝わるのみだ。彼こそが毒の沼の管理者であり、何十年たっても毒の沼が消えない理由でもあるのだ。
彼こそが、毒の沼を生み、数多の生物を毒で脅かしている悪の根源である。だから、消さねばならない。
世の平和のため毒の王を殺し、安寧を取り戻せ。
そのような命令を受けて、暗殺者のメーガンは古城の近くにある集落へ足を踏み入れていた。
青い旅衣装の上にマントをかけた姿だった。顔を覆うフードから、短い土色の髪が見えている。
その顔つきは幼げにみえる。顎の線はゆるやかで、一見して女性だとはっきりわかる。背丈はそれほどでもなく、平均的な成人女性のそれだった。彼女はもともと細い目をさらに細めて、ゆっくりと歩いていく。
暗殺者のメーガンがたどりついたのは、古城に最も近い集落である。それは間違いないのだが、そこから古城までどんなに急いでも日の出から日の入りまではかかると見込まれるのであった。
距離が遠いというだけでなく地形が複雑である上、今まで誰一人そこに向かったことがないというのが大きい。
毒の王の城である。
それも、毒の沼の影響下の地域だ。好きでそのようなところに向かうような人間などなかった。
しかしメーガンは毒の王を殺すために、そこに行かなければならない。
毒の王の城は、集落からでも目視可能だ。方角さえわかればなんとかなると結論付けて、メーガンは地図に目印を書き込んだ。
それから、旅の疲れをとるために集落の中を歩き、休む場所を探すのであった。
すぐにわかったことであるが、集落は意外にもにぎわっていた。
毒の沼の影響下にある地域のすぐ近くにあるのだから、寂れているだろうと考えていたメーガンは予想を裏切られた格好である。
酒場があったので、メーガンは立ち寄った。
主人に宿の場所を訊くためでもあったし、明日には毒の影響下に入って毒の王と対峙する予定であるのだから、久しぶりに蜂蜜酒でも楽しもうという気持ちのためでもあった。
既に日は暮れかけていたので、営業はしているようだ。メーガンはフードをとりながら酒場に入った。
橙色の灯りが店の中を照らしている。
メーガンは土色の髪を手櫛で撫で付けながら見回す。テーブルが五つと、カウンターに椅子が七つ。
集落の規模から言っても、このくらいだろう。繁盛しているらしく、メーガン以外の客も何人かいる。テーブル二つが料理で埋まり、その周辺に陽気な表情で酒を飲む男たちがいる。
もう一人、奥のカウンター席に誰かが座っているが、黙々と酒を楽しんでいるようだ。
メーガンは入り口に近い位置のカウンター席に座りながら、手持ちのコインを確かめてみる。
銀貨が数枚、銅貨がその二倍ほど。ここで贅沢に飲み食いしても問題ない。
主人を呼んで、適当な夕食と蜂蜜酒を頼む。それをつくるために主人が引っ込むと、入れ替わりに桃色のワンピースを着た少女が杯を持ってあらわれる。
「どうぞ、蜂蜜酒です」
メーガンは受け取って、一口飲んだ。
それまでずっと歩いてきたこともあって、うまかった。もう一口飲む。
「お客さん旅の人ですね。私、旅の人とお話しするのが好きなんです」
桃色の服の少女は、メーガンに邪気のない笑みを向けている。どうやらこの少女は主人の娘らしい。常連客からも大事にされているらしく、どことなく無垢な印象を抱かせる。
「ただ、歩いてきただけさ。楽しい話なんかない」
静かに酒を飲みたかったメーガンは、そう言ってあしらおうとした。
が、少女はにこにこと微笑をたたえてメーガンの隣の席に座り込んでしまう。
強引に恫喝してどいてもらう、ということもメーガンはできなかった。やりづらいな、と思いながらも酒をちびちびと口に運ぶ。
そうしている間に、奥に座る男に目がいった。
彼はひとりだけでいるようだ。
地元の料理らしい炒め物を咀嚼して味を楽しみ、酒で押し流している。
全体的に服装が暗色で統一されている。マントは黒で、濃紺のシャツを着ていた。
横顔しか見えないが、若々しさが残る感じである。メーガンよりは年上に見えた。
「あの人は、時々やってくる薬師さんだよ。面白い話いっぱい知っているんだ」
「へえ」
少女の言葉を聞いて、メーガンは立ち上がった。
杯を持って、彼に近づいてみることにしたのだ。旅の薬師であるというのなら、毒の沼が発する毒についても詳しいかもしれないと思ったからである。もしかすると、毒の影響を少なくする術をも知っているかもしれない。
少女はメーガンのすることを微笑んでみている。
「あんた、薬師なのか」
メーガンは男に話しかけた。
男はメーガンを横目で見て、小さく頷く。
「ああ、そうだ。病か?」
男は商売人とは思えないほど、冷たい声であった。それに少しだけ驚きながらも、メーガンは毒の沼に対抗するための薬を求める。
「いや、毒だ。毒の沼の影響下に入ろうと思っている。少しでも抵抗できるような薬はないか?」
「あいにく、自殺志願者を助ける気はないな」
冷淡に応じる男。めげずにメーガンが食い下がった。
「どうしても入る必要があるんだ。自殺する気はないので、気休め程度のものでもいいから薬はないのかと聞いているんだ」
「ふむ」
男は口の中のものを酒で流し、食事の手を止めた。彼がマントの中に手を入れる。
が、同時に横から皿が突き出された。
「商売の話は外でやってくれよ」
皿の上にはメーガンが注文した食事がのっている。主人が料理を終えて、持ってきたのだ。
「この中じゃ、俺がルールなんだからな」
「わかってるよ」
男は小さく息を吐いて、食事を再開した。
どうやら、酒場の中で取引はできないようだ。メーガンは仕方なく、自分の前に置かれた料理を片付けにとりかかった。
「へへ、怒られたねレド」
少女が薬師の男を小突いた。どうやら、二人はよく話す間柄であるらしい。
「ああ、怒られたな。こりゃあ、お嬢さんには責任をとってもらわなくっちゃな」
レドと呼ばれた薬師が、初めてメーガンに顔を向けた。
疲れているのか薬師の両目にはクマができているが、それでも綺麗な目だといえる。
「責任って、レドってばプロポーズしちゃってる?」
無邪気きわまる声で、少女がとんでもないことを口にした。
意表を突かれたメーガンは飲みかけていた蜂蜜酒をふきだした。酒が霧状に散って、料理に振りまかれる。
「なにやってんだ、汚いな」
「……すまない」
レドの冷静な一言に、誰のせいだと思いながら咳き込みを静める。
メーガンは蜂蜜酒のおかわりを少女に伝えながら、恨みがましくレドを見た。彼は、蜂蜜酒の霧など気にもせず自分の食事を黙々と片付けている。
どうにも腹立たしいほど、憎たらしいと思える。
メーガンはこの薬師を殴ってやろうと思ったが、商売が終わるまではと我慢する。
少女が杯をもってメーガンのもとに戻ってきたとき、扉が開いた。
来客らしい。
しかし、少女は出迎えにいかずにその場でびくりと震える。それから素早く、メーガンの隣に退避した。どうやら、会いたくない相手であるらしい。
新たな客は、大股で歩いて空いているテーブルのひとつに陣取り、乱暴に腰を下ろした。
それまで近くで盛り上がっていた客たちも、それを見て静まった。
来てもらいたくない客が来た、とその場にいる全員の顔に書いてある。
「誰よ、あれ」
メーガンは小声で少女に訊ねた。
「あれは、都からきてる役人。いっつも威張ってばかりでやな人なの」
なるほど、と思う。
このような毒の影響下に近い場所に赴任したのが嫌で、周囲に当り散らしている役人らしい。
ああいうのが税金を着服したり、住民に乱暴を働いていたりするのはよくある話だ。
メーガンもそれはよく知っていた。ああした人物を暗殺したことが多くあったからである。
「これはこれは、リーグさん。いらっしゃいませ」
「酒をだしてくれ、一番上等なやつをだ」
主人が出てきて、役人の応対を始める。
リーグと呼ばれたその男の態度は悪く、横柄だった。彼は上等の装束をまとい、貴金属をふんだんに使った装飾具を数多く身につけていた。装束に使われている色が多く、貴金属が輝きを放つために直視すると目が痛むような気さえする。
彼は悪趣味の極みとなっている自分の姿に、自分で気付いていないらしかった。
主人にもってこさせた酒を飲み、まずいと文句を言い放つ。メーガンに隣で小さくなっている少女に気づくと、酒を注ぎに来いという。
仕方なく少女が従うと、注いだ酒をそのまま彼女の顔にひっかけてしまい、注ぎ方が悪いと文句をつけた。
メーガンは義憤にかられた。
どこでも見られた光景ではあったが、気分がよくはならない。だが、怒りに任せてこの役人を斬り殺してしまえば面倒なことになるのは目に見えている。
少し我慢していれば、すぐにこのリーグという役人は満足して出て行くだろう。そう考えて、怒りをおさえる。
おそらくこの場にいる全員がそう思っている。メーガンはあとで少女を慰めてやる言葉をいくつか考えながら、酒を口に入れた。
少女はまだ、幼いといえる年齢だった。
リーグの恫喝に抵抗するようなことができるはずもない。彼女はただ、だまって役人の言葉に従う。
それが気に入らないのか、あるいは気に入ったのか、リーグは少女の態度が悪いという。さらには自分が直々に、連れて帰って淑女としての教育をしてやろうと言い出した。
主人はあわててご勘弁くださいというが、彼は聞く耳をもたない。
さすがにここまできては、我慢がならなかった。メーガンはマントの中にある短剣を握り締め、振り返る。
リーグを闇討ちしてでも、少女を連れてはいかせないと決めたからである。
しかし、振り返ったメーガンの視界は男の背中でさえぎられていた。薬師が立ち上がり、メーガンの視界を占領している。
薬師は片手を伸ばして、今にも役人に飛び掛ろうとしていたメーガンをなだめる。
彼は、ここは自分に任せろと声に出さずに伝えている。
下卑た笑みを浮かべて、馴れ馴れしく少女の肩を抱いていた役人のリーグは、立ち上がった男の存在に気付いた。
ただの客だと思っていた男が、こちらに向かってくるのだ。不敬にも、都から命を受けてこの集落を統治しているリーグに逆らおうとしている。
つまらない正義感のために、この自分の楽しみを邪魔しようというのか。
リーグは薬師を見て、その身なりから大した身分のものではないとまず判断した。この男は、手荒に扱っても問題がないと見たのである。
「レド!」
リーグの手の中で、絶望で泣きかけていた少女が声をあげる。その顔はぱっと輝き、期待の目が薬師に向けられた。
少女のその様子を見て、役人のリーグはさらに不快感をつのらせる。黒い姿の薬師をにらみ、指輪で飾りたてられた手を握り締めた。
「邪魔をするのか、旅商人ごときが。俺がその気になれば、こんな酒場まるごとつぶせるんだぞ」
しかしレドはそのような脅しを軽く流し、一礼をしてみせた。
「失礼を、お役人様。健康がすぐれないご様子ですので、薬師として診察をさせていただきたく思います」
「何を?」
レドの声は自分を挑発するような声色である。苛立ちが怒りに変わったリーグは、すぐに店の外に合図を送った。
金で雇っている兵士たちが、中に入ってくる。皮鎧を身に着けた、体格のよい男二人である。
「てめえら、こいつをつまみだせ」
命令に従い、鍛えられた体をした兵士たちがレドを捕まえようとする。
体の厚みがレドの二倍もあるような兵士たちであった。もちろん、勝負になるはずもない。本来ならばだ。
しかし、あれほどの自信を見せたのだ。
もしかしたら大立ち回りをして、やっつけてしまうのかもしれない。
この様子を見ていたメーガンはレドの実力を見ようと、事態に注目する。
だが、その努力は無駄になった。レドは大した抵抗をしなかったのである。彼はあっけなく、兵士の一人につまみあげられた。
「ふん、邪魔をするからだ。連れて行け」
リーグは満足そうにそう言い、少女は頼みの薬師が期待はずれに終わったことに目を伏せてしまった。
だがレドは身体を吊り下げられても余裕の様子で、その場に朗々とした声をひびかせる。
「つまみ出される前に、役人様にご忠告いたします。どうやらご自分では気付かれない大病を患っておいでのご様子。お酒をお召しになるとお腹が大層ゆるくなると思われますから、ご注意ください。また、ご婦人に乱暴をしようとしてもいけません。興奮が病を進行させます」
「なっ、何を言うか! こいつを早く外へ」
と、役人のリーグが叫んだ瞬間、いやな音が聞こえた。
明らかに、便所で聞こえるべきはずの音であった。それは確かにリーグの尻のあたりから聞こえ、また悪臭を放ち始めている。
「う、うぐ」
リーグは腹をおさえた。汚泥をこねくりまわしたような、搾り出すような音がその場に漏れた。
この様子を見ていたメーガンは、顔をしかめる。レドが何かをしたのは間違いなかった。
本当に役人が病気だったなどということはないだろう。いったい何をしたのかわからないが、レドという薬師がただの薬師でないことは間違いなさそうだ。
レドは兵士の手を振り払い、リーグに近寄る。
「やはり、お役人様は体調がすぐれないようですね」
「うう、うるさいっ!」
その声に重なって、また異音がする。リーグは咄嗟に両膝をそろえて尻を両手で防御する。その顔面は蒼白で、脂汗が滲んでいる。
テーブルで飲んでいた客の一人が、こらえきれずにクククと低い笑いをもらす。
「うおお、そ、そうじゃ。病のようじゃな。仕方ない、戻るぞ、戻るぞ」
こらえきれなくなったのか、異臭と異音を撒き散らしながらリーグは店から出て行こうとする。だが、一人では撒き散らすものが増えるばかりだった。
結局彼は兵士たちに助けを求めて、どうにか店を後にした。しかしふくれた下半身の衣服をおさえ、兵士たちに助けられながら店を出て行くその姿は滑稽そのものであった。
この出来事はしばらく集落の中で語り継がれるに違いない。
少女は役人から解放され、喜びのままレドの腰にすがりつく。メーガンはそれを黙ってみていた。
「うはは、見たかよあの役人サマの顔を」
「最高だったな。普段から人の顔をみてはたるんでる、たるんでるってうるさかったのにな。一番たるんでるのはてめえのケツだったって話か」
テーブルで談笑していた男たちは我慢する必要がなくなり、大笑いした。少し前までの鬱憤が一気に解消されたこともあったのだろう。
「すまないな、店を汚した」
少しの間少女をなだめたレドは、モップとバケツを持ってきた店の主人に頭を下げる。
役人が残していった悪臭のことを言っているのである。飛び散ったかもしれないとも考えている。飲食店における損害は大きいはずだ。
だが主人は首を振って、笑った。
「何言ってんだ、汚したのは役人サマだよ。あんたはよくやってくれた。スッとしたぜ」
ガハハと笑い、彼はレドの肩を叩いた。
しばらく後、メーガンは食事を再開したレドに話しかけた。
「あんた、あの役人に何をしたんだ」
「ちょっとした薬を召し上がっていただいただけだ」
レドは上機嫌の少女にまとわりつかれながら、メーガンに説明をする。
役人に対して下剤を仕込んだことを認めながら、その薬が長時間体内に残る性質があることを告げる。
「それが完全に排出されるまで、一ヶ月ほどかかる。その間、酒が体内に入ればそれと反応して体に異常を起こさせるってわけだ」
「その異常っていうのは?」
「今日と同じことになる」
とんでもない薬だ、とメーガンは思う。一ヶ月も好きな酒が飲めなくなるのは、つらい。
「これでしばらくは近づかないだろうよ、安心して酒が飲めるってわけだ」
薬師のレドは、にやりと笑ってメーガンの杯に酒を注いだ。
メーガンはその酒が、飲みづらかった。その様子を見て、レドは満足そうにする。