石の声を聴く
「ナンシー……またお前は……」
「すみません……!!」
静かに響いた呆れ声。反射的に謝罪した私は、慌てて床に散らばった陶器の破片を拾い始めた。先程、手が滑って落としてしまった皿の、成れの果てである。
「まったく、今月だけで一体何枚目かね……」
院長は呆れたように小言を落としたが、ため息を吐くと、自分の仕事に戻っていった。
私はナンシー。交易が盛んな街で生まれ育った。魔力はあるけれど上手に使えない。だから、いい感じの仕事に就くことができなかった……。………理由はそれだけじゃないだろう、って?そんなこと、私だって、よーく分かっているよ……。
ここは街の中にある小さな治療院。気の弱そうな院長が一人で切り盛りしていたところ、泣き落としで雇ってもらった。この職場、実は転職5か所目!無理を言って雇ってもらったから、必死になって働いている。……働いているのだけど……私は何をしても失敗ばかり。ここでも迷惑ばっかりかけている。大体、治療院で働くには、ちょっとでも治療技術がほしいところ……。でも、練習キットで試した結果、全然上手くできなかった。それは、就職テストでもあったけれど、行き場がない!と拝み倒した結果、神様仏様院長様は、無理やり雑用を探し出して任せる、という形で私を雇ってくれたのだった。その上、いつかできるようになるかもしれないからと、時間を見つけて手解きまで……!私は院長に、絶対足を向けて寝られない。
とはいえ、その日の仕事終わりにも、
「ナンシー、もうちょっと注意して働いてくれないか……」
と、院長からお小言をもらってしまった。それでも私をクビにしないのだから、相当のお人好しだ。それを痛いほどよく分かっているから、丁寧に頭を下げ、気を付けます、と心から伝えて建物を出た。
……気をつけている、つもりなんだけどなぁ。暗くなって人の姿が見えなくなった道を、とぼとぼと歩きながら思う。丁寧な仕事をするように、心がけているはずなのに。突然、手に持っていた物が消えた!近くの水がこぼれた!当たっていないはずなのに物が倒れた!……なんてことに……。これは自力ではどうしようもない!と思って、啓発本を買ってみたりしたのだけど……うーん、やっぱり20冊くらいじゃ足りない……?もう1冊探すべき?それか、治療に役立ちそうな知識を仕入れた方がいいかな?
そう思って本屋に足を向けた直後。ポツリ、と頬に水が当たった。それに気付いた時には、地面には点々と水滴の跡がついていて。最後には、はっきり雨、と分かる天候になっていた。……今日は雲一つなく晴れていたのに、ついていない。本屋はまた今度にして早く家に帰ろう。そう決めて駆け出して…………派手にこけた。
……は、恥ずかしい。確か周りに誰もいなかったはず。それだけでも運がよかったと思おう。とほほ……と、手を付いて起き上がる。顔を上げて、ギョッとした。誰もいないと思っていたのに、目の前、道の真ん中に、誰かいた。だけど、こっちを見ていなさそう。こけたところは見られていない、はず!と思いながら、あれ、あの人は何をしているのだろう、と興味を持った。
雨降る中、俯き加減に耳元に手を当てて、目を瞑っている。場の静寂を壊してはいけない。なんだかそんな空気を感じる。ここは外だけど、まるで教会にいるような、そんな厳かな雰囲気。だけど、そのまま帰る気にはならない。だから、音を立てないよう、ゆっくりとそちらに歩み寄った。近づいて分かったけれど、それは、女の人だった。フードを被っていて、顔はよく見えない。でも、亜麻色の長い髪がフードからこぼれていて、雨に染まっていく。
「やはり、この辺りね……」
彼女が声を発したのは、突然だった。落ち着いた柔らかい声だ。彼女は耳から手を放す。そこで気付いたが、手に何か持っているようだった。それを見つめていると、彼女が目を開ける。目が合って、ハッと、私は我に返った。
「あ、急に、びっくりしたよね!あまりにあなたの姿が綺麗で、思わず魅入ってしまって」
早口でまくし立てたけれど、あれ?私、何言っているんだろう、と口を閉じた。怪しい者ではないと伝えようとして……怪しさしかない言い分だよね?と気付いたからだ。しまった……と私が固まっていると、クスリと笑う、鈴を転がしたような声が聞こえてきた。びっくりして彼女に目を戻すと、彼女は楽しそうに笑っていた。それに気付いた彼女は、コホンと咳払いして見せる。
「ごめんなさい、つい。不思議な人ね。私をそんな風に言うなんて」
そして、彼女は目を伏せた。
「変な女だと、思わなかった?」
「いや全然、全く!」
即答。どこか暗い雰囲気の彼女に、私は全力で否定した。頭の中で言葉を探しながら、追い立てられるように、必死に説明する。
「変だとかそういうのではなくて!何となく、近寄りがたいような、でも見つめていたいような……神秘的?そう、そんな空気を感じて。つい見てしまっていたんだ!ただ、何をしているのかなとは思ったよ」
手振り身振り交えて言ってしまってから、やっぱり何を言っているのだろう、となんだか気恥ずかしくなってしまった。たははー、と誤魔化し笑いを浮かべて頭を掻く。すると、やはり彼女はクスクスと軽い声で笑った。そして、穏やかな表情でこちらを見る。
「私は、石の声を聴いていたの」
私は、ポカンと彼女を見た。よく見ると、彼女が持っていたのは石だった。黒く艶のある、手のひら大の石。耳を当てていたのはそれなんだ。……というのは分かったけれど……。石の声?を聴く?とはどういうことだろう?そんなことを悶々と頭の中で考えていると、やはりクスクスと、だけど今度は困ったような声音が、私の耳に届いた。
「そう言われても、よく分からないよね。昔は至る所に私のような存在がいたようだけれど、私も家族以外でそんな人に会ったことはないし」
うんうんと彼女は数度頷いて見せる。
「私は、世界を繋ぐ伝達者と言ってね。石の声を聴くことを仕事としているの。世界の成り立ちについては知っている?」
彼女の質問に、私はブンブンと首を横に振った。
「ごめん……私、勉強、サボりがちで……」
彼女はかぶりを振った。
「いえ、学び舎では習わないかもしれないわ。あくまで言い伝えだから。説明するとね、世界は複数存在していて、私達はそのうちの1つで暮らしているの。世界を区切るのは、結界」
「結界」
話に着いていこうと必死になって聞いた。ふむふむと思いながら、繰り返す。すると彼女は、ニコリと笑った。
「そう。この世界も結界に覆われている。結界の役割は2つ。1つは既に言った通り、世界を区切ること。もう1つは、他世界の影響を受けないように、世界を守ること」
早くも、頭がぐるぐるしてきた。
「だけど、私達の世界を包む結界は、弱かった」
「えぇ!?ダメじゃん!!」
結界が弱い、イコール、ダメなこと、それくらいの方程式は立てられる。だから、大きく反応してしまった。
「そう、ダメなのよ。弱いせいで、綻びが多くできてしまうの」
「綻び……?」
どんどん難しくなっていく話に、着いていくのがいっぱいいっぱいになってきた。心の中で半泣きになりながら、話に集中する。
「綻びとは、結界の弱まったところのことよ。結界が弱まった部分は、別世界の影響を強く受ける。そして、どんどん綻びが大きくなり、最後には世界が崩壊してしまうと言われているわ」
私は目を見開いた。綻び、ダメ、絶対!
「だけど、私達に綻びは見えない。だから、この世界は、崩壊寸前まで追い込まれたこともあるらしいの」
「え!?そんなこと聞いたことないよ!?」
急に出てきた世界の危機。驚いて聞き返すと、彼女は顔を曇らせた。
「そうね……。この伝承は、忘れられたようなものだから」
「忘れられた……。じゃあ、本当にあったこと?あれ?でも、今、問題なく生活できているよ?」
彼女は微妙そうな顔をした。だが、気を取り直したように、説明を続ける。
「崩壊寸前だったけれど、異世界の精霊がそれに気付いて、事なきを得たそうよ。その時から、この世界の結界に綻びが生じると、異世界の精霊は教えてくれるようになった」
彼女は手に持っていた石を私に見せた。
「石を通じて」
雨に濡れた石が光に反射して、キラリと光った。私はじっと、それを見つめる。
「石を通じて、結界の綻びを知る……あ、だから、石の声を聴く?」
腑に落ちて、思わずポン、と手を叩くと、彼女は頷いた。
「そのとおり。世界を繋ぐ伝達者は、精霊の教授を石を通して聞き、世界に伝えるのが仕事なの。だけど……長い年月が過ぎ、世界の綻びに関する伝承は軽んじられ、今や知っている人さえ稀となった。一時は悪しき集団と言われて、世界を繋ぐ伝達者が処刑されるような事態にもなったのだとか」
そう説明した彼女は、石を大事そうに胸元で抱きしめた。
思っていたより壮大な話だった。はっきり言って、頭の中は絶賛混乱中。でも、1つ、気になったことがある。
「じゃあ、あなたは何故、石の声を聴くの?」
忘れられた伝承。軽んじられた職務。迫害された一族。それなのに、どうして彼女は、続けるのだろう。続けられるのだろう。
彼女は、じっと、こちらを見ていた。その目は真っ直ぐで、全てを見透かされてしまいそうで。落ち着かない。だけど、逸らすことは許されない、そんな強制力を感じて。こちらもじっと見つめ返すことしかできなかった。彼女の口が動く。
「聴こえるの。崩壊の足音が。石を通して」
彼女は目を伏せ、そっと石を撫ぜる。対して私は、やっぱり動けない。息を潜めて、続きを待った。
「聴こえているのに無視することなんてできなくて。私一人では大した力でなくとも、できることをしたい、そう思ったの」
そして彼女は、空を見上げた。
「今もそう。この地に綻びが生まれているから、異常気象が起こっている」
つられて、私も空を見上げた。雨が降りしきる中、あれ、と違和感を覚える。私の目に映るのは、振り続ける雨、そしてその奥に、星がキラキラと輝く空。さて問題です。雨が降るために必要なものがありますが、一体何でしょう?………場違いなクイズが飛び出すくらいには、脳は現実逃避をしていた。それほど、違和感の正体に恐怖を覚えた。
「……雲、が」
「そう、ないの」
思いがけず彼女は肯定して、ギョッとした。見間違いであってほしい、心のどこかでそう思っていたのかも。だけど、期待通りにはいかなかった。私が顔を戻すと、彼女の表情は険しかった。
「こんなにおかしなことが起こっているのに、人々は気付かない」
ギュッと、心臓を鷲掴みにされたような痛みを感じた。……当たり前のことが当たり前のように流れていると思っていた。だから、異常に、気付かなかった。ちょっと目を向ければ気付くはずの、大きな異常に。それは、とても恐ろしいことだと感じた。
「異変に気が付かないから、私のような存在は疎んじられる。それでも、世界が崩壊しようとしていることには、変わらない」
真剣な顔をした彼女は、石を持った手を真っ直ぐ前に伸ばした。反対側の手を胸元に当てて、目を瞑る。
「石よ、力よ、我が意を満たせ。綻びよ、結界よ、あるべき姿に」
すると、彼女の持つ石がキラリと煌めいた。そして、その光が石を離れて地面に落ち………突然、空に太い光の柱が上がっていった。それは、一瞬の出来事だった。光の残滓が、キラキラと粒のように煌めき、消えていく。
雨が、止んだ。
この上なく不思議な現象が目の前で起こった。とても綺麗で、不可解な現象。しかし、周辺の様子は変わらない。先程、あんなに大きな光が辺りを照らしたというのに。街は、いつもどおりの顔をしていた。建物のカーテンから、外を覗き見るような動き1つない。それは、すごく勿体ないことだと思った。
それはそれとして。今、目の前で何が起こったのかは分からなかった。興奮気味に、声を出す。
「今のって!」
「世界の綻びを直したの」
歌う様に、彼女は言う。だけど、私が何を言うよりも先に、その顔が曇った。
「でも、実はこれ、応急処置。本当は、綻びの修繕者と呼ばれる人が必要なの。私では、完璧に修復できない……」
あれで完璧じゃない!本当なら、どんな光景なのだろう。すごく、興味があった。そして、それができるのは、
「綻びの、修繕者……」
なんとなく、声に出す。口馴染みの良い音だった。私のオウム返しを聞き、彼女は暗い顔で頷く。
「えぇ」
憂いを含んだその声は、でもすぐに、表情と共に明るくなった。
「私は、いつかその人を見つけ出して、一緒に旅をするの」
スッと、冷たいものが心臓を撫でた気がした。
「……きっと見つかるよ。早く見つかるといいね」
言いたいこと、聞きたいこと、たくさんあったはずなのに。彼女の明るい声に比例して、ズンと気持ちが沈んだのが感じられた。取り繕うようにそれだけを伝えると、私は彼女に背を向けた。不思議な現象を前に、間違いなく心は踊っていた。でも、彼女の夢を語る姿を――心の折れない強い姿を――見て、高揚していた心は一転、冷え切ってしまった。
……私は、羨ましかった、そう、羨ましかったのだ。理解を得られないと言っても、世界の役に立っている彼女が。そんな彼女に必要とされる、まだ見ぬ綻びの修繕者が。私はどこへ行っても何も成し遂げられない。失敗続きで、おまけの評価しか得られない。だから、理解されないのを知っていながら、それでも世界のためにと動く彼女が、眩しくて見ていられなかった。
次の日。外で激しい音がしていた。大量の何かが叩きつけられるような音。それで、目が覚めた。屋根を、壁を、窓を、それは、強い力で叩き続ける。何々!?と窓から外を見れば、前が見えないほどの酷い大雨だった。下を見れば、地面には浅い濁流ができている。
昨日の話を思い出して、空を見上げた。そこで、ハッと息を飲む。滲んだ視界に見える、ギラギラした光。強い雨で見え辛くなっているけれど、あれは、太陽の光……!この大雨、しかも濁流ができるほどの雨、普通空は、雲に覆われているはず。だけど、雲なんて、ない。これが……綻びの影響……?そうだとすれば、世界が崩壊するかもって話も信じられる。
空から目を戻すと、窓の外、道の真ん中に、人がいるのが見えた。こんな雨なのに、傘もささずに。何をしているのだろう。じっと見つめて、
「あ!」
気付いた。激しい雨の中、佇む女性。何かを手にして、耳に当てている。あれは、昨日の彼女だ。ストン、何か、腑に落ちた。
そう、綻びの影響であれば、彼女は動く、と。
すごいなぁ。他人事のように思いながら彼女に目を戻すと、彼女は歩みを進めていた。そして、2つ先の角を曲がっていく。雨は、激しくなっていた。
このまま放置していいの?心の声が、囁く。
私にできることなんてない。もっともな反論。そう、私は。何をやらせてもダメダメな人間。そんな私が何かしても、空回りに終わるに決まっている。
彼女は一人で戦おうとしているのに?それなのに、私は見て見ぬふりをするの?
途端、居ても立っても居られなくなって、私は家を飛び出した。玄関の扉を開けた途端、一斉に襲ってくるザァザァとした激しい音。こんなうるさい音なのに、石の声なんて聞こえるの!?と心の中で文句を言う。すると突然、雨が弱まった。なんだ、実はへっちゃらかも。そんなことを思いながら、空を見上げた。すると、今度ははっきり見えた、太陽。その光はギラギラと、嫌な輝きだ。……やっぱりおかしい。そう結論付けると、私は駆け出した。
彼女が姿を消した角を曲がる。そこに彼女はいない。でも、確かに彼女はここを曲がった。この道を進んだはず。私はその道に足を踏み入れた。分岐路があれば、辺りを見渡す。もしかしたらもう、追いつけないかもしれない。そんな弱い心を抑えて、濡れるのも構わずに私は進んだ。
「――――修復せよ」
かすかだけど聞こえた声。それと同時に見える光。声が聞こえた方に顔を向けた。あの辺だ!目星を付けて、そっちに向かって走る。太陽の光が強くなってきた。それなのに雨も強くなってくる。変だよ、応急処置とは言っていたけれど、彼女が対処しているのに!
光の見えている場所に向かって、角を曲がった。やっと見つけた!彼女だ!走り続けたせいで息が苦しい。だけど、身体に鞭打ち、彼女に駆け寄った。
光の柱の中心で、彼女は必死に力を放出していた。その顔は青白い。その青白さを見て、私はギョッとした。……これでも伊達に院長の教えを受けていない。あの症状は、魔力欠乏症。このままでは、命に関わる……!
「これ以上続けたら危ない!」
思わず私は叫んだ。目を瞑っていた彼女が、チラリとこちらに視線を向けた。それなのに、彼女の目線は手元――石――にすぐ戻り、彼女は力の放出を続けた。あぁ、と思った。多分、彼女も分かっている。自分の命が危ないって。でも、だけど、今ここで異常が起こっていることは確かで。それに対処できるのは、気付いているのすら、彼女だけで。彼女が何とかしないと、その瞬間、この世界は終わるかもしれない。
……だからって、このまま彼女が倒れてもいいの?このまま指を咥えて見ていてもいいの!?その時、グラッと彼女が体勢を崩した。倒れまいと、彼女が踏ん張ったのが見える。
そんなのダメ!!
意を決して、私は彼女に駆け寄った。その手を掴む。彼女の顔がこちらを向いた。その顔が表すのは、怒り。
「邪魔しないでっ!」
「しないっ!」
思わず怒鳴り返した。
「このまま続けるのは止めない!ただ、私の魔力を貸すだけ!!」
そして、私は彼女の手元を食い入るように見つめた。集中しろ、集中……!!治療院で学んだことを今、ここで生かすんだ……!院長は何を言っていたっけ!?魔力欠乏症の対処に必要なこと、それから治療の心構えは!?
スッと、周りの音が消えた。そう、大事なのは、まず、落ち着くこと。自分が焦っていては、何もできないから。
次に確認することは、現状。今、私の目に映っているのは何?彼女の手、その手に乗る石、それから、……魔力の流れ。そう、今、私が見るべきものは、彼女の魔力……!
じゃあ、魔力欠乏症の相手に必要なもの。追加の魔力。それの供給元の確認。私。……大丈夫、できる。やる!私は掴んだ彼女の手を、そっと掴み直した。壊れ物を扱う様に、包み込むような形に。
いざ、魔力の注入。急激な魔力増加はショック死の恐れがある。だから、ゆっくり、慎重に。相手の体が抵抗しないよう、寄り添うように力を流す。流しながら、観察は怠らないこと。よしよし、ちゃんとできている!
突然、相手の魔力が、揺れた。そんなときはどうするの。院長の教えを思い返し、そっと、注入する魔力を弱めた。すると、相手の魔力の反発が弱まった。オーケーオーケー、大丈夫。じゃあ、もう一回。再度魔力の注入量を、増やす。少しずつ、ちょこっとだけ。魔力が安定した。その瞬間を見逃さない。この量が最適な注入量だ。
注入量が分かったら、次は魔力の総量。彼女はどんどん魔力を消費している。だからしばらくは、続けても大丈夫。問題は、魔力を消費しなくなってか、ら……。魔法の発動を止めたみたい。相手の体に、魔力が溜まっていく。増えた魔力に驚かないよう、再度注ぎ入れる量を調整。そして、十分な量の魔力を分け与える。――もう、大丈夫。
ほぅと息を吐き、彼女から手を離した。すると、一気に周りの音が、光が、匂いが、やってきた。さわさわとした風の音。柔らかな光。そして、雨上がりの湿った匂い。気付けば雨は止んでいて、ギラギラしい光も鳴りをひそめていた。顔を上げると、彼女は目を真ん丸にして、ポカンと口を開けている。
「あ、えっと、ごめん、急に手を握ったりなんかして。一応、治療院で働いていて。やり方は知っていて。おかしなことにはなっていないはずだけど」
言い訳が滑るように口から出てきた。つらつらと並べていたが、突然、
「あなた!」
と、彼女の叫びに遮られた。彼女はキラッキラした目をして、勢いよく私の両手を取る。
「綻びの修復者だったのね!!!」
その後、興奮し切った彼女が怒涛の勢いで色々教えてくれたが、速い速い、多い多い。スピードと量についていけなかった。魔力欠乏症の治療が上手くいったのか、今になって不安になってきたのもあって、一先ず彼女を治療院に連れて行った。
治療院につくと、心配顔の院長が出迎えた。そこで思い出す。当然、今日も仕事があったことを。大遅刻!!しかも無断!!!平謝りする私だったけれど、院長は彼女に気付き、とりあえず中に入って話を、と私達を入れてくれた。そして、何も説明していないのに、院長は診察の準備に取り掛かる。それを見て、私は慌てて彼女を椅子に座らせ、カルテ作成のための用紙や筆記具の準備、冷蔵庫の氷の確保……いつもやっている雑用に取り掛かった。
「……魔力欠乏症。しかし上手に対処されている。ナンシー、君がこれを?」
診察を終えてこちらを見た院長。信じられない、とはっきり顔に書いてあった。まぁね。普段の私を見ていればそう思うよね。……正直私もそう思う。
「無我夢中でした」
私がそう言うと、院長は、ニコリ、と笑って見せた。
「最初はそんなものだ」
院長は問題なしの太鼓判を押し、そして、往診があるからと治療院を出て行った。……本当に、どこまでもできた人だと、心から尊敬する。今も拝みたいのを我慢したくらい。
それで、今考えないといけないことは。私は彼女と向き合う。彼女は診察の席に座ったまま、相変わらずキラキラした目をこちらに向けていた。だけど、さっきの興奮はちょっと落ち着いたみたい。
「さっきは驚かせたわね。ごめんなさい」
苦笑いしながら、彼女は言う。でも、目の輝きは弱まっていなかった。それに私も苦笑を返しながら、首を横に振った。
「ううん。ただ、さっきの話は全然頭に入ってこなかったから、できれば最初から、易しーく教えてほしいな」
彼女は神妙に頷いた。
「分かったわ。まず、さっきのこと。昨日も言ったように、この地の異常気象は、世界の綻びによって引き起こされていた。私は世界の伝達者として石からそれを聴き、なんとかしようとした。だけど、私では力不足だった。そこに、あなたの魔力が登場した」
彼女はにっこりと、私を見上げた。
「私を通じてではあったけれど、あなたの魔力が放出されたことで、結界が問題なく修復されたの。今までの応急処置とは比べ物にならないくらい、完璧に。つまり、あなたは綻びの修復者だった」
私は困惑した。
「私が……綻びの修復者……?でも、待って。私はあなたの治療をしたけれど、上手くいったのが珍しいくらいで、普段はダメダメなの」
そう手を振りながら、思わず後ずさる。ドサドサドサ!私はピタリと動きを止めた。……あぁ、まただ……。振り向きたくない。まだ棚からは距離があった、当たった感触はなかった。それなのに!絶対、何か落ちた。割れ物の音じゃなかったから、まだマシ……ということにしよう……。
私ががっくりうなだれていると、彼女の声が聞こえた。
「……もしかして、そういうこと、よくあった?」
彼女に目を戻すと、彼女は思案するような顔をしていた。私は力なく頷く。
「それも、あなたが綻びの修復者だからかもしれないわ」
私は、ポカンと彼女を見た。
「私も本で読んだだけだけれど。綻びの修復者は、結界を修復できる、逆に言えば、結界に影響を与えられる存在なの。だから、その力はコントロールが難しくて、上手く制御できないと、勝手に影響を与えることがあるのだとか」
そんな風に、とこちらを示す彼女を、私はパチクリと瞬きをしながら見つめていた。
「じゃあ……これは、何とかなるかもってこと?」
「おそらく」
希望が見えた気がした。散々院長に迷惑をかけたが、私のドジも何とかなるかもしれない……!
「ところで……あなたにお願いがあるの」
私が一人で安堵に耽っていると、彼女の真剣な声が聞こえた。気付けば彼女は、私の側に立っていた。
「綻びの修復者として、私と一緒に旅をしてほしい」
後日、私は彼女と一緒に街の門の前にいた。歩きやすい服装に、食料や応急セットなどが入ったカバン。いわゆる旅人の装い。そう、私は、綻びの修復者にチャレンジする。
「行くんだね」
散々お世話になった院長が、見送りに来てくれた。本当に何をしてもダメダメだったので、かなり心配してくれていたらしい。私が綻びの修復者というもので、彼女と一緒に行きたいと説明した時も、無名の伝承については眉をひそめたものの、できることが見つかったことにはほっとした、と言ってくれた。伝承については、彼女がかなり!必死に説明して、理解を得ることができた。そして最後には、私の決断を尊重してくれたのだった。
「頑張るんだよ」
そう院長は、私の頭を撫でる。
「はい!!大変、大変、お世話になりました!!!」
元気よく院長に挨拶し、深々と頭を下げる。もう行きなさい、目元を赤くした院長に促され、少し先で待っている彼女の方に、私は駆け寄った。
彼女は私を見ると、にっこり笑った。
「じゃあ、行きましょうか」
「うん!………えーと、そういえば、あなた、名前は?」
彼女は目を真ん丸にした。少し思案する顔をして、愕然としている。
「……そういえば、名乗っていなかったわね」
彼女は少し進んで、クルリとこちらを見た。柔らかい太陽に当てられて、眩しいばかりの笑みをこちらに向ける。
「私はティアナ。これからよろしくね!」
彼女の差し出した手を、私も名乗りながら力強く掴んだのだった。
ちなみに、街を出て少ししてから。石の声を聴いたり、結界を修復したりといった活動に報酬はない。だから、主な収入源は冒険者活動となるから覚悟してね、と言われ。そんなこと、考えもしていなかった私は、もしかして、転職失敗した……?と、顔を引き攣らせるのだった。




