名前を奪われる「器の巫女」に転生しました。前世でも今世でも、誰にも名前を呼ばれなかった私が最後に欲しかったもの。
「あんたなんか、産まなきゃよかった」
その言葉を、私は何度聞いただろう。
小学生のとき、給食費の封筒を差し出したとき。中学生のとき、高校に行きたいと言ったとき。二十歳を過ぎて、倒れた母のおむつを替えていたとき。
母は私を嫌っていた。理由は知らない。聞いても答えてはくれなかったし、そのうち聞くのもやめた。
それでも私は母を見捨てられなかった。見捨てたら、本当に「産まなきゃよかった子」になってしまう気がしたから。
昼はスーパーのレジ。夜は母の寝返り。眠るのは、母が静かな明け方の二時間だけ。
母の病気が進んで、ある冬の朝。
「……どちら様?」
ベッドの上の母は、私の顔をまっすぐに見て、そう言った。
嫌われているほうが、まだよかった。 嫌われているあいだは、少なくとも私は母の中に「いた」のだ。
私は笑って、「ヘルパーさんですよ」と答えた。 母は安心したように目を閉じて、「ご親切に」と言った。
生まれて初めて、母に礼を言われた。
その夜、台所で洗い物をしていたら、急に床が近づいてきた。 冷たいタイルに頬をつけたまま、私は思った。
――誰か、一度でいいから。 ――私の名前を、呼んでくれないかな。
春野 灯。二十八歳。
それが、誰にも呼ばれなかった私の名前だった。
❆
「器様。お目覚めでございますか」
白い天井。白い帳。白い衣。
見知らぬ部屋で目を開けた私を、見知らぬ女が見下ろしていた。
年は三十前後だろうか。灰銀の髪をきつく結い上げ、神官らしい濃紺の法衣をまとっている。整った顔立ちなのに、表情というものが一切ない。硝子細工のような女だった。
「……うつわ、さま?」
「はい。あなた様は昨夜の選定の儀で、第十九代の器に選ばれました。三日間眠っておられたのです」
言われて、自分の手を見る。
細い。若い。荒れていない。 そして左の手首に、黒い花のような痣が浮かんでいた。
頭の奥から、知らない記憶が流れ込んでくる。
辺境の村の、名もない孤児の少女。十七歳。手首に「器の紋」が現れたその日、神殿の馬車が迎えに来た。村の人たちは泣いて見送ってくれた――いや、泣きながら、ほっとしていた。
器の紋が出る者は、国に一人。 その一人が見つかれば、他の誰も差し出さずに済むのだから。
「わたくしはエルザ。本日より器様の身の回りのお世話をいたします」
「エルザ、さん。私の、名前は」
「ございません」
彼女は淡々と言った。
「器様は選定の儀をもって俗世の名を捨てられます。死者の未練をその身に受ける御方に、個の名は不要とされておりますので」
死者の未練を、その身に受ける。
ぼんやりと思い出す。この国では、人が死ぬと、言い残したこと、果たせなかった思いが「穢れ」となって地上に残る。穢れは溜まれば瘴気となり、疫病や不作を呼ぶ。
それを引き受けるのが器だ。
器は死者の穢れを身に吸い、紋を広げていく。紋が全身を覆ったとき、器は神殿の最奥の間で祈りを捧げ――そして、光となって溶ける。
およそ二十年に一人。国中の未練を抱えて消えていく、生きた墓標。
「……そっか」
私は笑った。笑うしかなかった。
前世では名前を忘れられた。 今世では、最初から名前がない。
なんだ。何も変わらないじゃないか。
エルザは、私が笑ったのを見て、ほんの一瞬だけ眉を寄せた。 けれどすぐに、また硝子の顔に戻った。
❆
器の務めは、思っていたよりも静かなものだった。
毎朝、神殿の「慰霊の間」に遺族が訪れる。彼らは亡き人の遺品を祭壇に置き、祈る。私はその遺品に触れ、残された穢れを吸う。
最初に触れたのは、古びた木彫りの馬だった。
指先が触れた瞬間、胸の奥に冷たい水が流れ込んできた。
――ごめんなあ。約束したのに。春になったら、本物の馬に乗せてやるって。
低い、男の声。 涙が勝手にこぼれた。私の涙ではなかった。
祭壇の前には、七歳くらいの男の子と、若い母親が座っていた。
「……お父さん、あなたと春に馬に乗る約束、覚えてたよ」
気づけば、口が動いていた。
「守れなくてごめんって。ずっと、そう思ってたって」
男の子は一瞬きょとんとして、それから顔をくしゃくしゃにして泣き出した。母親がその小さな背中を抱きしめ、何度も何度も私に頭を下げた。
「ありがとうございます、器様。ありがとうございます……」
器様。
感謝されるのは、嬉しかった。 でも、彼らが帰ったあと、誰もいない祭壇の前で、私はしばらく動けなかった。
手首の紋が、ほんの少しだけ広がっていた。
「器様」
背後から、エルザの声がした。
「死者の言葉を遺族に伝えるのは、器の務めには含まれておりません。穢れを吸うだけで結構です」
「……だめ、なんですか?」
「だめではありません。ただ、歴代の器様はなさいませんでした。死者の未練を声に出せば、それだけ深く心に刻まれます。器様ご自身が苦しまれるだけです」
彼女の言うことは正しかった。
死者の未練を一つ吸うたびに、その人の最期の感情が私の中に沈殿していく。後悔。恐怖。心残り。愛情。それを口に出せば、まるで自分の記憶のように鮮明になる。
それでも。
「言えなかった言葉が、届かないまま消えるのは……さみしいから」
エルザは何も言わなかった。
ただ、その夜、私の部屋の枕元には、温めた蜂蜜の湯が置かれていた。
❆
季節が二つ巡った。
私は毎日、誰かの最期の言葉を受け取り、誰かに届けた。
戦で死んだ兵士の「母さんの料理がもう一度食べたかった」。 病で死んだ少女の「お姉ちゃんの髪飾り、勝手に使ってごめんね」。 長年連れ添った老人の「照れくさくて、一度も言えなかった。好きだったよ」。
死者は皆、驚くほど同じようなことを悔いていた。
言えばよかった。伝えればよかった。 憎まれ口の代わりに、ありがとうを。沈黙の代わりに、ごめんねを。
私の紋は、手首から肘へ、肩へ、鎖骨へと伸びていった。
エルザは相変わらず無表情だった。けれど、少しずつ分かってきたこともある。
彼女は私が食事を残すと、翌日から少しだけ味付けを変える。 私がうなされると、朝まで扉の外に立っている。 遺族に言葉を伝え終えた私が泣いていると、何も言わずに手巾を差し出す。
そして彼女は、神殿の最奥の間には、決して近づかなかった。
回廊の突き当たりにある、黒い扉。器が最期に祈りを捧げ、溶けていく場所。 エルザは、その扉の前を通るとき、必ず遠回りをした。
「エルザさん」
ある晩、私は聞いた。
「どうして、奥の間に行かないの」
彼女の手が、止まった。 私の髪を梳いていた櫛が、かすかに震えた。
「……先代の器は、わたくしの母でした」
静かな声だった。
「わたくしが六つのとき、母の手首に紋が出ました。神殿の馬車が来た日、母はわたくしに言いました。『私はもうあなたの母ではない。忘れなさい』と」
櫛が、また動き始めた。
「それきりです。母は一度も会いに来ませんでした。わたくしが神殿に入ったのは十四のとき。その頃にはもう、母は奥の間で溶けたあとでした」
「……」
「母はわたくしを捨てて、国を選んだ。器として立派に務めを果たした。皆そう言います。わたくしも、そう思うことにしています」
鏡の中のエルザは、やっぱり無表情だった。
でも私には分かった。 その顔は、前世の私が毎朝鏡の前で作っていた顔と、同じだった。
平気なふりをする顔。 傷ついていないふりをする顔。 愛されなかったことを、仕方ないと言い聞かせる顔。
「エルザさん」
「はい」
「私も、母に嫌われてたんだ。前の……ずっと昔の話だけど」
櫛の音だけが、部屋に響いていた。
「最後は、名前も忘れられちゃった」
エルザは長いあいだ黙っていた。 それから、とても小さな声で言った。
「……わたくしは、器様のお名前を存じません」
「うん」
「存じ上げないことを、今、初めて惜しいと思いました」
❆
冬が来て、私の紋は首筋を覆った。
残るのは顔だけだった。
「器様。大神官様より、最奥の儀を三日後に執り行うとのお達しです」
エルザの声は、いつもどおり平坦だった。 けれど、その日彼女が淹れたお茶は、ひどく渋かった。
最奥の儀。 器が奥の間に入り、そこに溜まった最後の穢れを吸い、そして溶ける。
「奥の間には、何が残ってるの?」
「……歴代の器様ご自身の未練です」
エルザは言った。
「器は他者の穢れを吸うことはできても、自分自身の穢れを吸うことはできません。ですから器が溶けたあと、その方の未練だけが奥の間に残ります。それを吸うのが、次の器の最後の務めなのです」
つまり。
奥の間には、エルザの母親の未練が残っている。
二十四年間、誰にも受け取られないまま。
「エルザさん」
「行きません」
私が何か言う前に、彼女は答えた。
「わたくしは奥の間には入りません。母が何を悔いていたとしても、それはわたくしではなく、国か、神か、それ以外の何かでしょう。知りたくありません」
声が、初めて揺れていた。
「知って、それがわたくしではなかったら――」
その先を、彼女は言わなかった。
言わなくても分かった。 私も、同じだったから。
もしも前世の母が最期に何かを悔いていたとして。 それが私のことでなかったら。 それを知るくらいなら、知らないほうがずっといい。
「……うん。分かった」
私はそれ以上、何も言わなかった。
❆
三日後。
黒い扉の前に立ったのは、私一人だった。
大神官たちは回廊の入口で祈りを捧げている。器以外が奥の間に入ることは許されない。
エルザの姿は、どこにもなかった。
それでいい、と思った。 最期に誰かに見送ってほしいなんて、欲張りだ。
扉を押す。
中は、思っていたよりも狭かった。石造りの小さな部屋。天井に空いた穴から、雪の光が細く差し込んでいる。
床には、無数の傷があった。
よく見ると、それは文字だった。
爪で。石で。指の血で。 歴代の器たちが、溶ける前に刻んだ文字。
読めるものも、読めないものもあった。 けれど、どれも同じ形をしていた。
――名前だ。
奪われた自分の名前を、誰にも呼ばれないまま、最後にここに刻んでいったのだ。
膝をつく。石の床に手をつく。
瞬間、奔流が来た。
――帰りたい。 ――母さん。 ――怖い。 ――誰か、覚えていて。 ――私はここにいたの。
十八人分の未練が、一度に流れ込んでくる。 息ができない。視界が白く焼ける。紋が頬を這い上がってくるのが分かる。
その中に。
ひとつだけ、ずっと同じ言葉を繰り返している声があった。
――エルザ。
優しい声だった。
――エルザ。エルザ。ごめんね。 ――嘘をついて、ごめんね。 ――忘れなさいなんて、嘘。 ――あなたが私を恋しがって泣くのが、怖かったの。 ――泣いて神殿まで追いかけてきて、あなたの手首にも紋が出たらどうしようって。器の子は、器になりやすいって聞いたから。 ――だから嫌われようとした。会いに行かなかった。会ったら、抱きしめてしまうから。 ――エルザ。ごめんね。 ――大好きよ。 ――最後に一度だけ、あなたの名前を呼びたかった。
私は泣いていた。 今度は、私自身の涙だった。
❆
どうやって立ち上がったのか覚えていない。
気がつくと、私は扉を開けて、回廊に出ていた。
大神官たちが叫んでいる。儀式の途中で器が出てくるなど前代未聞だと。紋はもう、私の顔の半分を覆っていた。身体の端から、光の粒がこぼれ始めている。
時間がない。
「エルザ!」
叫んだ。 生まれて初めて、こんな大きな声を出した。
「エルザ、どこ!」
回廊の柱の陰で、灰銀の髪が揺れた。
いた。 来ないと言ったのに。ずっと、そこにいたのだ。
彼女は青ざめた顔で私を見ていた。崩れ始めた私の指先を見て、唇が震えた。
「器様、お戻りください、儀が――」
「お母さんから、伝言」
エルザの顔から、表情が消えた。 いつもの硝子の顔じゃない。何もかもが剥がれ落ちた、六歳の子どもの顔だった。
「忘れなさいっていうのは、嘘だって」
「……」
「あなたが泣いて追いかけてきたら、あなたまで器になるかもしれないって、怖かったって。だから嫌われようとしたんだって。会いに行かなかったのは、会ったら抱きしめてしまうからだって」
「……や、めて」
「ごめんねって。大好きよって。最後に一度だけ、あなたの名前を呼びたかったって」
私は息を吸った。
「エルザ。――二十四年間、ずっと、あなたの名前だけ呼んでたよ」
エルザが、崩れ落ちた。
冷たい石の床に膝をついて、声もなく泣いていた。 歯を食いしばって、肩を震わせて、それでも堪えきれずに、喉の奥から子どものような嗚咽を漏らしていた。
私はその隣に座った。
光の粒が、どんどんこぼれていく。 指先はもう見えない。
「……よかった」
心から、そう思った。
「届いて、よかった」
「なぜ」
しばらくして、エルザが顔を上げた。
涙でぐしゃぐしゃの顔。もう硝子細工なんかじゃない。ちゃんと、生きている人の顔だった。
「なぜ、あなたはそこまで」
「……言えなかった言葉が、届かないまま消えるのは、さみしいから」
前にも言った言葉だった。
でも今なら、もう少しだけ正直に言える。
「私ね、前の世界で、お母さんに一度も名前を呼ばれなかったの。お母さんが私のこと、本当はどう思ってたのか、もう分からない。エルザさんのお母さんみたいに、実は愛してたのかもしれない。本当に嫌いだったのかもしれない」
光が、腕を這い上がってくる。
「分からないままでいいって、今は思う。確かめなくていい。ただ――」
ただ。
一つだけ、どうしても欲しいものがあった。 前世でも。今世でも。ずっと、ずっと欲しかったもの。
「エルザさん。お願いが、あるの」
「……はい」
「私の名前、呼んでくれる?」
エルザが目を見開いた。
「私の、本当の名前。前の世界の名前。誰にも呼ばれなかった名前」
もう、声がかすれていた。
「灯。あかり、っていうの」
エルザの唇が、震えた。
一度、閉じて。 もう一度、開いて。
光に溶けかけた私の頬に、彼女の手が触れた。 温かかった。
「――アカリ」
世界で一番、優しい声だった。
「アカリ。アカリ。……アカリ」
一度じゃ足りないとでもいうように、彼女は何度も、何度も呼んだ。 涙で途切れても、しゃくり上げても、やめなかった。
「行かないで、アカリ」
ああ。
なんだ。 こんなに、簡単なことだったんだ。
二十八年と、十七年。 合わせて四十五年、ずっと待っていたものが、こんなに温かいなんて知らなかった。
「……ありがとう、エルザ」
私は笑った。 今度は、ちゃんと笑えた。
「私、ここにいたよ」
光が、視界いっぱいに広がって――。
最後に聞こえたのは、私の名前だった。
❆
その年、王国の神殿で、ひとつの慣例が変わった。
最奥の間の石床に、神官長の手によって、一つの名前が正式に刻まれた。 器として消えた者の名が公に記されたのは、建国以来初めてのことだった。
新たに神官長となった女は、その後の生涯をかけて、歴代の器たちの本当の名前を調べ上げた。 辺境の村を訪ね、古い戸籍を掘り起こし、墓守の老人の昔話に耳を傾けた。
そうして、十八の名前がすべて石に刻まれた。
十八番目は、エルザの母の名だった。 そして十九番目の、最後の名前の横には、小さくこう添えられている。
――灯。死者の言葉を、生者に届けた器。
彼女が器を廃する法を王に認めさせたのは、それから十一年後のことである。
晩年、弟子に「なぜそこまでなさったのですか」と問われたとき、老いた神官長はただ、こう答えたという。
「名前を呼んでほしいと言われたのです」
「それだけ、ですか」
「ええ。それだけです」
窓の外では、春の光が揺れていた。
「たったそれだけのことを、誰もしてあげなかったのですよ。四十五年も」




