隣の席のイケメンに勢いでプロポーズしたら、結婚相手はグループ社長でした
母に勧められたお見合いにうんざりして、私は隣の席にいた見知らぬ男性に結婚を申し込んだ。
「突然すみません。あなたもお見合いが嫌なら、私と結婚しませんか?」
自分でも何を言っているのかと思った。ところが、細い金縁の眼鏡をかけたその人は、少し驚いたあと、笑ってうなずいた。
「いいですよ。あなたが本気なら」
しかも彼の鞄には、記入前の婚姻届まで入っていた。
その日のうちに必要な書類を揃え、証人二人にも署名してもらった。桜ヶ峰市役所で婚姻届が受理されたときは、自分の名字が高瀬に変わったことさえ、まだ実感できなかった。
夫になったのは、二十九歳の高瀬悠人。仕事はプログラマーだという。
若葉町の古いマンションで暮らし、朝はコンビニでおにぎりを買い、仕事帰りには自転車で駅まで迎えに来てくれる。
そんな暮らしが、私はけっこう気に入っていた。
ところがある日、勤め先にグループ本社の社長が来ることになった。
役員たちに囲まれてロビーへ入ってきたのは、仕立てのいいスーツを着た若い男性だった。見慣れた金縁の眼鏡に気づいた瞬間、私は手にしていたペンを落とした。
毎朝、台所でお粥を作ってくれる夫が、そこにいた。
慌てて給湯室へ逃げ込むと、ほどなくしてドアがノックされた。
「美咲、いる?」
恐る恐る開けると、悠人が立っていた。
「た、高瀬社長……」
彼は困ったような顔をした。
「驚かせてごめん。ちゃんと説明させてほしい」
昨日まで同じ食卓を囲んでいた人が、目の前でグループの社長として立っている。
何から聞けばいいのか、わからなかった。
1
桜ヶ峰市の中心街にあるレストランで、私は席に着いて十分もしないうちに帰りたくなっていた。
向かいに座る田村修一は、かれこれ二十分も自分の話を続けている。年収に住宅ローン、結婚後の暮らしに子供の教育方針。私の意見を聞くつもりは、あまりなさそうだった。
「小川さんは高瀬グループの企画会社にお勤めなんですよね。残業も多いんじゃありませんか?」
「忙しい時期はあります。でも、今の仕事は好きなので」
田村さんは納得したようにうなずいた。
「だったら、結婚を機に辞めたほうがいいでしょうね。僕の収入だけでも生活できますし、妻には家庭のことを任せたいんです」
「仕事を辞めるつもりはありません」
「今はそう思っていても、子供ができたら変わりますよ。仕事と育児の両立なんて、簡単じゃありませんから」
彼はコーヒーを一口飲んだ。
「子供は結婚して一年以内に欲しいですね。それと、母の体調があまりよくないので、いずれ同居してもらうつもりです。母は家事に細かいところがありますけど、そこはうまく合わせてください」
「家事や育児は、どう分担するおつもりですか?」
田村さんは意外そうな顔をした。
「僕も仕事で忙しいですから。帰ってから家事までやるのは難しいですよ」
「私も働いているんですが」
「ですから、結婚したら辞めればいいでしょう」
あまりにもあっさり言うので、一瞬、冗談かと思った。
私は今の会社で何をしているのか、これからどんな仕事を続けたいのか。そんなことを聞く前に、彼の中では結婚後の私の生活が決まっているらしい。
バッグを手元に引き寄せた。
「田村さん、私たち、合わないと思います」
彼は眉をひそめた。
「結婚するなら、こういう話は先にしておかないと困るでしょう。小川さんも、もう二十七歳なんですから」
「お話はわかりました。でも、私はその生活を望んでいません」
席を立つと、田村さんがテーブルを叩いた。
「今、断ったら後悔しますよ。三十過ぎてから慌てても、条件のいい男は残ってませんからね」
近くの客がこちらを見た。
私はバッグを肩に掛け、出口へ向かった。そのとき、隣の席から女性の声が聞こえてきた。
「家はできれば都心がいいですね。ローンも払い終わっているのが理想です。結婚したら、お給料の管理は奥さんに任せてほしいですし」
話している女性は、コンパクトを開いて化粧を直していた。
向かいの男性は口を挟まず、指先でテーブルを軽く叩いている。
整えられた黒髪に、すっと通った鼻筋。細い金縁の眼鏡がよく似合っていた。白いシャツの袖はきれいに折り返され、何気ない仕草まで目を引く。
視線が合った。
彼もこちらの騒ぎを聞いていたらしく、少しだけ眉を上げた。
気づけば、私はそのテーブルの前に立っていた。
「あの、ちょっといいですか?」
男性が顔を上げた。
「あなたも、そのお見合いを終わりにしたいなら……私と結婚しませんか?」
女性が目を丸くした。
「はあ? こっちはお見合い中なんですけど!」
田村さんまで追いかけてきた。
「小川さん、何を考えてるんですか。そこらの男を使って僕に嫌がらせですか?」
私は目の前の男性に視線を向けた。
彼は少し考え、口元に笑みを浮かべた。
「本気ですか?」
「あなたが嫌じゃなければ」
男性はメニューを閉じ、鞄から一枚の用紙を取り出した。
「ちょうど、これを持ってるんです」
婚姻届だった。
予想外すぎて、思わず用紙と彼の顔を見比べた。
男性は席を立ち、手を差し出した。
「高瀬悠人、二十九歳です。まずは、お互いのことを話しませんか?」
一時間後、私たちは近くのカフェで向かい合っていた。
悠人はソフトウェア開発の仕事をしているらしい。独身で、結婚相手に負担をかけるような借金もないという。
私も母の催婚にうんざりしていることや、結婚後も仕事を続けたいことを正直に話した。
「僕も、自分の生活を人に決められるのは好きじゃないですね」
「でも、今日会ったばかりですよね」
「そうですね。考え直すなら、今でも構いませんよ」
テーブルに置かれた婚姻届を見つめた。
勢いで口にした言葉だったのに、取り消そうという気持ちにはならなかった。
「……やってみましょうか」
悠人はすぐに婚姻届へ記入し始めた。
証人の欄について尋ねると、知り合いに頼めるという。連絡を取ってみると、近くに住む二人がその日のうちに協力してくれることになった。
必要な書類を確認し、夕方には市役所へ婚姻届を提出した。
受理の手続きを終えて外に出ると、すっかり日が傾いていた。
「高瀬さん、もし後悔してるなら……」
「してませんよ」
悠人は穏やかに答えた。
「結婚したからには、きちんと向き合いたいと思っています。二部屋ある家なので、よければ来ませんか?」
顔は好みだし、仕事もある。こちらの意見を尊重してくれて、住む場所まで用意してくれるらしい。
勢いで結婚するなんて、自分でも信じられなかった。
それでも、隣を歩く悠人を見ていると、妙に落ち着いた気分になった。
2
悠人のマンションは、若葉町の住宅街にあった。
建ってからずいぶん経っているらしく、階段の手すりはところどころ塗装が剥げている。掲示板にはゴミ出しの案内が貼られ、廊下の照明も少し暗かった。
そんな普通の建物を見て、私はほっとした。
「古いところでごめんね」
悠人は玄関を開け、真新しいピンク色のスリッパを出してくれた。
部屋は広くないが、きれいに片づいていた。リビングの大きなデスクにはモニターが三台並び、画面には難しそうなコードが表示されている。
「いい部屋だね。気に入った」
悠人がお湯を沸かし、温かい飲み物を用意してくれた。
「一緒に暮らすなら、先に決めておいたほうがいいことがあると思うんだ」
ソファに腰を下ろし、生活費や家事の分担について相談した。
食費や光熱費、日用品は二人で負担する。家事は仕事の都合を見ながら交代で行い、この部屋の家賃はひとまず悠人が払うという。
寝室についても、彼は私の希望を聞いてくれた。
「お互いがいいと思うまでは、別々の部屋で寝よう。仕事のことも、私生活も、必要以上には踏み込まない。それでどうかな?」
「賛成」
「あと、家族への説明だね。必要なときは協力し合おう」
「了解。じゃあ、これからよろしくね」
私たちは笑いながら握手した。
婚姻届では悠人の姓を選んだけれど、会社ではこれまでどおり「小川美咲」の名前を使うことにした。
手続きや家族への説明はこれからだ。考えることは山ほどある。
ふと、気になっていたことを聞いてみた。
「ねえ悠人。どうして私と結婚してくれたの?」
彼の手がわずかに止まった。
「家から結婚しろって言われ続けていてね。お見合いにも疲れてた。それに、美咲となら気楽に暮らせそうな気がしたんだ」
「私のどこを見て、そう思ったの?」
「思ったことをはっきり言うところかな」
あの場で結婚を申し込む女など、かなり変わっているだろう。
その夜、私は奥の部屋に荷物を運んだ。
小さな部屋だが、寝具は清潔で、窓際には机も置かれている。
寝る前にスマートフォンを開くと、母からLINEが十件以上届いていた。田村さんに失礼な態度を取ったことを、まだ怒っているらしい。
私は婚姻届の受理を確認できる書類を撮り、写真を送った。
「お母さん、結婚しました。相手は高瀬悠人さん。今度、ちゃんと紹介するね」
送信した直後、通知を切った。
寝室のドア越しに、リビングからキーボードを叩く小さな音が聞こえる。
その夜は、久しぶりによく眠れた。
3
結婚生活は、思いのほか快適だった。
悠人は規則正しく暮らしていて、口数は少ないけれど気配りができる。朝起きると、テーブルには彼が買ってきたおにぎりやサンドイッチ、温かいコーヒーが置かれていた。
私の帰りが遅い日は、自転車で駅まで迎えに来てくれる。
最初は気の合うルームメイトのようだったのに、少しずつ夫婦らしい時間が増えていった。
ところが、職場のほうは散々だった。
月曜日の朝礼で、新しい企画部長が紹介された。
会議室へ入ってきた男性を見た瞬間、背筋が冷たくなった。
相沢健吾。
大学時代の元彼だ。
私は以前、ビジネスプランのコンテストに向けて何週間も準備を重ねたことがある。相沢はその企画の中心部分を勝手に持ち出し、自分の名前で応募した。それを実績に、大手企業の特別選考まで勝ち取ったのだ。
そのうえ、教授の娘と付き合い始め、私にはまともな別れ話さえしなかった。
そんな男が、今度は上司になった。
会議室の前に立つ相沢は、私に気づくと薄く笑った。
数日後の部内会議で、さっそく話しかけてきた。
「小川、最近結婚したらしいな」
「はい、相沢部長」
「相手は何をしてるんだ? 古いマンションに住んでるプログラマーだって聞いたけど」
わざと周囲に聞こえる声だった。
「お前、昔はずいぶん理想が高かったよな」
「夫は自分の力で働いています。私はそれで十分です」
ペンを机に置き、相沢の顔を見た。
「人の成果を横取りして出世するより、ずっと立派だと思います」
相沢の表情が強張った。
周囲の同僚は資料に目を落としたまま、話が終わるのを待っていた。
相沢は笑みを作り直した。
「そんなに自信があるなら、ちょうどいい仕事がある」
差し出された資料には、高瀬グループが計画している大型サステナブルパークの概要が載っていた。
グループ内の複数の子会社が企画案を提出し、選ばれた会社が実施段階にも参加できるという。
私たちのような小規模な企画会社には、めったにない機会だった。
「主担当はお前だ。来週までに提案をまとめろ」
「チームの人員は?」
「まずは形にしてみろ。話はそれからだ」
相沢は椅子にもたれた。
「結果が出なければ、今後の担当業務も見直さないとな」
仕事の指示という形を取っているが、明らかに私を困らせるつもりだ。
それでも、資料を受け取った。
「わかりました。引き受けます」
席に戻って企画概要を開くと、必要な資料の一覧だけでも相当な量があった。
私はノートを取り出し、調べる項目を書き始めた。
4
それから数日、残業続きになった。
白霧の森サステナブルパーク計画には、環境保全、地域農業、観光施設の運営、長期的な投資回収まで、考えなければならないことが山ほどあった。
三日目の夜には、オフィスに私一人だけが残っていた。
コーヒーを三杯も飲んだのに、画面の文字が頭に入ってこない。企画書を何度見直しても、肝心の収支計画がまとまらなかった。
午後十一時半、スマートフォンが震えた。
悠人からのLINEだ。
「まだ仕事?」
「うん。たぶん日付が変わるまでかかる。先に寝てて」
十分ほどして、彼からメールが届いた。
「この前、印刷してたプロジェクトの概要を見たから、公開資料を少し調べてみた。よかったら参考にして」
添付されていたのは、簡潔にまとめられた業界分析だった。
高瀬グループが公表している投資方針や、地域連携事業の事例が整理されている。短期の売上ばかり追っていると、事業の長期的な価値を見落とすのではないかという指摘もあった。
プログラマーって、経営戦略にもこんなに詳しいものなの?
不思議に思っていると、入口の照明がついた。
ガラス扉の向こうに悠人が立っていた。黒いコートを着て、手には保温バッグを提げている。
「悠人、どうしたの?」
「仕事が一段落したから、様子を見に来た」
彼はデスクに保温容器を置いた。中には温かい鶏肉のスープとおにぎりが入っていた。
「遅いし、食べ終わったら一緒に帰ろう」
一口飲むと、張りつめていた肩の力が抜けた。
「送ってくれた資料、すごく助かった。でも、どうして高瀬グループのことをそんなに知ってるの?」
「公開されてる情報ばかりだよ。システム開発をしてると、業務の流れを調べることも多いから」
「それにしても、よく調べたね」
「少し気になっただけ。実際に企画するのは美咲なんだから、自分で判断して」
添付資料には出典も書かれている。私は礼を言い、スープを飲みながら企画書を開いた。
そのとき、廊下から足音が近づいてきた。
戻ってきたのは相沢だった。
酒の匂いを漂わせながら私たちを見つけ、にやりと笑った。
「へえ。噂の旦那さんか」
悠人を上から下まで眺める。
「顔はいいな。でもパソコンを直せたところで、うちの仕事には役に立たないだろ」
「相沢部長、夫に失礼なことを言わないでください」
「古いマンション暮らしなんだろ? 小川もずいぶん安上がりな男を選んだもんだ」
私は立ち上がった。
「来週の提案が失敗したら、担当も考え直さないとな」
悠人が私の隣に立った。
「美咲は遅くまで準備しているんです。企画の内容を見てから判断していただけませんか」
「事情を知らない方に口を出されても困りますね」
「そうですね。失礼しました」
悠人は軽く頭を下げた。
「ただ、ここまで準備したものを、きちんと見てもらえるといいですね」
相沢は鼻を鳴らした。
「結果が出れば、ちゃんと評価しますよ」
そう言い残して廊下へ消えた。
私は息を吐いた。
「ごめんね。あんな人に会わせちゃって」
悠人はデスクの企画書を見た。
「大学のとき、企画を盗んだのはあの人?」
私はうなずき、当時のことを簡単に話した。
悠人はスープの蓋を閉めながら言った。
「今回の企画、作業の履歴は残してある?」
「うん。クラウドにも保存してる」
「ならよかった。あとで何かあっても確認できるから」
そう言って、残っていたおにぎりを私のほうへ寄せた。
「まずは食べよう。仕事はそのあと」
その晩、悠人は作業が終わるまで付き合ってくれた。
5
無理がたたって、とうとう熱を出した。
土曜日の朝、ひどい頭痛と寒気で目が覚めた。水を飲もうと寝室を出たところで足元がふらつき、リビングのカーペットに座り込んでしまった。
手から滑ったコップがテーブルにぶつかった。
音を聞きつけた悠人が、寝室から出てきた。
「美咲、どうしたの?」
しゃがみ込んで額に手を当てるなり、眉をひそめた。
「熱い。昨日から具合が悪かったの?」
「ちょっと疲れてただけだと思ったんだけど……」
声までかすれていた。
悠人は私の背中と膝の下に腕を回し、そっと抱き上げた。
慌てて首にしがみつくと、いつもの木の香りがした。顔が熱いのは、きっと発熱のせいだけではない。
ベッドに寝かせたあと、悠人は体温計を持ってきて、休日に受診できる医療機関を調べてくれた。
その後の二日間、彼は仕事の予定を調整して、ほとんど付きっきりで世話を焼いてくれた。
薬を飲む時間を気にかけ、お粥を作り、夜中に目が覚めれば水を持ってきてくれる。シャツの袖をまくり、台所でネギを刻んでいる姿まで、つい見入ってしまった。
この人と結婚してよかった。
日曜の午後には、熱も下がった。
悠人が台所で洗い物をしている間、私はリビングへ水を飲みに行った。
ちょうどそのとき、テーブルに置かれた彼のスマートフォンが光った。
LINEの通知だった。
送り主は「佐藤秘書」。
「高瀬社長、買収案件の資金手配について、確認をお願いいたします」
高瀬社長?
買収案件?
仕事関係のメッセージにしては、ずいぶん変わった内容だ。
悠人が台所から戻ってきた。
「どうしたの?」
「佐藤さんって誰? 通知に『高瀬社長』って書いてあったけど」
彼はスマートフォンを手に取り、画面を確認した。
「ああ、仕事で付き合いのある人だよ」
「社長って呼ばれてるの?」
「ちょっとした冗談でね。開発の仕事で、そう呼ばれることがあるんだ」
「へえ。ずいぶん大げさな冗談だね」
仕事仲間同士で妙なあだ名をつけることもあるのだろう。とはいえ、買収案件という言葉が気になった。
「ずいぶん大きな仕事をしてるんだね」
「まあ、いろいろあるよ」
悠人はスマートフォンをポケットにしまい、私の額に手を当てた。
「それより、熱は大丈夫?」
「もう平気」
「もう少し休んで。夕飯まで寝ててもいいよ」
私は水を飲み、寝室へ戻った。
ベッドに入ってからも、あの通知のことが少し気になった。悠人の仕事について、私はまだ知らないことが多いらしい。
6
体調が戻り、企画書の初稿を持って出社した。
最終提出までは、あと二日。
相沢は書類を数ページめくっただけで、机に放り出した。ファイルの角が手の甲をかすめ、赤い線が残る。
「小川、これで提出するつもりか?」
「データの出典も計算方法も付けています。問題がある箇所を教えていただけますか」
「俺が駄目だと言ったら駄目なんだよ。明日の午後三時までに作り直せ」
「締め切りは明後日のはずです」
「社内の確認は早めに済ませたいんだ。間に合わないなら、担当を見直すことになるな」
相沢は別の書類を開き、話を切り上げた。
私は企画書を拾い、オフィスへ戻った。
夜、帰宅してからもパソコンを開いたままだった。数字を見直すたびに別の問題が出てきて、収支モデルがまとまらない。
床に座って頭を抱えていると、悠人が温かい牛乳を持ってきた。
「手、どうしたの?」
「ファイルで擦っただけ」
悠人は傷を見て、隣に腰を下ろした。
「仕事、まだ難航してる?」
「うん。どうしても数字が合わなくて。今日も徹夜かな」
悠人は画面をのぞき込んだ。
「短期の売上を重視しすぎてない?」
「え?」
「ここ。入場料と施設の賃料だけで収益を考えると、ほかの事業が生かせない気がする」
「でも、採算は取らないと」
「もちろん。環境教育や地域農業との連携も、長い目で見れば収益につながるんじゃないかな」
私はモデルを開き直し、地域農業や体験プログラムの収入を組み込んでみた。
何度か計算をやり直すうちに、数字がまとまり始めた。短期の売上だけを追っていたときより、事業の流れも説明しやすい。
「悠人、すごい!」
思わず彼の腕に抱きついた。
悠人が少し身を固くする。
「あ、ごめん。嬉しくて」
「いいよ。プログラマーの癖みたいなものだから。問題を分けて考えるのが好きなんだ」
耳の先が赤くなっていた。
私は笑いながら、もう一度パソコンに向かった。
その夜、ようやく納得できる企画書が完成した。
7
翌日の午後、相沢と一緒に高瀬グループ本社へ向かった。
中心街にある本社ビルは、広々としたロビーが印象的だった。忙しそうに行き交う社員たちを横目に、私は資料の入ったバッグを抱え直した。
隣の相沢は、エレベーターの鏡でネクタイを整えている。
「小川、余計なことは言うなよ。本社の人間は新人に甘くないからな」
私は企画の構成を頭の中で確認した。
会議室では、経営企画本部長の黒田雅彦が待っていた。
「説明は十分、そのあと質疑応答です。準備ができたら始めてください」
私はパソコンをつなぎ、資料を映した。
施設のコンセプトから運営方針、収益モデルまで順を追って説明する。地域農業と環境教育を組み合わせた企画を紹介したところで、黒田本部長が顔を上げた。
「この部分、もう少し詳しく聞かせてもらえますか」
地域の農産物を売るだけでなく、体験学習や継続的な販売につなげる仕組みを説明した。観光客の少ない時期でも、地元の生産者との協力を続けられるように考えたものだ。
続いてエネルギー管理や事業リスクについて質問があり、準備した資料を見せながら答えた。
予定の十分を超え、質疑応答は三十分以上続いた。
相沢が腰を浮かせた。
「黒田本部長、もし不足がありましたら、持ち帰って修正を――」
「相沢部長、少し待ってください」
黒田本部長は資料を揃え、私に向き直った。
「小川さん、よく考えられた企画ですね。特に長期運営の部分がいい」
「ありがとうございます」
「財務モデルはもう少し詰める必要がありますが、次の段階へ進めたいと思います」
相沢の顔から笑みが消えた。
「それは……」
「一次審査は通過です」
黒田本部長は、次の検討段階に進むための案内を渡してくれた。
「引き続き、小川さんに企画の中心を担っていただきたいですね」
「はい。よろしくお願いいたします」
相沢が何か言いかけたが、黒田本部長は淡々と続けた。
「提案の評価に、担当者の役職は関係ありませんから」
本社ビルを出ると、空がいつもより明るく見えた。
悠人にLINEを送る。
「通った! 黒田本部長が企画を認めてくれたよ!」
すぐに返事が来た。
「おめでとう。今夜は何が食べたい?」
「お寿司!」
「了解。仕事が終わったら迎えに行くね」
スマートフォンを胸元に寄せ、私は思わず笑った。
8
企画が一次審査を通過してから、社内の空気が変わった。
うちの社長がプロジェクトチームを立ち上げ、私は引き続き企画の中心を任されることになった。相沢は不満そうだったが、以前のように人前で嫌味を言うことは減った。
金曜日の朝、社内の連絡チャットに知らせが届いた。
高瀬グループの社長が、午後に視察へ来るという。
私たちの会社では、めったにないことだった。
総務は会議室を整え、各部署は資料の確認に追われていた。
その社長はずいぶん若いらしい。経済誌に名前が載ることはあっても、顔写真はあまり出ていなかった。
午後三時、グループ本社から数名の役員が到着した。
昨夜も資料を直していて眠かった私は、社員の列の後ろに立っていた。
「高瀬社長、本日はお越しいただきありがとうございます」
前のほうから、うちの社長の声がした。
顔を上げると、数人の役員に囲まれた男性がロビーへ入ってくるところだった。
濃い色のスーツに、背の高いすらりとした体つき。そして、細い金縁の眼鏡。
手にしていたペンが床に落ちた。
あれ、悠人?
毎朝おにぎりを買ってきて、自転車で駅まで迎えに来てくれる、あの悠人が?
光熱費まで一緒に計算していた夫が、グループ本社の社長だなんて。頭が追いつかない。
悠人がこちらを向いた。
目が合うと、表情がわずかに変わった。
私は周りの人たちに紛れ、そっと列を離れた。そのまま廊下の奥にある給湯室へ逃げ込む。
ドアを閉め、息をついたところで、廊下から聞き慣れた声がした。
「先に会議室へ行っててください。少しだけ用事を済ませます」
足音が近づき、ドアがノックされた。
「美咲、いる?」
私はしばらくドアを見つめ、それからそっと開けた。
悠人が立っていた。
昨日まで、同じ家で夕飯を食べていた人だ。なのに今は、名前を呼ぶことさえためらってしまう。
「た、高瀬社長……」
悠人は眉を寄せた。
「美咲、驚かせてごめん。ちゃんと説明させてほしい」
給湯室へ入ってきた彼が、そっと扉を閉めた。
「説明って……今まで何度も話す機会はあったよね?」
「うん」
「どうしてずっと黙ってたの? 私が高瀬グループの会社で働いてることも、仕事の愚痴を毎日話してたことも、全部知ってたんでしょう?」
悠人は眼鏡に手を添えた。
「いつか話そうと思ってた。でも、なかなか言い出せなくて」
「いつかって、いつ? 今日ここで会わなかったら、私はまだ普通のプログラマーだと思ってたよね」
「このプロジェクトが終わったら、話すつもりだったんだ」
「私、悠人のこと、信じ始めてたんだよ」
ここ数週間の暮らしが頭に浮かんだ。
一緒に買い物をして、夕飯を食べて、仕事の話をして。私たちは同じように働く二人として、少しずつ生活を作っているのだと思っていた。
「毎日、私の仕事の話を聞いてくれたよね。企画の相談にも乗ってくれた。でも、社長だったなら……」
言葉が詰まった。
「今回の審査だって、私の実力で通ったのか、自信がなくなる」
「審査は独立して行われた。僕は結果に口を出してない」
「だったら、なおさら早く教えてほしかった」
悠人が一歩近づいた。
私は距離を取った。
「優しくしてくれたことは嬉しかった。お金があるかどうかなんて、気にしてないよ」
自分でも驚くほど、声が震えていた。
「でも、結婚した相手がどういう人なのか、知ることくらい許されるでしょう?」
悠人は足を止めた。
「……ごめん。僕が悪かった」
私はバッグを持ち直した。
「今日は一人で考えたい。夜、荷物を取りに行くね。少しの間、別のところに泊まる」
悠人はドアの横へ退いた。
「わかった。落ち着いたら、ちゃんと話そう」
私は給湯室を出て、自分の席へ戻った。
朝から開いたままだった企画資料が、パソコンの画面に映っていた。椅子に腰を下ろし、続きを確認しようとしたが、しばらく文字を追えなかった。
9
それから三日間、悠人から何度もLINEが届き、電話もかかってきた。
私は必要な連絡だけ返して、あとは時間を置いていた。
友人の森川莉子は、事情を聞くなり目を丸くした。
「ちょっと待って。美咲がお見合いでいきなり結婚した相手って、高瀬グループの社長だったの?」
「うん」
「そんなドラマみたいなこと、本当にあるんだ……」
莉子のソファに寝転がり、クッションを抱えた。
「笑い事じゃないよ。何を信じたらいいかわからなくなっちゃった」
莉子は隣に腰を下ろした。
「黙ってたのはよくないと思う。でも、今まで大事にしてくれたことまで嘘とは限らないでしょう? 一回、ちゃんと話してみたら?」
その言葉が気になりながらも、私はしばらく仕事に集中することにした。
四日目の午後、会社に高級ホテルのアフタヌーンティーが届いた。
休憩スペースにはフルーツタルトやサンドイッチ、小さなケーキがずらりと並び、社員たちが集まってきた。
相沢まで部長室から顔を出した。
「本社も、俺たちの頑張りを評価してくれたんだろうな。みんな、遠慮せず食べてくれ」
ところが、配送スタッフは相沢の横を通り過ぎ、私の席へ来た。
「小川美咲様でいらっしゃいますか?」
「はい」
「ご主人からお預かりしたものです。こちらのカードも一緒にお渡しするよう頼まれています」
カードには、見覚えのある字でこう書かれていた。
「美咲、ごめん。よかったら、家で一緒にご飯を食べよう」
周囲の視線が集まる。
相沢は何とも言えない顔をしていた。
私はカードを握り、ため息をついた。
悠人ってば、会社にまでこんなものを送らなくてもいいのに。
お礼を言って配送スタッフを見送り、LINEを送った。
「今度から、会社にこんな豪華なものを送るのはやめてね」
すぐに返事が届いた。
「ごめん。美咲に好きなものを食べてほしかったんだ」
まったく、もう。
その日の午後は、本社とのオンライン会議だった。
悠人は本社会議室の中央に座り、各部署の報告を聞いていた。いつもと違う仕事中の表情に、つい画面を見てしまう。
彼が書類をめくったとき、左手の薬指に変なものが見えた。
ピンク色のプラスチックの指輪。
大きな赤いおもちゃの宝石がついている。
先週、二人で縁日の屋台を見て回ったとき、輪投げの景品でもらったものだ。
私がふざけて悠人の指にはめ、「これが私たちの結婚指輪ね」と言った。
てっきり、もう外したと思っていたのに。
よりによって、グループの幹部が集まる会議につけてくるなんて。
画面の向こうの部長たちも気づいたらしく、ときどき悠人の手元へ目をやっていた。本人はいたって普通に仕事をしている。
私は顔を伏せ、笑いをこらえた。
会議が終わってから、悠人へメッセージを送った。
「指輪、目立ちすぎ」
数分後、返事が来た。
「美咲がくれたものだから」
その短い言葉を読んで、口元が緩んだ。
10
白霧の森プロジェクトは、いよいよ最終審査を迎えた。
金曜日の朝、本社の評価チームが私たちの会社を訪れた。悠人も経営状況の確認のため同行しているが、企画の採点には加わらないと事前に説明されていた。
私はいつもより早く出社し、発表資料を最終確認しようとした。
ところが、ファイルが開かない。
重要なデータがいくつも削除され、共有フォルダのバックアップまで壊されていた。
昨夜までは問題なく使えていたはずだ。
幸い、クラウド上には版の履歴が残っている。私は画面を保存し、情報システム担当に連絡してアクセスログの保全を頼んだ。
会議室に入ると、相沢がすでにスクリーンの前に立っていた。
映っていたのは、私が何日もかけて仕上げた企画書だった。構成も図表も、ほとんどそのまま。内部確認用に残しておいた数値まで変わっていない。
「高瀬社長、皆様。本日は、私がこの半月かけてまとめた白霧の森の実施計画をご説明します」
相沢は得意そうに発表を始めた。
私は手元のパソコンを開き、発表を聞いていた。
こうした事態に備えて、作業履歴と原稿の保存には気をつけていた。彼が使っているのは最終確認前の版で、そこにはまだ修正していない数値が一つ残っている。
「炭素排出量に関する指標は、十二パーセントの改善を見込んでいます」
相沢がグラフを指した。
発表が終わると、黒田本部長が口を開いた。
「相沢部長、一つ確認してもよろしいですか」
「はい、黒田本部長」
「十四ページの十二パーセントという数字ですが、計算方法を教えてください」
相沢は一瞬、言葉に詰まった。
「新しいデータモデルから算出した数値です」
技術担当の評価者が資料を確認した。
「具体的には、どういう条件で試算したんでしょうか」
「それは……実際の計算は担当者に任せておりまして」
黒田本部長は前回の資料を取り出した。
「この案は、以前小川さんが提出したものとよく似ていますね。最終版は誰が作成したんですか?」
相沢は答えに窮していた。
私は手を挙げた。
「私から説明してもよろしいでしょうか」
許可をもらい、パソコンをスクリーンにつないだ。
「十四ページの十二パーセントは、内部確認用の仮の数値です。正式な予測値としては使えません」
正しい計算方法と元データを示したあと、クラウドの更新履歴を開いた。
最初の構成案から直前に修正した計算モデルまで、各版の記録が残っている。相沢が使った資料と並べて表示すると、古い数値をそのまま使っていることがはっきりわかった。
「今朝、共有フォルダのファイルが削除されていました。情報システム部門には、アクセスログの保全をお願いしています」
黒田本部長は手元の資料とスクリーンを見比べた。
「この資料がどういう経緯で相沢部長の手元に渡ったのか、調べていただきたいです」
相沢は顔色を変えた。
「小川、お前、俺が盗んだと言いたいのか?」
「事実を確認していただきたいだけです」
黒田本部長が資料を閉じた。
「本日の審査はいったん中断します。人事と内部監査に調査を依頼しましょう」
相沢が何か言いかけたところで、悠人が口を開いた。
「相沢部長、調査にはご協力ください。関係するデータは、担当部署で保全します」
相沢は唇を噛み、会議室を出ていった。
その背中を見て、大学時代のことを思い出した。
あのころは、自分の作品だと証明することさえできなかった。
今は、企画を最初から最後まで説明できる。作業の経緯も、記録として残っている。
私は保存した資料を整理し、調査担当者へ渡した。
11
数日後、社内調査の結果が出た。
相沢のアカウントから私の企画書がコピーされ、共有フォルダのデータも削除されていたことが確認された。
相沢は部長として資料を取りまとめただけだと主張したが、自分一人で作成した企画として発表した理由や、元データを消した経緯を説明できなかった。
会社は彼をプロジェクトから外し、処分の手続きを進めることになった。
その後、関係者を集めた確認の会議が開かれた。
相沢はまだ納得していない様子だった。
「おかしいでしょう。どうして小川の案だけ、こんなに評価されるんですか」
黒田本部長が眉を寄せた。
「審査の記録は確認済みです。何か具体的な異議がありますか?」
「本社があいつを特別扱いしてるんじゃないですか?」
悠人が私を見た。
「美咲、僕たちの関係を話してもいいかな」
社内では旧姓の小川を使い続けていたため、私が高瀬社長と結婚していることは、一部の関係者しか知らなかった。
私はうなずいた。
悠人が立ち上がる。
「先にお伝えしておきます。小川美咲は、私の妻です」
相沢が目を見開いた。
「……奥様、ですか?」
会議室の人たちも顔を上げた。
「この関係については、会社に申告しています。私自身は企画の審査から外れており、採否は担当部門が決定します」
悠人は黒田本部長に向き直った。
「企画については、これまでどおり通常の基準で評価してください」
「承知しています」
黒田本部長は資料に目を落とした。
「今回確認しているのは、提出された内容と作成記録です。個人的な関係によって判断を変えることはありません」
相沢は何か言おうとして、結局、椅子に腰を下ろした。
会社はその後、就業規則に沿って相沢の処分を決めた。彼は部長職を解かれ、最終的に退職することになった。資料の削除については、法務部門でも引き続き確認が行われた。
白霧の森プロジェクトも、改めて独立した評価担当者による審査を受けた。
そして、私の企画が正式に採用された。
黒田本部長から、引き続き主担当を務めてほしいと連絡があった。
「小川さん、これからが本番ですよ。よろしくお願いします」
「はい。精いっぱい頑張ります」
電話を切ったあと、私は企画書の表紙を開いた。
そこには、担当者として自分の名前が記されている。
大学のコンテスト以来、自分の努力を誰かに奪われることが怖かった。
今日、ようやく自分で作った企画を、自分の名前で認めてもらえた。
スマートフォンを開き、悠人へLINEを送った。
「今夜、時間ある? ちゃんと話したい」
返事はすぐに届いた。
「あるよ。家で待ってる」
12
その夜、私は若葉町のマンションへ戻った。
玄関を開けると、いつもの部屋着を着た悠人が立っていた。
「おかえり、美咲」
テーブルには、鶏肉の煮込み料理とご飯が並んでいた。
食事を終えてから、私はずっと気になっていたことを聞いた。
「悠人、どうして本当のことを話してくれなかったの?」
彼は湯飲みをテーブルに置いた。
「社長だとわかると、相手の態度が変わることが多くて。だから、普通に付き合える相手が欲しかったんだ」
「それで私にも黙ってたの?」
「うん。でも、結婚する前に話すべきだった。僕の都合で決めていいことじゃなかったよ」
私はリビングを見回した。
「じゃあ、このマンションは?」
「前から仕事で使うことがあってね。結婚する日に、正式に借りる手続きをしたんだ」
「パソコンのコードも?」
悠人は少し気まずそうに笑った。
「本当にプログラムを書くこともあるよ。ただ、一部はデモ画面だった」
「……そこまで準備してたんだ」
「ごめん」
私は彼の顔をじっと見た。
「これからは、ちゃんと話してね」
「約束する」
「仕事でも、私だけ特別扱いしないで」
「もちろん」
悠人がそっと手を伸ばした。
「美咲、帰ってきてくれる?」
「もう少し考えたい。でも、週末に莉子の家から荷物を運ぶのは手伝って」
悠人が笑った。
それから数日後、彼は私を月見台の住宅街へ連れていった。
案内されたのは、庭と広いリビングのある立派な一戸建てだった。テラスからは、桜ヶ峰市の夜景が見える。
「ここが普段住んでた家?」
「前は、主にこっちに住んでたんだ」
私は広いベッドの端に腰を下ろし、悠人の頬をつまんだ。
「悠人、本当に人が悪いよね」
悠人は私の手を取って、指先に軽くキスをした。
「これからは、ちゃんと話すよ」
「本当?」
「本当」
彼の顔がゆっくり近づく。
胸がどきどきして、つい視線をそらした。
「キスしてもいい?」
「結婚してるのに、そんなこと聞くの?」
「結婚してても、聞くよ」
思わず笑ってしまった。
私は悠人の首に腕を回した。
「……じゃあ、早くして」
その夜から、私たちは同じ寝室で眠るようになった。
それから一か月後。
私たちは桜ヶ峰市郊外の凪浜リゾートで、家族と友人を招いて結婚式を挙げた。
海に面した会場には白い花が飾られ、窓の外では穏やかな波が寄せている。莉子は席から私に小さく手を振ってくれた。
ウェディングドレス姿で悠人のもとへ歩きながら、少し前までは他人同士だったことが不思議に思えた。
指輪の交換が終わると、悠人がマイクを手に取った。
「美咲、五年前のことを覚えてる?」
彼が話し始めたのは、大学のビジネスプランコンテストだった。
当時、悠人はスポンサー企業の担当者として表彰式に出席していたという。
「会場の裏で、泣いている女の子を見かけたんだ」
胸が大きく鳴った。
その女の子は、長い時間をかけて作った企画を他人に持ち出されていた。それでも諦めず、三日間ほとんど寝ずに新しい企画を作り直した。
私のことだ。
悠人は私を見つめた。
「あとから、その子が出した企画を読んだ。すごくよかったんだよ。それで名前を覚えたんだ」
目の奥が熱くなった。
あの会場に、悠人もいたんだ。
式が終わってから、彼は私を海の見えるテラスへ連れ出した。
会場の中では、まだ楽しそうな声が響いている。
「そのあとも、公開されていた企画コンテストの結果なんかで、ときどき美咲の名前を見かけたんだ」
そして数か月前、共通の知人から、私がお見合いをすることを聞いたらしい。
「じゃあ、あの日のレストランも知ってたの?」
「うん。同じ店を予約した」
「隣にいた女の人は?」
悠人は少し言いづらそうにした。
「知り合いの役者に頼んだんだ。話しかけるきっかけが欲しくて」
私は思わず彼を見た。
「……あの人も、悠人が頼んだの?」
「うん」
「婚姻届まで持ってたよね?」
「それは、前に家から結婚を急かされたときに渡されたものなんだ。鞄に入れたままにしてた」
「じゃあ、私が結婚しようって言ったのは……」
「驚いたよ。でも、嬉しかった」
しばらく、波の音だけが聞こえた。
五年前から私を知っていたことは嬉しい。けれど、あの日の出会いを思い返すと、胸の奥が落ち着かなかった。
「田村さんも、悠人が呼んだの?」
「それは違うよ。美咲がどんな相手と会うのかまでは知らなかった。あんなことを言う人だとも思わなかった」
「でも、私と会えるように準備してたんでしょう?」
悠人はうなずいた。
「うん。話せる機会ができたらいいと思ってた」
「五年前から知っててくれたのは嬉しいよ。でも、あの日のことまで準備してたなんて、正直、ちょっと怖い」
悠人は私のほうを向いた。
「うん。やりすぎたと思ってる」
「私は、偶然出会った相手を自分で選んだつもりだったから」
「結婚しようって言ってくれたのは嬉しかった。でも、あのときの僕は、自分の気持ちばかり考えてた。ごめん」
私は手すりに軽く触れ、海を見た。
相沢に盗まれた企画を、悠人が読んでいてくれた。そのことは、たぶんずっと忘れない。
けれど、だからといって、何でも許せるわけではない。
「ねえ、悠人」
「うん」
「これから先、私のことを勝手に決めないでね」
「約束する」
「大事なことは、先に話して」
「うん」
私は悠人に向き直り、少し曲がっていたネクタイを直した。
「……あと、今度何か仕掛けるなら、せめて私にも相談して」
「それじゃ、サプライズにならないね」
「そういうサプライズは、もう十分」
悠人が笑った。
「わかった」
彼は上着のポケットから小さな箱を出した。
中に入っていたのは、あのピンク色のプラスチックの指輪だった。
「それまで持ってきたの?」
「家に置いてくるのが惜しくて」
彼はその指輪を、私のもう片方の手にはめた。
「美咲、五年前から、いつか話してみたいと思ってた」
「じゃあ、今は?」
悠人は私の額にそっとキスをした。
「これからの毎日を、一緒に過ごしたい」
会場から音楽が聞こえてきた。
ガラス越しに、莉子が私たちを呼んでいる。
私は悠人の手を握った。
「行こう。みんな待ってるよ」
悠人は笑いながらドレスの裾を持ち、私と一緒に会場へ戻った。




