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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

「明日が来ない街」の天気予報士

作者: なは
掲載日:2026/02/13

       第一章 目覚め




 枕元のラジオが、午前六時の時報を鳴らした。


 ピ、ピ、ピ、ポーン。四つの電子音が、薄暗い部屋に響く。久住くずみ陽一よういちは薄い掛け布団の中で目を開け、天井のシミを見つめた。左上の隅、ちょうどエアコンの吹き出し口の下あたりに広がる、茶色い染みだ。輪郭が少しだけ地図に似ていて、右側に飛び出した部分がイタリア半島のように見える。


 そのシミの形を、久住はもう何百回と確認していた。


 ゆっくりと身体を起こす。腰が鈍く痛んだ。昨夜……いや、「昨夜」という表現が正しいのかどうかさえ分からないが、とにかく直前の記憶では、久住は地下壕のコンクリートの床に倒れていた。壁を爪で引っ掻き、喉の奥から血の味が込み上げ、視界が白く飛んだ。気圧が急降下し、肺の中の空気が膨みきって破裂する、あの感覚。


 だが今、久住の身体には傷一つない。爪の間に乾いた血がこびりついている以外は。


「……五百十四回目」


 声に出して数えたが、正確な数字かどうかは自信がなかった。三百を超えたあたりから、記憶と記憶の境界が曖昧になり始めている。確かなのは、今朝もまた同じ朝が来たということだけだ。



 久住は洗面所に立ち、蛇口をひねった。三秒待つと水温が安定する。いつも三秒だ。冷たい水で顔を洗い、鏡の前に立つ。


 三十二歳の男の顔が映っている。目の下に濃いくま。頬はこけ、唇の色が悪い。身体は毎朝リセットされるはずなのに、顔つきだけは少しずつ老けていく気がする。精神の疲弊が表情に滲んでいるのかもしれない。あるいは、それすらも思い込みなのかもしれない。


 歯を磨く。奥歯の左側に詰め物がある。これも毎朝同じ感触だ。舌先で確認するのが癖になっていた。確かめたところで何も変わらないのに、変わっていないことを確認しないと気が済まない。ループの中で正気を保つための、小さな儀式のようなものだ。



 着替える。クローゼットの中には同じシャツが四枚、同じスラックスが三本。どれを選んでも同じだが、久住はいつも右から二番目のシャツを手に取る。最初のループでそうしたから、というだけの理由だった。


 キッチンに立ち、コーヒーを淹れる。インスタントの粉をマグカップに入れ、湯を注ぐ。安物のコーヒーだが、この工程だけは省略しなかった。苦い液体が喉を通り過ぎる感覚が、自分がまだ生きていることを確認させてくれる。


 窓の外を見た。快晴。雲一つない空が、地平線まで広がっている。


 最高気温二十四度。湿度四十五パーセント。北北西の風、毎秒二メートル。


 暗記するまでもなく、すべて知っている。この街の天気は毎日同じだ。完璧な晴天。非の打ち所のない、美しすぎる蒼。



 アパートの階段を下りると、三段目で隣室の柴犬しばいぬが吠えた。キャン、と一度だけ。久住はもう振り向かない。この犬の名前はハナといい、飼い主は二階の角部屋に住む独居の老婦人だ。名前は村田むらたさん。毎朝七時にハナを散歩に連れ出し、公園のベンチで三十分ほど休んでから帰る。散歩コースも休憩時間も、一秒たりとも変わらない。


 通りに出ると、新聞配達のバイクが通り過ぎた。赤いカブに乗った、背の低い青年。名前は知らないが、毎朝六時十二分にこの交差点を通過する。エンジン音が遠ざかり、信号が青に変わる。久住は横断歩道を渡った。


 この街のすべてが、精密に噛み合った歯車のように動いている。住民の行動パターン、信号のタイミング、鳥のさえずりの音程まで。最初の百回ほどは、それが不気味で仕方なかった。今はもう、何も感じない。



 市営ケーブルテレビ局は、商店街の外れにある三階建てのビルだった。コンクリート打ちっぱなしの外壁は経年劣化でところどころ黒ずみ、屋上の受信アンテナが朝日を浴びて鈍く光っている。正面玄関のガラスドアを押すと、ロビーに漂うコーヒーと埃の混じった匂いが鼻をついた。


「おはよう、久住さん。今日も精が出ますな」


 受付カウンターの奥から、警備員の佐々木(ささき)が声をかけてきた。六十代後半の、穏やかな目をした男だ。白髪交じりの髪を丁寧に撫でつけ、制服の襟元はいつもきちんとしている。


「おはようございます、佐々木さん」


「孫がな、来月小学校に上がるんだ。ランドセル、赤いのがいいって言い張ってな。女の子は大変だよ」


 久住は微笑んだ。この会話も、もう五百回以上聞いている。佐々木の孫娘は永遠に来月を待ち続けており、赤いランドセルを背負う日は決して来ない。


「楽しみですね」


「ああ、楽しみだ」


 佐々木はしわだらけの顔をほころばせた。久住は会釈をして、エレベーターに乗った。



 二階のスタジオは、十五畳ほどの殺風景な部屋だった。壁際にカメラが二台、中央にアナウンサー用の机。その背後に天気図を映すモニターが据え付けられている。天井から吊るされた照明のうち一つが微かにちらつく。右端の蛍光灯だ。これも毎日同じ。


「うっす、久住さん。早いっすね」


 カメラマンの宮下みやしたが、三脚のネジを締めながら振り返った。二十四歳、痩せ型で、短く刈り込んだ髪。この街を出て東京のテレビ局へ行きたいと、折に触れて口にする。将来性のある、真面目な若者だ。


「ああ、おはよう」


「今日もいい天気っすね」


「そうだな」


 ディレクターの永田ながたがタブレットを持って近づいてきた。四十五歳、恰幅かっぷくのいい体型で、眼鏡の奥の目は常に半開きだ。口癖は「まあいつも通りだけどね」で、実際いつも通り以外の何物でもない原稿を手渡してくる。


「久住さん、今日の原稿。まあいつも通りだけどね」


「ありがとうございます」


 久住は原稿に目を通すふりをした。内容は暗記している。一字一句、すべて。



 午前七時。本番五秒前のカウントが始まり、赤いランプが灯る。


「おはようございます。天気予報の時間です」


 久住はカメラのレンズを見つめた。このレンズの向こうには、六千人の住民の生活がある。朝食を食べながらテレビをつけている主婦、出勤前にネクタイを締めながら画面を一瞥するサラリーマン、登校前にランドセルの中身を確認しながら聞き流す小学生。


「本日は高気圧に覆われ、終日穏やかな晴天となるでしょう。最高気温は二十四度、湿度は四十五パーセント前後で推移する見込みです」


 嘘だ。


「風も穏やかですので、お洗濯には絶好の一日ですね。お出かけの際も羽織ものは必要ないでしょう」


 全部、嘘だ。


「それでは皆さん、今日も良い一日をお過ごしください」


 久住は笑顔を作った。穏やかで、信頼感のある笑顔。五百回以上の練習で完璧に仕上げた表情だ。カメラの赤いランプが消え、宮下が「お疲れさまでした」と声をかける。


 嘘をつくのは、もう慣れた。


 今夜もこの街は死ぬ。二十三時五十九分に嵐が来て、住民は全員殺される。建物は崩壊し、道路は裂け、空気そのものが凶器に変わる。そして翌朝、すべてがなかったことになり、同じ一日が始まる。


 それを知っているのは、この街でただ一人、久住だけだった。



 放送後、久住は屋上に出た。三階建てのビルの屋上は狭く、灰色のコンクリートの上にステンレスの灰皿がぽつんと置かれている。柵に寄りかかり、煙草に火をつけた。


 紫煙が青空に溶けていく。眼下には商店街のアーケード、その向こうに市営団地の群れ、さらに奥に丘陵地帯と、うっすらと霞む山の稜線。見渡す限り、平和そのものの風景だ。


 登校中の小学生が、黄色い帽子をかぶって列を作っている。先頭の子が振り返って後ろの子に何か言い、後ろの子がけらけら笑う。商店街では八百屋の主人がダンボールから野菜を出し、店先に並べている。キャベツ、人参、大根。並べる順番も毎日同じだ。


 この街は箱庭だ、と久住は思う。


 精巧に作られた、完璧な箱庭。住民はその中で幸福に暮らし、自分たちが箱の中にいることに気づかない。箱のふたが毎晩閉まり、中身がすべて粉砕されることにも。


 久住だけが、蓋の存在を知っている。


 最初のうちは、それを伝えようとした。カメラの前で叫び、街を走り回り、一軒一軒のドアを叩いた。「夜になったら逃げろ」「嵐が来る」「みんな死ぬんだ」と。結果は惨憺たるものだった。



 三十七回目のループのことだ。


 久住はその日の夕方の放送で、原稿を無視した。カメラに向かって、目の前の住民たちに向かって、腹の底から叫んだ。


「緊急放送です。今夜二十三時五十九分、この街に壊滅的な嵐が発生します。全住民は直ちに避難してください!」


 宮下が目を剥いた。永田がディレクター席から立ち上がり、手を振って放送を止めようとした。だが久住は止まらなかった。


「これは予報ではありません、事実です! 毎晩、この時刻に嵐が来て、我々全員が死んでいます! 誰も覚えていないだけなんです!」


 放送は三十秒で打ち切られた。永田がマスター卓の電源を落とし、スタジオは暗くなった。


 その後、久住は局長室に呼び出された。局長の大林おおばやしは分厚い眼鏡の奥で困惑した目をしており、「久住君、最近疲れているんじゃないか」と穏やかに言った。久住は大林の手を掴み、「信じてくれ、今夜みんな死ぬんだ」と繰り返したが、大林は困ったように笑うだけだった。


 夕方には、市の保健センターから二人の職員がやってきた。穏やかな口調で「少しお話を聞かせてくださいませんか」と言い、久住を車に乗せた。市立病院の精神科に連れて行かれ、ベッドに固定され、鎮静剤を注射された。


 意識が薄れる中で、久住は天井の蛍光灯を見つめていた。ここでも、蛍光灯の一つが微かにちらついていた。


 そして、二十三時五十九分が来た。


 病室の窓ガラスが内側に弾け、風が突入してきた。点滴のスタンドが吹き飛び、ベッドごと壁に叩きつけられた。拘束帯に縛られた久住は身動きが取れず、気圧の急降下に為す術もなかった。肺の中の空気が急速に膨張し、胸郭の内側を圧迫した。肋骨ろっこつが軋む音。口から血が溢れた。


 視界が白く染まる最後の瞬間、久住は思った。


 もう二度と、本当のことは言わない、と。



 それ以来、久住は完璧な嘘つきになった。


 毎朝、穏やかな笑顔でカメラの前に立ち、晴天を予報する。同僚たちと談笑し、商店街で挨拶を交わし、すべてが正常であるかのように振る舞う。誰も疑わない。天気予報士の久住さんは、いつも通りの久住さんだ。


 嘘は、最も確実な自己防衛だった。


 真実を語れば排除される。真実を叫べば狂人として処理される。この街のシステムは、異物を許容しない。だから久住は異物であることをやめた。歯車の一つになり、与えられた役割を完璧にこなすことにした。


 だが、嘘をつき続けることには代償がある。


 それは、自分が何者なのか分からなくなることだ。



 屋上の煙草を吸い終え、久住はスタジオに戻った。放送と放送の間の時間は、事務作業に充てられる。過去の気象データの整理、機材のメンテナンス記録の更新、翌日の放送原稿の確認。すべてが無意味な作業だ。翌日は来ない。来ても、それは今日と同じ今日だ。


 だが久住はそれらの作業を丁寧にこなした。宮下と世間話をし、永田の愚痴に付き合い、昼休みには商店街の定食屋で日替わり定食を食べた。日替わりは毎日サバの味噌煮だ。日替わりではない。


 午後三時、久住は機材室の奥にある自分だけの作業スペースに引きこもった。ここは他のスタッフが滅多に入らない物置のような部屋で、壁には古いポスターや使われなくなったテープデッキが積まれている。


 久住はこの部屋で、もう一つの仕事をしていた。


 ノートを開く。百円ショップで買った無印のノートだ。何冊も使い切り、今は十二冊目。表紙には何も書かれていない。中には、久住が毎回のループで記録したデータがびっしりと書き込まれていた。


 嵐の発生時刻。風速の推定値。気圧の推移。建物の倒壊パターン。瓦礫がれきの飛散方向。死ぬまでの感覚の記録。


 すべてを、可能な限り客観的に記述している。感情を交えず、数値と事実だけを。そうしなければ、正気を保てなかった。


 久住は最新のページを開き、昨夜のデータを書き加えた。


「514回目。地下壕(北丘陵、旧陸軍防空壕跡)にて待機。23:59:00、微震を感知。23:59:03、コンクリート壁にひび割れ発生。23:59:07、急激な気圧低下を体感。23:59:12頃、肺胞破裂により意識喪失。推定死亡時刻23:59:15前後」


 ペンを置き、ノートを閉じた。このノートもまた、翌朝にはリセットされて白紙に戻る。だから久住は毎回、前日のデータを記憶から書き起こしている。記憶だけが、唯一リセットされないものだった。



 夕方六時。二回目の放送が始まる。朝よりも視聴率が高い時間帯だ。夕食を準備しながらテレビをつけている家庭が多い。


「こんばんは。天気予報の時間です」


 久住はいつも通りの声でカメラに語りかけた。


「今夜も雲は少なく、星空が綺麗に見えるでしょう。放射冷却の影響で明け方は少し冷え込みますので、薄い毛布を一枚用意しておくとよいかもしれません」


 冷え込みなど、感じる間もなく死ぬのだが。


「明日の天気も引き続き晴れの予報です。それでは皆さん、今夜もおやすみなさい。また明日の朝、七時にお会いしましょう」


 赤いランプが消えた。


 また明日。


 その言葉を、久住は五百回以上口にしてきた。そして五百回以上、その約束は形式的には果たされている。朝は来る。同じ朝が。だがそれは「明日」なのだろうか。昨日と区別のつかない今日は、「明日」と呼べるのだろうか。


 久住には、分からなかった。





       第二章 死の記録




 久住が最初の嵐を経験したのは、いつのことだったか。


 記憶の中で最も鮮明な「最初」は、自宅のアパートにいた夜だ。テレビを見ながらビールを飲み、そろそろ寝ようかと思った二十三時五十分頃、窓の外で不穏な音がした。


 風の音ではなかった。もっと深い、大気そのものが軋むような低い振動。地鳴りに似ているが、地面ではなく空気が震えている。カーテンが揺れ始め、テレビの画面にノイズが走った。猫が二匹、通りを全力で走り去っていくのが窓から見えた。


 久住はベランダに出て空を見上げた。星が一つもなかった。数分前まで満天の星空だったはずなのに、空が黒い壁で覆われている。


 そして二十三時五十九分。


 それは始まった。


 最初に感じたのは、耳の奥が詰まるような圧迫感だった。飛行機が急降下するときのような、あの不快な感覚が一瞬で極限まで高まった。鼓膜が内側から押される。目の奥がズキズキと痛む。


 次に風が来た。風というよりは、空気の壁だった。水平方向から全方位に同時に衝撃波が走り、アパートの窓ガラスが爆発するように砕けた。破片が部屋の中に吹き込み、久住の頬を切った。


 立っていられなくなり、床に倒れた。家具が滑り、テレビが落下し、本棚が倒壊した。天井が軋み、壁にひびが走った。轟音が止まない。耳をふさいでも頭蓋骨の内側で音が反響している。


 そして最後に、気圧が落ちた。


 それは、言葉では表現しきれない感覚だった。身体の内側から何かが膨張してくる。肺の中の空気が行き場を失い、胸郭を内側から押し広げようとする。息を吐こうとしても吐けない。吸おうとしても吸えない。それでいて胸の内圧だけが際限なく上がっていく。


 口から血が溢れた。


 視界が赤く染まり、次に白くなり、最後に何も見えなくなった。


 久住は死んだ。


 ……そして翌朝、午前六時の時報で目を覚ました。



 二回目の夜。久住はまだ、前夜の出来事を悪夢だと思っていた。


 だが、すべてが同じだった。朝の気温、空の色、新聞配達のバイクの通過時刻。コーヒーを淹れようとしたとき、指が震えていることに気づいた。身体は覚えている。死の記憶を。


 その夜、久住は家にいることができなかった。二十三時を過ぎた頃、居ても立ってもいられず外に飛び出した。街を走り、とにかく昨夜と違う場所にいようとした。商店街を抜け、川沿いの遊歩道を走り、橋の下に潜り込んだ。


 二十三時五十九分。


 橋の下でも嵐は来た。鉄製の橋桁が歪み、コンクリートの橋脚にひびが入り、川の水面が突風で巻き上げられた。久住は冷たい水と瓦礫の中で、再び気圧に殺された。


 三回目も死んだ。四回目も。五回目も。


 久住は毎晩、異なる場所で死に続けた。



 十回目のループから、久住は科学的なアプローチを取ることにした。


 天気予報士としての訓練は、データの分析と仮説の検証だ。感情を排し、事実だけを積み上げる。死因を分析し、対策を立てる。それが久住にできる唯一のことだった。


 まず、嵐の基本的な特性を把握した。


 発生時刻は毎回二十三時五十九分ちょうど。一秒の誤差もない。持続時間はおよそ六十秒。嵐が収まってから約一秒後にリセットが起こり、翌朝六時に意識が再開する。


 風速は推定で秒速百十メートル以上。時速に換算すると約四百キロ。竜巻の最強クラスであるF5をはるかに凌駕する。木造建築物は瞬時に倒壊し、鉄筋コンクリートの建物でさえ外壁が剥落する。


 だが直接の死因は、風そのものではなかった。


 急激な気圧の低下だ。嵐の到来とほぼ同時に、気圧がおよそ三十ヘクトパスカル以上急降下する。これは通常の台風の十倍以上の変化を、わずか十秒足らずの間に引き起こすことを意味する。人間の肺胞は、この圧力差に耐えられない。内圧と外圧のバランスが崩れ、肺胞の壁が破裂する。いわゆる爆発的減圧障害だ。


 この知見を得たことで、久住は対策の方向性を定めた。風を防ぐだけでは不十分だ。気密性の高い空間を確保しなければならない。



 五十回目のループ。久住は市の北側の丘陵地にある旧陸軍の防空壕に目をつけた。


 コンクリート製の壕は地下五メートルに掘られ、壁の厚さは四十センチ以上。入口には鋼鉄の防爆扉がある。戦時中の空襲にも耐えた構造だ。


 久住は懐中電灯を片手に壕の奥へ進み、最も奥まった区画を選んだ。入口の扉をきちんと閉め、さらに内側からロープで補強した。壁際に座り、膝を抱え、時計を見つめた。


 二十三時五十五分。


 静寂。地下深くにいるせいか、外の音はほとんど聞こえない。自分の心臓の音だけが、やけに大きく鳴っている。


 二十三時五十八分。


 微震。かすかな振動が壁を伝って足の裏に届いた。始まる。


 二十三時五十九分。


 最初は音だった。低い唸り声のような、大地の底から這い上がってくるような振動音。次の瞬間、防爆扉が軋んだ。分厚い鋼鉄が紙のように歪み、隙間から風が吹き込んできた。


 「嘘だろ……」


 久住は壁に背中を押し付けた。コンクリートの壁にひびが走るのが見えた。蜘蛛の巣状の亀裂が天井まで延び、コンクリートの粉塵が降ってきた。


 そして気圧が落ちた。


 地下五メートルでも、結果は同じだった。気圧差は地表よりわずかに緩和されたが、「わずかに」では足りなかった。肺が内側から膨らみ、破裂する。口から血が溢れ、視界が暗転する。


 久住は壁を爪で掻きむしりながら死んだ。乾いた血が爪の間にこびりついたまま、翌朝を迎えることになる。



 八十二回目のループでは、銀行の金庫室を試した。


 市の中心部にある地方銀行の支店。かつて中を見学させてもらったことがある。金庫室の扉は厚さ六十センチの鋼鉄製で、内部は完全に密閉される構造だ。


 閉店後、裏口の鍵を壊して侵入した。どうせ翌朝にはリセットされるのだから、犯罪行為に対する罪悪感はとうに麻痺していた。


 金庫室の中に入り、内側から扉を閉めた。完全な暗闇と静寂。圧倒的な鋼鉄の壁に囲まれ、久住はわずかな安堵を覚えた。ここなら大丈夫かもしれない。


 だが嵐は来た。


 金庫室の中にいても音は聞こえた。低い振動が壁を伝わり、床が揺れた。扉が軋む音。金属と金属がこすれる、不快な高音。


 そして、信じがたいことが起きた。


 金庫室の内部の気圧が下がり始めたのだ。あり得ない。六十センチの鋼鉄の壁で密閉された空間で、なぜ気圧が変動するのか。物理法則に反している。


 だが現実に、久住の肺は膨張し始めた。鼻血が出た。耳の奥でプチプチと何かが弾ける音がした。


 この嵐は、物理的な気象現象ではない。


 その結論に至ったのは、金庫室の中で死にながらだった。



 百二十回目のループでは、街からの脱出を試みた。


 久住は局の社用車を持ち出し、国道を南に走った。この街から出る道は三本ある。北の山道、東の海岸沿い、そして南の国道トンネルだ。


 時速百二十キロでアクセルを踏み、トンネルに突入した。全長一・五キロのトンネル。ヘッドライトが照らすオレンジ色の壁が後方に流れていく。出口の光が見え始めた、と思った瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。


 説明のしようのない感覚だった。空間そのものが折り畳まれたかのように、久住はいつの間にかトンネルの入口に戻っていた。車のメーターは百二十キロを指したまま、目の前にはさっき通過したはずのトンネルの入口がある。


 もう一度突っ込んだ。同じだった。三度目も。四度目も。どれだけ走っても、トンネルの出口には辿り着けない。


 久住は車のハンドルを叩き、叫んだ。東の海岸線を試しても、北の山道を試しても、結果は同じだった。この街は閉じている。空間そのものが、住民を外に出さないように折り曲げられている。


 逃げることはできない。この街で死に続けるしかない。



 二百回目を超えた頃から、久住は「快適に死ぬ方法」を模索する時期に入った。


 睡眠薬を大量に飲み、意識がないうちに嵐を迎える。酒を浴びるほど飲み、泥酔した状態で夜を待つ。公園のベンチに寝転がり、星を見ながら終わりを待つ。


 だが、どの方法でも、死の瞬間の感覚だけは鮮明に記憶に刻まれた。意識がないはずの睡眠薬の夜でさえ、肺が破裂する苦痛を脳は記録していた。リセットのシステムは残酷なまでに完璧で、死の記憶だけは決して消してくれなかった。


 三百回目あたりで、久住は諦めた。死を避けることも、死を快適にすることもできない。ならば、この状況を受け入れるしかない。


 朝起きて、嘘の予報を読み、夜に死ぬ。それを繰り返す。永遠に。


 だが受け入れたと思った瞬間、新しい疑問が湧いた。


 なぜ、自分だけが覚えているのか。


 嵐は街全体を破壊する。住民全員が死ぬ。なのになぜ、久住だけが前のループの記憶を持ち越すのか。他の住民は完全にリセットされるのに、久住だけがリセットの対象外になっている理由は何なのか。


 偶然ではない、と久住は直感した。


 このシステムには設計者がいる。そして設計者は、意図的に久住を「覚えている者」として残している。



 四百回目のループに入った頃、久住は日中の時間をほとんど気象データの分析に費やすようになっていた。


 局の機材室には簡易的な気圧計と風速計がある。久住はそれらを使い、嵐の直前と直後の気圧変化をできる限り正確に記録した。ノートには膨大なデータが蓄積されていく。もちろん翌朝にはノートもリセットされるが、久住の記憶は残る。前のループで書いたデータを思い出しながら書き直し、新しいデータを加える。


 そうして等圧線を地図に描き起こしていくうちに、ある異常に気づいた。


 嵐の等圧線が完全な同心円ではない。わずかに歪んでいる。東に偏り、ある一点を避けるように湾曲している。自然の低気圧は通常、地形の影響で多少の歪みは生じるが、この歪みは明らかに人為的だった。まるで「ここだけは壊すな」と指定されたかのように、等圧線がその地点を迂回している。


 久住は定規を当て、空白地帯の中心を特定した。


 街の東端。海岸線沿いの断崖の上に立つ、廃墟の水族館。


 十五年前に廃業し、取り壊しの予算がつかないまま放置されている施設だ。久住も幼い頃に一度だけ行った記憶がある。イルカのショーを見て、大はしゃぎした。


 だが、なぜあの場所だけが嵐の空白地帯になっているのか。


 久住は翌日――いや、同じ日の翌朝、すぐに水族館へ向かうことを決めた。





       第三章 街の人々




 水族館の調査に向かう前に、久住はいつも通り朝の放送をこなさなければならなかった。ループの中で最も重要なのは、日常を壊さないことだ。異常な行動を取れば排除される。三十七回目の教訓は、深く骨に刻まれている。


 午前七時の放送を終え、久住は商店街へ歩いた。水族館は街の東端にあり、歩いて四十分ほどかかる。急ぐ必要はない。嵐は二十三時五十九分まで来ない。時間だけは、いくらでもある。


 商店街のアーケードに入ると、朝の喧騒が久住を包んだ。八百屋がダンボールを潰す音、肉屋の換気扇が回る低い唸り、パン屋から漂ってくるバターと小麦粉の甘い匂い。すべてが毎日同じで、すべてが毎日新鮮で、すべてが毎晩消える。



「あ、久住さん! おはようございます!」


 声をかけてきたのは、花屋の店先で水やりをしている女だった。名前は小林美咲こばやしみさき。二十八歳、ショートカットに大きな丸い目。明るい声とどこか気の強そうなあごのラインが印象的だ。


「おはようございます、小林さん。今日もバラが綺麗ですね」


「ありがとうございます! でもこのバラ、実は昨日の仕入れがちょっと失敗しちゃって。色味がいまいちなんですよね」


 久住は微笑んだ。その「昨日の仕入れ」は、永遠に同じ結果を繰り返している。このバラは永遠に同じ色味で咲き、小林さんは永遠にそれを「ちょっと失敗」だと感じ続ける。


「十分綺麗だと思いますよ」


「久住さんにそう言われると、やる気出ますー」


 小林さんは歯を見せて笑った。久住はその笑顔を見るたびに、胸の奥が痛くなる。この人も今夜死ぬ。花も、笑顔も、全部消える。


 だが、それを口にすることはできない。



 商店街の中ほどに、佐藤鮮魚店がある。店先の発泡スチロールの箱にはアジやサバが氷の上に並び、奥の調理台では主人の佐藤さとうがまな板に向かっている。


「よお、久住さん。今日も早えーな」


 佐藤は出刃包丁を置き、手を拭いた。五十二歳、がっしりとした体格で、日焼けした顔に太い眉。声は大きく、笑い方は豪快だ。


「ちょっと散歩がてら」


「散歩か。いい天気だもんな」


「ええ」


 佐藤は調理台の下から何かを取り出し、得意げに久住に見せた。新品のサッカーボールだ。白と黒の伝統的なデザインで、まだビニールの包装が付いている。


「息子の誕生日プレゼント。明日で九歳なんだよ」


「ああ、そうでしたね。素敵なプレゼントですね」


翔太しょうたがな、ずっとこれほしいって言ってたんだ。放課後に公園で練習するんだと。サッカー選手になりたいんだとさ。まだ九歳なのによ」


 佐藤は笑った。息子への愛情が、顔のすべての皺に刻まれている。


 翔太くんは永遠に八歳のまま、九歳の誕生日を迎えられない。サッカー選手にもなれない。公園でボールを蹴ることもない。このボールのビニール包装が破られることは、永遠にない。


 久住は拳を強く握りしめた。


「喜びますよ、きっと」


「だろ? 帰ったら庭でバーベキューやるんだ。肉は奮発して和牛にした。嫁さんには内緒だけどな」


 佐藤は声をひそめてウインクした。久住は笑顔を返した。五百回以上聞いた話だが、佐藤の嬉しそうな顔を見るたびに、この街を壊しているのは自分なのではないかという錯覚に陥る。



 商店街を抜け、住宅街に入ると、景色が変わる。整然と並んだ二階建ての一戸建て。どの家も同じような造りで、同じような生垣に囲まれている。


 角を曲がると、制服姿の高校生の集団とすれ違った。男子三人、女子二人。笑い声が通りに響く。その中の一人の女子生徒が久住に気づき、軽く頭を下げた。


「あ、天気予報の人だ。おはようございます」


「おはようございます」


 高校生たちはそのまま通り過ぎていった。後ろから「今日テストあるのに全然勉強してない」「やべーじゃん」「どうせ赤点だし」という会話が聞こえる。テストの心配をしている。明日のことを考えている。彼らにとっては、明日が来るのは当たり前のことだ。


 久住は立ち止まり、彼らの後ろ姿を見送った。遠ざかっていく笑い声。若さと無邪気さに満ちた、ごく普通の朝の風景。


 この子たちは、いくつの夢を持っているのだろう。大学に行きたい、恋人を作りたい、就職したい、旅行に行きたい。その一つも叶わない。永遠に高校生のまま、永遠に同じテストの心配をし続ける。


 久住は歩き出した。考えても仕方ない。今は、水族館だ。



 住宅街を抜け、海に近づくにつれて道は細くなり、両側に雑草が生い茂るようになった。アスファルトがひび割れ、そこから雑草が顔を出している。潮の香りが風に混じり始めた。


 道の途中で、一人の老婆とすれ違った。杖をついた小柄な老婆で、買い物袋を提げている。久住は軽く頭を下げた。


「あら、お兄さん。こんなところで珍しいわね。散歩?」


「ええ、まあ」


「海の方は危ないわよ。崖がねえ、崩れやすいから」


「ありがとうございます。気をつけます」


 老婆はにこりと笑い、ゆっくりとした足取りで住宅街の方へ戻っていった。名前は知らないが、この人もまた、毎日同じ買い物袋を提げてこの道を歩いているのだろう。


 海岸沿いの崖の上に出ると、視界が一気に開けた。青い海が眼下に広がり、白波が岩場に砕けている。風が強い。久住の髪を巻き上げ、シャツの裾をはためかせた。


 進行方向の左手に、灰色の建物が見えた。


 水族館だ。



 元「シーパラダイス」と名付けられていたその施設は、今ではその名前の痕跡さえ読み取れないほど朽ちていた。入口のアーチに掲げられていた看板は錆びて落下し、地面に半ば埋もれている。外壁を覆うつたは枯れて茶色に変色し、風が吹くたびにカサカサと乾いた音を立てた。


 正面のシャッターは錆びて動かない。久住は建物の側面を回り込み、従業員用の裏口を見つけた。アルミの引き戸は腐食が進んでおり、体重をかけて押すと、軋みながらわずかに開いた。身体を横にして滑り込む。


 館内は薄暗く、湿った空気が肌にまとわりついた。天井から垂れ下がった配管が錆びて赤茶色に変色し、床にはところどころ水たまりができている。久住は懐中電灯を点け、順路に沿って進んだ。


 最初のエリアは「熱帯魚コーナー」だったらしい。壁に埋め込まれた小さな水槽がずらりと並んでいるが、中はすべて空だ。割れたガラスの破片が水槽の底に散乱し、枯れた水草が団子状に固まっている。かつてここにいた色鮮やかな魚たちは、今はどこにもいない。


 久住は足元に注意しながら奥へ進んだ。「クラゲの回廊」と書かれた看板の下をくぐると、円筒形の水槽が天井から床まで貫くように設置された通路に出た。水槽の中身はやはり空で、乾ききったアクリルが白く曇っている。だが、ここにクラゲが泳いでいた頃は、さぞ幻想的な光景だっただろう。青いライトに照らされ、透明な傘がゆらゆらと揺れる――久住の脳裏に、幼い頃の記憶が微かに蘇った。



 回廊を抜けると、広い空間に出た。天井が高く、壁の一面が巨大な水槽になっている。いわゆる大水槽だ。高さ六メートル、幅十五メートルほどの巨大なアクリルパネルが、空っぽの空間を仕切っている。水槽の底には人工の珊瑚礁と岩場の模型が残されており、乾燥してひび割れた表面が時の経過を物語っていた。


 久住は懐中電灯の光を大水槽の内部に向けた。


 そのとき、足元に何かがあるのに気づいた。


 椅子だ。折り畳み式のパイプ椅子が、大水槽の正面に一脚だけ置かれている。


 周囲の床は埃に覆われているが、椅子の周辺だけは埃が薄い。誰かが定期的にここに来ている痕跡だ。座面には布が敷かれ、背もたれの角度が少しだけ調整されている。まるで、ここに長時間座ることを前提としたように。


 久住は椅子の周囲を調べた。パイプ椅子の右側の床に、小さな丸い跡が規則的に並んでいる。コーヒーカップの跡だろうか。左側には、薄く削れた痕がある。万年筆のキャップを床に置いた跡のようにも見える。


 ここに座り、大水槽を眺めながら、何かを書いている人間がいる。


 久住の心臓が速くなった。



 大水槽のアクリルパネルの下部に、メンテナンス用のハッチがあった。錆びたボルトを手で回し、ハッチを開ける。水槽の内部に降りる梯子はしごが見えた。


 久住は梯子を下り、水槽の底を歩いた。乾いた人工珊瑚を踏むとパキパキと音がする。懐中電灯の光が壁を舐めるように移動する中、久住は水槽の最も奥まった場所で、一冊のノートを見つけた。


 黒い革張りの、上等なノートだ。周囲の廃墟とは不釣り合いな、高価な品物。表紙には何も書かれていないが、開くと、万年筆の細い文字がびっしりと並んでいた。





       第四章 違和感




 久住はノートを持ったまま、水槽の底に腰を下ろした。懐中電灯を膝に立てかけ、最初のページを開いた。


 そこには、数字が書かれていた。通し番号だ。


「1」


 最初のエントリーはシンプルだった。


「1――晴れ。静かな夜。21:00、すべての住民の帰宅を確認。22:30、街灯が予定通り点灯。23:59、リセット実行。成功。全住民の生体反応、翌朝06:00に正常値で再開」


 久住の指先が震えた。


 「リセット実行」。「成功」。これは「した側」の記録だ。嵐を――大虐殺を――実行している者の、業務日誌のようなものだ。


 ページをめくった。


「2――晴れ。猫が三匹、22:40に東3丁目を横断。想定通りの行動パターン。南側の河川敷にカラスの群れ。やや不規則だが許容範囲内。23:59、リセット実行。成功」


「3――晴れ。予報士(久住陽一)の目の動きに変化。放送中、カメラから視線を逸らす頻度が前回比12%増加。ストレス反応か。要観察。23:59、リセット実行。成功」


 久住は三番のエントリーを読み返した。自分のことが書かれている。しかも、放送中の視線の動きまで記録されている。この「観測者」は久住を観察している。最初から。


 ページをさらにめくった。番号は加速度的に増えていく。


「15――予報士のコーヒーの飲み方が変化。マグカップを両手で包むように持つ。以前は片手だった。無意識の不安の表出か」


「28――予報士、放送後に屋上で八分間空を見上げていた。通常は五分。何かに気づき始めているのか」


「37――予報士が放送中に逸脱行動。緊急放送を試みた。住民への影響は最小限に留まった。保健センター経由で無力化。リセット後の記憶保持を確認。実験は継続」


 「実験は継続」。


 久住は唇を噛んだ。このノートの書き手は、久住のことを実験の被験者として扱っている。嵐の記憶を消さずに残しているのは意図的なものだった。それは久住がずっと疑っていたことだが、こうして文字で突きつけられると、別種の怒りが込み上げてくる。


「85――予報士が銀行金庫室でのサバイバルを試みた。密閉空間での気圧制御は問題なく機能。予報士はこの時点で、嵐が自然現象でないことに気づいた模様。知的な被験体だ」


「121――予報士がトンネルからの脱出を試みた。空間折畳機構が正常に作動。街の外部への流出はゼロ」


 「空間折畳機構」。やはりそうだ。この街の境界は、何らかの意志によって閉じられている。この書き手がそれを管理している。


 久住はノートの後半に飛んだ。番号は三百、四百と増えていく。



「312――予報士の行動パターンが安定期に入った。もはや逃走や抵抗の試みはなく、日常的な役割を淡々とこなしている。適応完了か。だが、表情に微かな変化。諦めではない何かが残っている」


「398――予報士が機材室にノートをつけ始めた。気圧データの記録。しかもかなり正確だ。彼は分析を続けている。諦めたふりをして、静かに牙を研いでいたのか」


「412――等圧線の偏差に予報士が気づいた可能性あり。地図を開き、東側の空白地帯を長時間見つめていた。次のループで彼がここに来る確率は高い」


 久住は息を呑んだ。この書き手は、久住がここに来ることを予測していた。しかも止めなかった。むしろ、待っていたかのような書き方だ。


「450――予報士の分析精度が向上している。等圧線の空白地帯の範囲をほぼ正確に特定。あと数十回のループで、この場所にたどり着くだろう」


「489――待っている。彼が来るのを。私には分かる。彼は来る。五百回の死を経てなお折れない人間は、必ずここに辿り着く。それが彼の天気予報士としての本能だから」


 ノートの文体が変わり始めていた。初期の冷徹な業務日誌から、次第に感情が滲む文章へと。書き手の中で何かが変化している。


「503――翔太が明日で九歳になる。いつもの明日だ。私がリセットという名の死を与え続ける限り、彼は永遠に八歳のままだ。佐藤の笑顔がつらい。だが、やめるわけにはいかない」


 久住の手が止まった。翔太。佐藤さんの息子だ。この書き手は、街の住民の名前まで知っている。個々人の生活を把握している。のぞき見のような観察ではない。もっと深い、ほとんど保護者のような距離感だ。


「510――小林美咲のバラがまた『色味がいまいち』だそうだ。彼女はいつもああ言う。だが私には、あのバラは十分美しく見える。彼女自身が最も美しいことに気づいていないように」


 ノートのインクが滲んでいる箇所があった。水滴が落ちた跡だ。涙かもしれない。


 最後のページに至った。


「513――予報士がここに来る日は近い。このノートを読んでいるなら、久住陽一、お前に伝えたいことがある。今夜、二十三時半にもう一度来い。私はここにいる」


 久住はノートを閉じた。


 手が震えている。怒りなのか、恐怖なのか、あるいは五百回分の孤独がようやく終わるかもしれないという、かすかな期待なのか。自分でも分からなかった。





       第五章 観測者




 久住はその日、いつも通りの午後を過ごした。夕方の放送をこなし、永田のねぎらいの言葉を受け流し、宮下に「お疲れさまでした」と声をかけた。商店街で佐藤と二言三言交わし、小林さんの花屋の前を通り過ぎた。すべてをいつも通りにしなければならない。何かが変わったことを、街に悟られてはいけない。


 二十時。アパートに戻り、着替えた。懐中電灯の電池を確認し、ポケットにノートとペンを入れた。自分のノートではなく、小さなメモ帳だ。何があっても記録を取る。それが久住にできる唯一の武器だった。


 二十一時。街は静まり始めている。住宅街の窓に明かりが灯り、テレビの音が漏れ聞こえる。犬の散歩をする中年男性とすれ違い、軽く会釈を交わした。普通の夜だ。この街にとっては、最後の夜が毎晩訪れるなど想像もできないほど、穏やかな夜だ。


 二十二時。海岸沿いの道を歩く。月が明るい。波の音が規則的に響く。潮風が頬を撫でる。久住は歩調を緩めず、水族館を目指した。



 二十二時三十分。水族館の裏口から再び中に入った。昼間と同じルートを辿り、大水槽の前に出た。


 懐中電灯の光が、パイプ椅子を照らした。


 椅子には、人が座っていた。


 白髪の老人だった。背筋をまっすぐに伸ばし、膝の上にあのノートを開いている。右手に万年筆。左手は膝の上。穏やかな顔をしている。どこかで見た顔だ。だが、暗がりの中では特定できない。


 久住は十歩ほどの距離で立ち止まった。


「……あんたが、書いたのか。このノートを」


 老人はゆっくりと顔を上げた。懐中電灯の光が彼の顔を照らし、久住は息を呑んだ。


 佐々木だ。朝、局のロビーで毎日声をかけてくる警備員の佐々木。ランドセルの話をする、穏やかな老人。


 だが、今の佐々木の表情は、局で見せるそれとはまるで違っていた。目の奥に、深い知性と疲労が同時に宿っている。柔和な笑みの代わりに、静かな覚悟のような硬い表情がある。


「よく来たな、久住君。五百十四回目にして、ようやくだ」


 佐々木の声は低く、落ち着いていた。局で聞く軽やかな口調ではない。重みのある、腹の底から出る声だ。


「佐々木……さん? あんたが……」


「私のことは何と呼んでもいい。佐々木でも、観測者でも。名前など、もう意味を持たない」


 久住は一歩、近づいた。


「なぜだ。なぜこんなことをしている。毎晩六千人を殺して、なぜ平気な顔で朝のロビーに立っていられる」


 佐々木は万年筆の蓋を閉め、ノートを膝の上に置いた。大水槽の空っぽのアクリルパネルに、懐中電灯の光が反射して揺れている。


「久住君。君はこの街の外に出ようとしたことがあるね」


「ああ。何度も。不可能だった」


「そうだ。空間が閉じている。この街は、ある種の……閉鎖系だ。外との接触が遮断されている」


「それをやっているのがあんたか」


「正確には違う。私がこの閉鎖系を作ったのではない。私はそれを維持しているだけだ。このシステムは、私一人の力ではどうにもならないほど大きなものだ」



 佐々木は立ち上がった。パイプ椅子が軋む音が、静かな館内に響いた。彼は大水槽のアクリルパネルに歩み寄り、乾ききった水槽の中を覗き込んだ。


「この水族館は、私が四十年前に設計したものだ」


「設計? 佐々木さんが?」


「ああ。もともと私は建築家だった。この街に文化施設が足りないと市議会で訴え、予算を引っ張り、二年がかりでこの水族館を建てた」


 佐々木の目が、遠い過去を見つめていた。


「開館した日のことは今でも覚えている。子どもたちがイルカのプールの前で歓声を上げた。小林さんの花屋がオープニングの花束を届けてくれた。佐藤くんの親父さんが祝いだと言って鯛を一匹持ってきた。街全体が、何かが始まるという期待に包まれていた」


「……」


「だが街は変わった。水族館は十五年前に客が来なくなって廃業した。商店街は大型スーパーに客を取られた。若者は出て行き、残ったのは私のような老人と、出ていく金もない家族だけだ。この街は緩やかに死んでいた」


 佐々木は久住に向き直った。


「そして三年前、本当の終わりが来た」


「本当の終わり?」


「久住君、君はこの街の外の世界を知っているか」


 久住は首を横に振った。ループが始まる前の記憶は曖昧だ。街の外に何があったのか、具体的に思い出せない。通勤で市外に出ることはなかったし、旅行の記憶もぼんやりとしている。


「この街の外は、もう存在しない」


 佐々木の言葉は、淡々としていた。


「三年前、カスケード型の気候崩壊が起きた。北極の永久凍土が融解し、メタンが大気中に放出され、温暖化が加速した。海面が二メートル上昇し、沿岸部の都市が水没した。農地が塩害で壊滅し、食料危機が世界中に広がった。そして戦争が始まった」


 佐々木は窓のない館内の壁を見つめた。まるでその向こうに、焼け野原の世界が見えているかのように。


「核は使われなかった。だが通常兵器による破壊だけでも十分だった。インフラは壊滅し、物流は止まり、都市機能が失われた。日本も例外ではない。東京は瓦礫の山になり、大阪は海に沈んだ。この街だけが……地理的な条件と、いくつかの幸運が重なって、かろうじて無傷で残った」


「……信じがたいな」


「信じなくてもいい。だが事実だ。私はこの街を守るために、あるものを使った」


「あるもの?」


「時間を折り畳む技術だ。正確には、特定の空間内の時間を巡回させる技術。私が若い頃、大学で理論物理を学んでいた時期に、ある論文の存在を知った。実用化は不可能とされていたが、私は四十年かけてそれを実現した。建築家としての知識と、物理学の知識を融合させて」


 久住には、佐々木が言っていることの半分も理解できなかった。だが、結論だけは明確に理解した。


「つまり、あんたがこの街をループさせている」


「そうだ。一日分の時間を切り取り、それを繰り返すことで、この街を外の世界から隔離している。嵐はその副産物だ。一日分の時間を巻き戻すとき、蓄積されたエントロピーが一気に解放される。それが暴風と気圧低下として現れる」


「副産物だと?」


 久住の声に、初めて怒気が混じった。


「六千人が毎晩死ぬのが、副産物か」


「正確には死んでいない。一分間、肉体が機能停止するだけだ。翌朝には完全に再構成される。記憶もリセットされる。彼らは苦痛を覚えていない」


「俺は覚えている」


 佐々木は一瞬、目を伏せた。


「……ああ。君だけは覚えている。それは、私が意図的に設定した」


「なぜだ」


「観測者には、被観測者が必要だからだ。閉鎖系の中で、システムが正常に機能しているかどうかを確認するためには、ループの記憶を保持する存在が一人だけ必要だった。君は……その役割を担っている」


「勝手に!」


 久住は叫んだ。声が空っぽの水族館に反響した。


「勝手に俺を実験動物にしたのか! 五百回以上、死ぬ思いをさせておいて、それがシステムの都合だと?」


 佐々木は黙っていた。反論しなかった。ただ、久住の怒りを正面から受け止めるように、じっと立っていた。


 しばらくの沈黙の後、佐々木が口を開いた。


「すまない、と言って済む話ではないことは分かっている。だが久住君、選択肢は他になかった。ループを止めれば、この街は外の世界と同期する。外の世界はもう、人が住める場所ではない。六千人全員が、本当の意味で死ぬ」


「本当の意味で死ぬ方が、この偽物の生より百倍マシだと思わないのか」


「……思わない。私は、この街の人間を愛しているから」


 佐々木の声が、微かに震えた。


「佐藤くんの息子が九歳の誕生日を迎えること。小林さんのバラが毎朝水をもらうこと。宮下くんが東京の夢を語ること。それが全部嘘だと分かっていても、私にはそれを壊すことができない」


「それは愛じゃない。支配だ」


 久住は佐々木に詰め寄った。


「あんたは、この街の全員を標本にしている。ホルマリン漬けの標本だ。見た目は生きているように見えるが、中身はとっくに死んでいる。生きるということは、変化することだ。老いること、失うこと、傷つくこと。それができないなら、それは命とは呼べない」


 佐々木は久住の目を見つめた。


 長い沈黙があった。


 大水槽の向こうで、何かが軋む音がした。建物が風で揺れているのかもしれない。


「……分かっている」


 佐々木は、ようやくそう言った。


「分かっているんだ、久住君。全部、分かっている。だが、やめる方法が分からない」


「やめればいいだけだ。リセットを止めろ」


「そう単純ではない。リセットはもう、私の意思だけでは止められないところまで来ている。最初の一回目は私が起動した。だが二回目以降、システムは自律的に動いている。私にできるのは、この椅子に座って観測し、記録することだけだ」


「だったら壊せ。システムを壊せ」


「壊し方が分からない」


 佐々木の声には、疲労が滲んでいた。五百十四回。朝のロビーで穏やかに笑い、夜のこの場所で孤独に記録を続けてきた男の、途方もない疲労だ。


「……だから、君を待っていた」


 佐々木は久住を見つめた。


「私には壊せない。だが、君なら壊せるかもしれない。五百十四回の死を乗り越えてここにたどり着いた君なら」


「どうやって」


「分からない。だが一つだけ、仮説がある」


 佐々木はノートの最後のページを開いた。そこには、手描きの図が描かれていた。等圧線の図だ。久住がこれまで何百回も描いてきたものと同じ形式だが、佐々木の図にはもう一つ、追加の情報があった。


「嵐の目……いや、リセットの中心点は、この水族館ではない。この水族館は空白地帯の端に位置しているだけだ。中心はもう少し南にある」


 佐々木が指差したのは、海岸線から百メートルほど沖合の地点だった。


「海の下に、この時間巡回装置の本体がある。海底ケーブルの接続点を利用して設置した。装置を直接破壊すれば、ループは止まる」


「海の下……」


「普段は近づけない。装置の周囲には防護場があって、人間が泳いで到達することはできない。だが、嵐の最中は違う。リセットの実行中、装置のエネルギーはすべてリセットに使われる。防護場が一時的に弱まる。その六十秒間だけ、装置に触れることができる」


「六十秒。嵐の最中に海に潜れと」


「ああ」


「正気か」


 佐々木は微かに笑った。


「五百十四回死に続けてきた男に、正気かと聞くのか」


 久住は黙った。佐々木の言う通りだ。正気など、とうの昔に捨てている。


「だが、一人では無理だ」


 佐々木が続けた。


「嵐の最中に海に入れば、普通なら即死する。気圧の急降下で肺が持たない。だが、人数が多ければ……組織的に動けば、可能性はゼロではない」


「人数?」


「住民を巻き込む。嵐の真実を伝え、彼らを動かす。大勢の人間がこの水族館に集まり、組織的に海へ向かえば、装置に到達できる者が出るかもしれない」


 久住は佐々木を見つめた。


「住民に真実を話す。すると、前みたいに精神科に送られる」


「三十七回目の失敗は、君が一人で叫んだからだ。今回は違う。天気予報という公式の放送枠を使い、冷静に伝える。しかも今回は、証拠がある」


 佐々木はノートを差し出した。


「このノートが証拠だ。リセットのメカニズム、五百十四回分の記録、装置の位置。すべてが書かれている。これを放送で見せろ」


 久住はノートを受け取った。ずっしりと重い。五百十四回分の死と観測の重さだ。


 時計を見た。二十三時十五分。嵐まで四十四分。


「今夜は間に合わない」


「ああ。今夜はリセットされる。だが、明日……いや、次のループの朝、すぐにこのノートを取りに来い。夕方の放送で、真実を伝えろ」


「ノートはリセットされないのか」


「この水族館は空白地帯の中にある。リセットの影響を受けない。ノートもここに置いておけば消えない。唯一の、ループに抵抗できる場所だ」


 久住はノートを大水槽の底に戻した。


「分かった。次のループで、予報を変える」


 佐々木は頷いた。


 二十三時五十分。あと九分。


「久住君」


「何だ」


「……ありがとう。来てくれて」


 久住は答えなかった。


 二十三時五十九分。嵐が来た。水族館の中にいても、轟音と振動は伝わってくる。だが空白地帯の効果か、ここでは気圧の低下が緩やかだった。肺が軋む感覚はあるが、破裂するほどではない。


 それでも、意識は薄れていった。リセットが始まっている。


 最後に見えたのは、パイプ椅子の横に立つ佐々木の姿だった。彼は目を閉じている。ノートを胸に抱いている。まるで、何かを祈っているようだった。



       第六章 真実の予報




 目が覚める。


 六時の時報。


 ピ、ピ、ピ、ポーン。


 久住は布団を跳ね除けた。天井のシミなど見ない。腰の痛みなど気にしない。


 五百十五回目。


 最後の一回だ。



 洗面所に向かう。顔を洗う。鏡を見る。


 そこに映っている男の顔は、昨日の――いや、前のループの死に損ないの顔とはまるで違っていた。


 目の下の隈は消えていない。頬もこけたままだ。だが、目だけが違う。


 燃えている。


 静かに、青白く、意志の光を宿して燃えている。



 歯を磨く。着替える。コーヒーを飲む。


 すべてを最短時間で済ませた。味など分からない。温度など感じない。


 頭の中にあるのは一つだけ。


 今日の夕方、十七時。


 勝利の時刻だ。



 家を出る。


 隣室のハナが吠える。


「おはよう、ハナ」


 久住は初めて、犬に声をかけた。


 ハナが一瞬、驚いたように吠えるのをやめた。尻尾を小さく振った。


 村田さんがドアを開けて顔を出した。


「あら、久住さん。おはようございます」


「おはようございます、村田さん。いい天気ですね」


「ええ、本当に。毎日いい天気で、ありがたいわねえ」


「今日は、特別な一日になりますよ」


「あら、何かいいことでも?」


「ええ。とてもいいことがあります」


 久住は村田さんに微笑みかけ、階段を駆け下りた。


 村田さんは不思議そうに首を傾げていたが、すぐに「ハナちゃん、お散歩よ」と優しく犬に呼びかけた。


 その日常も、今日で終わる。


 終わらせる。



 通りに出る。新聞配達のバイク。


 久住は手を挙げた。


 バイクの青年が驚いてブレーキをかけた。ヘルメットの奥の目が丸くなっている。


「す、すみません。何か?」


「ご苦労様です。いつも早いですね」


「は、はあ。まあ、仕事なんで」


「気をつけて。この先の交差点、猫が飛び出してきますよ」


「え?」


 青年がバックミラーを見た瞬間、黒猫が路地から飛び出した。青年は慌ててハンドルを切り、間一髪で回避した。


「うわっ、マジか……ありがとうございます!」


「どういたしまして」


 久住は歩き出した。


 予知能力ではない。記憶だ。


 この街の全ての出来事は、久住の頭の中にある。


 猫の動線。


 信号のタイミング。


 風の向き。


 雲の流れ。


 すべてを知っている。


 今の自分は、この街の神に近い。


 だが、神になるつもりはない。


 ただの天気予報士に戻るために、神の力を使うのだ。



 ケーブルテレビ局に到着する。


 自動ドアが開く。


 ロビーの空気。


 コーヒーと埃の匂い。


「おはよう、久住さん。今日も精が出ますな」


 佐々木の声。


 久住は立ち止まり、カウンターの奥の老人を見つめた。


 端正な制服姿。


 丁寧に撫でつけられた白髪。


 穏やかな笑顔。


 昨夜の水族館で見せた、あの苦悩に満ちた表情の欠片もない。


 彼はリセットされている。


 昨夜の会話を覚えていない。久住にノートを託したことも、作戦を授けたことも、覚えていない。


 彼はただの、孫を愛する警備員の佐々木さんだ。


 だが、久住は知っている。


 彼の内側に、あの「観測者」が眠っていることを。


「おはようございます、佐々木さん」


 久住は深く頭を下げた。


「お孫さんのランドセル、赤色が見つかるといいですね」


 佐々木が目を丸くした。


「おや、話したことがありましたかな?」


「ええ、以前に少し。女の子はこだわりが強いですからね」


「ははは、そうなんだよ。全く、誰に似たんだか」


 佐々木は嬉しそうに笑った。


 久住も釣られて笑った。


 胸の奥が熱くなる。


 助けなければならない。


 この老人を。


 五百十四回の孤独から。


 そして、自ら作り出した鳥籠の呪縛から。



 エレベーターに乗る。


 二階。スタジオ。


 宮下が三脚を調整している。


 永田がタブレットを見ている。


 いつもの風景。


「うっす、久住さん」


「おはよう、久住さん。まあいつも通りだけどね」


 同じセリフ。


 同じトーン。


 だが、久住の受け止め方は違っていた。


 愛おしい。


 この退屈で、変化のない、呪われた日常が、無性に愛おしい。


 これが最後だからだ。


 今日でこの風景は消滅する。


 明日には、ここは瓦礫の山かもしれない。


 宮下は東京に行けないかもしれない。


 永田は職を失うかもしれない。


 それでも。


 進まなければならない。



 朝の放送。


 久住は完璧にプロに徹した。


 一ミリの揺らぎもなく、嘘の原稿を読み上げた。


 晴天を予報し、洗濯日和を告げ、笑顔で締めくくった。


 まだ早い。


 今はまだ、日常を演じる時間だ。


 牙を剥くのは、夕方だ。



 放送終了後。


 久住はすぐに局を出た。


 向かう先は一つ。


 水族館だ。


 ノートを回収しなければならない。


 佐々木の言葉が正しければ、ノートはあそこに残っているはずだ。リセットされずに。



 海岸沿いの道を走った。


 汗がシャツに滲む。


 息が切れる。


 心臓が早鐘を打つ。


 生きている。


 全力で走っている。


 死ぬために逃げているのではない。


 生きるために走っている。


 その事実が、久住の足に力を与えた。



 水族館に到着する。


 裏口の鍵は壊れたままだ。昨夜、久住がこじ開けたからだ。


 ……ということは。


 リセットされていない。


 水族館の内部は、本当にループの影響を受けていない。


 久住は中に入った。闇の中を走る。


 大水槽の前。


 パイプ椅子。


 そして。


 水槽の底に、黒いノートがあった。


 震える手でそれを拾い上げる。


 開く。


 文字がある。


 佐々木の記録。


 そして、最後のページの図面。


 残っている。


 五百十四回分の真実が、ここに実体として存在している。


 久住はノートを抱きしめた。


 冷たくて、硬い、革の感触。


 これが武器だ。


 この街の「明日」を切り開くための、唯一にして最強の武器だ。



 久住はノートを持って局に戻った。


 誰にも見られないように、鞄の底に隠した。


 昼休み。


 商店街の定食屋でサバの味噌煮を食べた。


 味がした。


 しょっぱい。


 味噌のコクと、サバの脂の甘み。


 五百回食べてきて、初めて「美味い」と感じた。


 涙が出そうになった。


 生きるということは、味わうということだ。


 明日もこれを食べたい。


 いや、明日は違うメニューを食べたい。


 ハンバーグでもいい。カレーでもいい。


 選べる自由。


 それが欲しい。



 午後。


 久住は機材室に籠もり、作戦を練った。


 放送時間は五分間。


 十七時五十五分から十八時まで。


 この間に、住民に真実を伝え、信じさせ、水族館へ誘導しなければならない。


 普通の呼びかけでは無理だ。


 「避難訓練」と言うか?


 いや、それだと緊迫感が伝わらない。


 「テロ予告」?


 パニックになって散り散りに逃げられたら終わりだ。水族館に来させなければ意味がない。


 真実を話すしかない。


 だが、どうやって?


 「ループしています」「あなたがたは毎日死んでいます」と言って、誰が信じる?


 証拠を見せる。


 ノートだ。


 だが、ノートの文字を画面越しに見せても、捏造だと思われるかもしれない。


 もっと、圧倒的な、否定しようのない証拠が必要だ。


 久住はノートをめくった。


 佐々木の記録を読み返す。


 個人の行動記録。


 ……これだ。


 久住はペンを取り、メモ帳に書き出した。


 住民たちの秘密。


 誰も知らないはずの、家庭内の会話。


 昨日――いや、今日の夜に起きるはずの出来事。


 それを予言する。


 「予報」するのだ。


 天気ではなく、運命を。



 十七時四十五分。


 スタジオに入る。


 久住は鞄を持ち込んだ。


 永田が怪訝な顔をした。


「久住さん、鞄なんて珍しいね」


「ええ、ちょっと資料がありまして」


「資料? 天気図はもう入ってるよ」


「いえ、個人的な……演出のための小道具です」


「演出? まあいいけど。変なことはしないでね」


「善処します」


 変なことしかしないつもりだった。


 宮下がカメラの前に立つ。


「本番一分前です」


 久住は深呼吸をした。


 心臓がうるさい。


 手のひらに汗が滲む。


 大丈夫だ。


 俺は五百回以上、このカメラの前に立ってきた。


 誰よりもこの街を知っている。


 誰よりもこの街の空気を読んでいる。


 俺は天気予報士だ。


 これから、史上最大の嵐を予報する。



「五秒前。四、三、二、一」


 キューランプが点灯した。


「こんばんは。天気予報の時間です」


 久住は微笑まなかった。


 真剣な、厳しい表情でカメラを睨み据えた。


 モニター越しに見ている六千人の住民の、目を覗き込むように。


「本日の予報は、訂正されました」


 スタジオの空気が凍った。


 永田が顔を上げた。宮下がファインダーから目を離した。


「先ほどの予報では晴天とお伝えしましたが、誤りです。今夜、この街に未曾有みぞうの嵐が来ます」


 永田が立ち上がった。


「おい、何を言って……」


 久住は声を張り上げた。


「これは演習ではありません! 全住民の皆さん、聞いてください!」


 久住は鞄からノートを取り出し、机の上に叩きつけた。


 ドン、という重い音がマイクに乗る。


「この街は、今日を五百回以上繰り返しています。皆さんは気づいていませんが、昨日の記憶を消されているだけです」


 副調整室のガラスの向こうで、スタッフたちが騒ぎ始めた。永田が怒鳴っている。「切れ! 映像を切れ!」


 だが宮下は動かなかった。カメラを久住に向け続けている。


 久住は宮下を見た。


「宮下君。君は昨夜、彼女にプロポーズの手紙を書いただろう。内容は『東京に行っても待っていてほしい』。便箋の色は薄いブルーだ」


 宮下の顔色が蒼白になった。


「な……なんで……」


 久住はカメラに向き直った。


「佐藤鮮魚店の佐藤さん。翔太くんへのプレゼントはサッカーボールですね。でも、翔太くんが本当に欲しがっているのは、実は天体望遠鏡です。彼は毎日のように、図書館で星図鑑を借りています」


 画面の向こうで、佐藤が息を呑んでいる姿が見えるようだった。


「小林美咲さん。昨夜、売れ残ったバラをご自宅のお風呂に浮かべて、『バラ風呂最高』と独り言を言いましたね」


 プライバシーの侵害だ。


 だが、これくらいのインパクトがなければ、誰も足を止めない。


「私は全て知っています。なぜなら、五百回見ているからです!」


 モニターの永田が、警備員を呼ぶための電話に手を伸ばしている。


 時間がない。


「今夜二十三時五十九分、嵐が来て街は壊滅します。逃げる場所は一箇所しかありません!」


 久住はフリップを取り出した。手書きの地図だ。


 水族館を赤マジックで囲んである。


「旧水族館『シーパラダイス』。ここだけが安全地帯です。嵐の目です。ここに来てください。今すぐに!」


 ロビーのドアが開く音がした。警備員が駆けつけてくる。


 佐々木だ。


「久住君! 何をしている!」


 佐々木がスタジオに飛び込んできた。


 久住は叫んだ。


「佐々木さん! あんたのノートだ!」


 久住はノートを掲げた。


 佐々木の足が止まった。


 その目が見開かれる。


 黒い表紙。革の光沢。


 見覚えがあるはずだ。リセットされていても、深層意識のどこかで。


「これを……取りに来い! あんたが書いたんだ! 五百十四回の後悔を、終わらせるために!」


 佐々木が膝をついた。頭を抱え、嗚咽おえつを漏らし始めた。


 記憶がフラッシュバックしているのだ。


 リセットの壁を越えて、過去の自分の叫びが届いているのだ。


 久住はカメラに最後の訴えをした。


「信じてください。私は皆さんを助けたい。嘘の予報はもうたくさんだ! これが、私の最初で最後の、本気の予報です!」


 スタジオの電源が落ちた。


 照明が消え、カメラのランプが消滅した。


 だが、放送は届いたはずだ。



 暗闇の中で、久住は荒い息をついた。


 やった。


 言った。


 もう後戻りはできない。


 永田が怒鳴りながら掴みかかってきた。


「貴様! 放送事故じゃ済まされんぞ!」


 久住は永田の手を振り払った。


「永田さん、あんたも来い。水族館へ。死にたくなければな」


 久住はスタジオを出た。


 廊下で、うずくまる佐々木の肩を抱いた。


「立てますか、佐々木さん」


 佐々木が顔を上げた。


 その目には、涙が溢れていた。


「……思い、出した……」


 震える声。


「全部……思い出した……私は、なんてことを……」


「後悔している時間はありません。行きましょう。終わらせるために」


 久住は老人を立たせた。


 宮下が呆然と立っていた。


「久住さん……今の、全部本当なんすか?」


「ああ。本当だ」


「俺の手紙のこと……誰にも言ってないのに」


「宮下、車を出せ。機材車だ。客を乗せるぞ」


「客?」


「この街の全員だ」



 局を出ると、街がざわめいていた。


 窓を開けて空を見上げる人々。


 電話をかける人々。


 通りに出て、不安そうに話し合う人々。


 久住は機材車の屋根に上り、拡声器かくせいきを構えた。


「水族館へ!」


 声を張り上げる。


「水族館へ向かってください! 車を持っている人は相乗りで! お年寄りや子供を優先してください!」


 人々が久住を見た。


 その目に、迷いがあった。


 狂人の戯言ざれごとだと思う気持ちと、あの放送の気迫に押される気持ちが拮抗している。


 そのとき。


「おい! 久住!」


 商店街の向こうから、大きな声が響いた。


 佐藤だ。


 軽トラックの荷台に、翔太くんと奥さんを乗せている。


「お前の言うこと、信じるぞ! 天体望遠鏡のこと、なんで知ってんのか分からねえが、お前がそこまで言うなら、なんかあんだろ!」


 佐藤がハンドルを叩いた。


「みんな! 久住についていくぞ! 俺の勘だが、こいつはマジだ!」


 佐藤の声が、突破口になった。


 商店街の人々が動き出した。


「美咲ちゃん、軽トラ乗れ!」


「はい!」


 小林さんが花屋のエプロンのまま飛び乗った。


「村田さんも!」


 ハナを抱いた村田さんが、近所の若者の車に乗せられる。


 動きが波及する。


 疑念が集団心理に変わり、パニックが秩序ある避難行動へと昇華されていく。


 車の列ができた。


 東へ。


 水族館へ。


 久住は機材車の助手席に飛び乗った。ハンドルを握るのは宮下、後部座席には佐々木。


「行こう。嵐の目へ」


 車が走り出した。


 太陽が西に傾きかけていた。


 長い、長い夜が始まる。





       第七章 嵐の中へ




 水族館への一本道は、かつてない渋滞に見舞われていた。


 ヘッドライトの列が数キロにわたって続き、クラクションの音が海風に乗って響いている。


 空には、不気味な雲が広がり始めていた。


 まだ嵐の時間ではない。だが、世界がその終焉を予感しているかのように、大気が重く淀んでいる。


 機材車の中で、佐々木がノートを広げていた。


「参加者は……今のところ推定で二千人といったところか」


「三分の一ですね」


 久住は窓の外を見た。


「でも、十分です。これだけの人数がいれば、なんとかなる」


 根拠はない。だが、信じるしかない。



 水族館に到着した。


 廃墟の駐車場はすでに満車で、溢れた車が路肩に縦列駐車している。


 人々は建物の中へ、そして海に面したテラスへと集まっていた。


 不安そうな顔。


 泣き出す子供。


 怒鳴り合う男たち。


 極限状態の群衆。


 久住はテラスの高い場所に立った。拡声器を構える。


「皆さん、聞いてください!」


 数千の視線が集まった。


「あと数時間で嵐が来ます。ここにいれば安全ですが、それでは明日が来ません。また同じ今日を繰り返すだけです。ループを止めるには、嵐の発生源を断つ必要があります」


 人々がざわめいた。


「発生源?」


「どこにあるんだ?」


 久住は海を指差した。


「この海の下です。沖合百メートル。海底に装置があります。それを壊さなければなりません」


「海だって?」


「嵐の中で泳げってのか!」


「死ぬぞ!」


 罵声が飛んだ。当然だ。誰もが死にたくないから逃げてきたのだ。


 久住は言葉に詰まった。


 なんと説得すればいい?


 「死ぬ気でやれ」と?


 「明日が欲しくないのか」と?


 そんな美辞麗句びじれいくで、人は動かない。命がかかっているのだ。


 そのとき。


 誰かが久住の横に立った。


 佐々木だった。


 彼は拡声器を受け取らなかった。


 生の声で、しかし朗々と通る声で、語り始めた。


「私は、この水族館を設計した者です」


 喧騒が静まった。


「そして、この街をループさせている装置を管理していた者です」


 静寂が、驚愕に変わった。


「私が犯人です。私が皆さんを閉じ込めました。外の世界の崩壊から守るためとはいえ、皆さんの時間を奪い、未来を奪いました」


 石が飛んでくるかもしれない。


 久住は身構えた。


 だが、誰も動かなかった。佐々木の告白があまりにも重く、悲痛だったからだ。


「装置を止めるには、私の生体認証が必要です。だから、私が海に潜ります」


 久住はそれが本当かどうか、判断がつかなかった。だが、佐々木の目には、自分が犠牲になることへの覚悟が浮かんでいた。


「私一人では辿り着けません。老体です。波にのまれて終わりでしょう。誰か、私を装置まで運んでくれませんか。この罪人を、処刑台まで連れて行ってくれませんか」


 佐々木は頭を下げた。深く、深く。


 沈黙が続いた。


 波の音だけが響く。


「……じいさん、かっこつけんなよ」


 一人の男が進み出た。


 佐藤だった。


 腕まくりをしている。その太い腕には、無数の古傷がある。


「あんたが犯人なら、ぶん殴りたいところだが……まあ、それは後だ。翔太の誕生日をいつまでも九歳にしとくわけにはいかねえからな」


 佐藤はニッと笑った。


「俺は泳ぎには自信があるぜ。元水泳部だ」


 佐藤に続いて、宮下が手を挙げた。


「俺も行きます。カメラ機材よりは、じいさん一人のほうが軽いっすよ」


 若い男たちが次々と手を挙げた。


「俺もやるよ!」


「どうせ死ぬなら、一か八かだ!」


「やってやろうじゃねえか!」


 久住は胸が震えた。


 これが、人間の力だ。


 誰かにプログラムされた行動ではない。


 自分の意志で選び取った、予測不可能なうねり。


 観測者のノートには決して書かれない、未知の変数。


 佐々木が顔を上げた。涙で顔がぐしゃぐしゃだった。


「ありがとう……ありがとう……」



 作戦が決まった。


 選抜された五十人の男たちが、人間鎖チェーンを作って海へ進む。


 先頭は佐藤と宮下。その間に佐々木を挟んで守る。


 久住は最後尾で全体の指揮を執る。


 残りの人々は、ロープを持って陸側から彼らを支える。


 全員が一つの生命体のように連結する。



 時間は刻々と過ぎていく。


 二十三時三十分。


 風が出てきた。


 不穏な風だ。生温かく、湿気を帯びている。


 空の色が変わった。紫色に滲み、星が見えなくなる。


 二十三時五十分。


 海が荒れ始めた。白波が高くなり、岩場に打ち付ける音が轟音に変わる。


 男たちが海に入った。


 腰までの深さ。


 冷たい。


 十一月の海だ。体温が一瞬で奪われる。


「寒いなんて言うな! 気合だ!」


 佐藤が叫ぶ。


「ロープしっかり握れ! 流されるなよ!」


 宮下が呼応する。


 久住は水に浸かりながら、時計を見た。


 あと五分。


 嵐が来る。


 気圧が下がる。


 だが、ここなら耐えられるはずだ。空白地帯の縁だ。気圧低下は緩やかなはずだ。


 問題は、沖合百メートルの「中心点」だ。


 そこは嵐の目でありながら、エネルギーの奔流の中心でもある。


 生きて帰れる保証はない。



 二十三時五十八分。


 振動が始まった。


 海水が震える。足元の砂が液状化し、足を取られる。


「来るぞ! 構えろ!」


 久住が叫んだ。



 二十三時五十九分。



 世界が裂けた。



 空が落ちてきたかのような衝撃波。


 海面が爆発し、巨大な水柱が上がった。


 暴風。


 立っていられない。


 人間鎖が大きく波打った。


「うおおおおお!」


 男たちの叫び声が風にかき消される。


 気圧が落ちる。


 耳が痛い。鼓膜が破れそうだ。肺が軋む。


 だが、耐えられる。


 一人なら死んでいた。だが、五十人が腕を組み、互いに支え合っている。


 恐怖を共有し、勇気を伝達し合っている。


 人間という強固な構造物が、嵐に抗っている。


「進め! 進めえええ!」


 佐藤が波を切り裂いて進む。


 あと五十メートル。


 海の中に、青白い光が見えた。


 装置だ。


 海底から突き出した、黒いオベリスクのような柱。その周囲に幾何学模様の光が明滅している。


 普段は強力な防護場に守られているが、今は光が弱まっている。


 リセットのために全エネルギーを放出している今が、唯一の好機。


「佐々木さん! あれか!」


「そうだ! あれの基部に、手動停止レバーがある!」


 レバー。なんとアナログな。


 だが確実だ。


 あと三十メートル。


 嵐が激しさを増す。


 風速は百メートルを超えているだろう。海面から巻き上げられた飛沫が弾丸のように肌を打つ。


 誰かが流された。


「田中!」


 隣の男が腕を掴んで引き戻す。


 切れない。この鎖は切れない。


 あと十メートル。


 装置の真上に到達した。


 佐藤と宮下が潜った。佐々木を抱えて。


 久住も深く息を吸い、潜った。



 水中は、驚くほど静かだった。


 海上の狂乱が嘘のように、青白い光が揺らめいている。


 装置の柱は巨大だった。直径五メートルはある。


 その根元に、赤いレバーが見えた。


 佐々木が手を伸ばす。


 だが、届かない。


 水流が強すぎる。装置が海水を吸い込んでいるのだ。


 佐藤が佐々木の背中を押す。


 宮下が佐藤の足を押さえる。


 久住も加わった。宮下の肩を押し込む。


 人間梯子ラダー


 命のパスリレー。


 佐々木の指先が、レバーに触れた。


 あと数センチ。


 肺が苦しい。


 限界だ。


 意識が飛びそうだ。


 翔太くんの笑顔が浮かんだ。


 小林さんのバラが見えた。


 ハナの鳴き声が聞こえた。


 こけら落としの水族館の歓声。


 あれは幻ではなかった。


 かつて本当にあった、幸せな記憶。


 それを取り戻すんだ。



 佐々木が目を見開いた。


 渾身の力で、腕を伸ばした。



 ガキン。



 水中を、金属音が伝播した。


 レバーが下りた。



 瞬間。


 光が消えた。



 吸い込みが止まった。


 浮力が戻った。


 久住たちは水面へと弾き出された。



 プハァッ!



 水面に顔を出し、空気を貪る。


 嵐が……止んでいる?


 いや、風はまだ強い。波も高い。


 だが、あの殺意に満ちた気圧の圧迫感は消えていた。


 ただの、激しい低気圧だ。


 自然の嵐だ。



 空を見た。


 厚い雲の切れ間から、月が見えた。


 時計を見る。


 〇時〇分〇一秒。



 日付が変わっている。



 リセットされなかった。


 朝に戻らなかった。



 時間が、進んだのだ。



「やった……」


 誰かが呟いた。


「やったぞおおお!」


 歓声が上がった。


 荒れ狂う海の中で、男たちが抱き合い、泣き叫んでいる。


 久住は空を見上げたまま、動けなかった。


 涙が止まらなかった。



 明日が来た。


 ただそれだけのことが、こんなにも嬉しい。


 こんなにも重い。



 波間に漂いながら、久住は佐々木を探した。


 少し離れたところで、佐藤に支えられている佐々木が見えた。


 彼はぐったりとしていたが、生きていた。


 久住と目が合った。


 佐々木は微かに笑い、親指を立てた。



 最高の天気予報だった。


 久住は心の中でそう言った。



       第八章 崩壊した世界




 目が覚める。


 六時の時報は鳴らない。


 枕元のラジオも、電波を受信していない。


 ただ、波の音だけが聞こえる。



 久住は目を開けた。


 空が見えた。


 あの完璧な、嘘のような蒼穹ではない。


 灰色に濁った、鉛のような空だ。低い雲が垂れ込め、その隙間から鈍い光が漏れている。


 身体が痛い。腰だけでなく、背中、腕、足、全身が軋んでいる。


 リセットされていない。


 昨夜の筋肉痛が、そのまま残っている。足の切り傷も、手のひらの擦り傷も、そのままじくじくと痛む。


 久住はゆっくりと身を起こした。


 砂浜だ。


 水族館の前のテラスは波に洗われ、コンクリートが一部崩壊していた。


 周囲には、疲れ果てて眠る人々の姿があった。


 佐藤が大の字になっていびきをかいている。


 宮下がカメラを抱いたまま丸まっている。


 小林さんが村田さんの肩にもたれて微睡んでいる。


 みんな、生きている。


 そして、傷ついている。


 服は破れ、泥にまみれ、髪は潮風で固まっている。


 だが、その寝顔は安らかだった。


 五百回以上繰り返された、強制的な目覚めではない。


 自分の力で勝ち取った、自然な眠りだ。



 久住は立ち上がり、海を見た。


 海の色も変わっていた。


 鮮やかなマリンブルーではない。


 黒く、重く、油膜のような光沢を帯びた、死んだ海だ。


 波打ち際には、得体の知れない瓦礫が打ち上げられている。プラスチックの破片、錆びた金属塊、溶けたような形状のガラス。


 これが、外の世界か。


 佐々木が言っていた通りの世界か。



 佐々木はどこだ。


 久住は視線を巡らせた。


 波打ち際から少し離れた岩場に、その老人は座っていた。


 膝を抱え、ぼんやりと沖を見つめている。


 久住は歩み寄った。


 砂を踏む音がする。ザッ、ザッ。


 佐々木は振り返らなかった。


「おはようございます、佐々木さん」


 久住が声をかけると、佐々木はゆっくりと顔を上げた。


 一晩で十年老け込んだような顔だった。深い皺が刻まれ、目は落ち窪んでいる。


「……おはよう、久住君」


 声は掠れていた。


「いい天気……とは言えませんね」


 久住が空を見上げて苦笑すると、佐々木も弱々しく笑った。


「ああ。最悪の天気だ。高濃度スモッグ、酸性雨の気配、紫外線指数は危険レベル。予報士としては、外出禁止勧告を出すべき空だよ」


「それでも、俺たちの空です」


 佐々木は黙った。再び海に視線を戻す。


「……後悔していないか?」


「何をです?」


「この景色を見てだ。あの美しい箱庭を捨てて、こんなゴミためのような世界を選んだことを」


 久住は隣に座った。


 岩の感触が冷たい。


「後悔? まさか」


 久住は海風を胸いっぱいに吸い込んだ。少しカビ臭く、焦げ臭い匂いがする。


「この空気は不味い。水は汚い。空は暗い。でも、ここには『明日』がある。何が起こるか分からない未来がある。俺たちが欲しかったのは、綺麗な壁紙の独房じゃなくて、汚れていても広い荒野なんですよ」


 佐々木は目頭を押さえた。


「……ありがとう」


「お礼を言われる筋合いはありません。あんたのしたことは許されない。これから皆に糾弾されるでしょう」


「覚悟の上だ」


「でも、あんたのおかげで生き残ったのも事実だ。この街だけが、世界で唯一の『箱舟』だった」


 佐々木は顔を覆ったまま、肩を震わせた。



 日が昇るにつれ、人々が起き出し始めた。


 最初は状況が飲み込めず、呆然とする者もいた。


 だが、痛みと空腹が現実を告げる。


「腹減ったあ……」


 誰かの声が、静寂を破った。


「母ちゃん、ごはーん」


 子供が泣き出す。


 現実だ。


 リセットされない世界では、腹が減る。


 佐藤が起き上がり、大きな欠伸をした。


「うおおお……身体中いてえ……」


 そして周囲を見渡し、目を丸くした。


「なんだこりゃ。嵐の跡にしちゃあ、ひどすぎるぜ」


 宮下も起きてきた。


「うわ……マジっすか。この空、世紀末っすね」


 人々がざわめき始める。


 恐怖、戸惑い、そして徐々に怒りが混じり始める。


 佐々木に向けられる視線。


 当然だ。彼がこの状況を作った元凶なのだから。


 一人の男が佐々木に詰め寄ろうとした。


「おい! じいさん! 説明しろよ! これから俺たちはどうなるんだ!」


 久住がその前に立ちはだかった。


「待ってください」


「どけよ久住! お前もグルか!」


「違う。俺も被害者だ。でも今、佐々木さんを責めても腹は膨れない」


 久住は声を張り上げた。


「全員、聞いてください!」


 テラスの群衆に呼びかける。


「ループは終わりました。俺たちは元の時間軸に戻ったんです。見ての通り、外の世界は崩壊しています。電気もない、水道もない、ガスもない。店も開いていない。コンビニも補充されない」


 悲鳴が上がった。


「どうやって生きていくんだ!」


「水は!? 食料は!?」


「私たちはここで死ぬのか!?」


 パニックになりかけた群衆を、久住の冷静な声が制した。


「生きていけます。この街には、まだ物資が残っている」


 久住は指を折って数えた。


「スーパーの倉庫には缶詰や保存食があるはずです。リセットされなくても、昨日のまま残っている。農家には野菜がある。井戸水が使える家もある。プロパンガスの家なら火も使える」


 人々が顔を見合わせた。


「それに、俺たちには知識がある」


 久住は佐藤を見た。


「佐藤さん、魚の捌き方は覚えてますよね?」


「当たり前だ!」


「小林さん、植物の育て方は?」


「もちろん!」


「村田さん、漬物の漬け方は?」


「六十年やってるわよ」


 久住は頷いた。


「俺たちは五百回、同じ今日を繰り返してきました。その中で培った技術や知識は消えていない。それを持ち寄れば、この廃墟の中でも生活を再建できるはずです」


 静寂が戻った。


 絶望的な静寂ではない。思索する静寂だ。


「まずは水と食料の確保だ。班を分けましょう。若い男は街へ行って物資の確認。女性と高齢者はここを拠点にして炊き出しの準備。子供たちは……遊んでいていい。元気でいるのが仕事だ」


 微かな笑いが起きた。


 久住は続けた。


「指揮は俺が執ります。文句があるなら後で聞く。今は生き残るのが先決だ。いいですね!」


「おう!」


 佐藤が答えた。


「やってやろうじゃねえか! サバイバルなら任せとけ!」


 人々が動き出した。


 文句を言いながら、不安を抱えながら、それでも手足を動かし始めた。


 人間は強い。


 五百回の死を超えて、なお立ち上がる力がある。



 その日の午後。


 探索隊が戻ってきた。


 結果は、予想以上に厳しく、同時に希望の持てるものだった。


 街のインフラは壊滅していた。発電所からの送電は停止。浄水場も機能していない。


 だが、個々の家屋は無事だった。


 スーパーの倉庫には、確かに大量の在庫があった。賞味期限は三年前に切れているものも多かったが、缶詰や乾麺は食べられる。


 井戸のある農家が水を提供してくれた。


 プロパンガスのボンベを集め、小学校の校庭に即席の炊事場を作った。


 夕方、カレーの匂いが漂った。


 レトルトのカレーと、古米を炊いたご飯。


 具は少ないし、米は少し臭う。


 だが、校庭に集まった二千人の住民たちは、それをむさぼるように食べた。


「うめえ……」


「あったかい……」


 涙を流しながら食べる者もいた。


 久住も宮下と並んでカレーを食べた。


「久住さん、これマジで美味いっすね」


「ああ。最高のディナーだ」


 宮下が空を見上げた。


「東京……どうなってるんすかね」


「さあな。壊滅してるかもしれないし、意外と残ってるかもしれない」


「行ってみますか?」


「いつかな。今は、ここを立て直すのが先だ」


「っすね。……手紙、彼女に渡せなかったっす」


「なんで?」


「なんか、恥ずかしくなっちゃって。また書き直します。今度は『この街で一緒に生きよう』って」


「そっちの方がいいな」


 久住は笑った。



 夜になった。


 街灯は点かない。


 本当の闇が訪れた。


 だが、校庭の真ん中には焚き火が燃えている。


 その周りに人々が集まり、暖を取っている。


 ギターを持ち出した若者が、静かな曲を弾き始めた。


 誰かが歌い出した。


 知っている曲だ。昔流行った歌謡曲。


 合唱が広がる。


 闇の中で、歌声だけが響く。


 久住は焚き火の明かりから離れ、校舎の屋上に上がった。


 そこには、佐々木がいた。


 一人で、暗い街を見下ろしている。


「逃げないんですね」


 久住が声をかけると、佐々木は振り返った。


「逃げる場所などないよ。それに、私は見届けなければならない」


「何を?」


「この街の行く末を。私が守ろうとして閉じ込め、君が解放したこの街が、どう変わっていくのか。それを記録するのが、最後の観測者の務めだ」


 佐々木は新しいノートを開いていた。


 月の光の下で、ペンを走らせている。


「何を書いてるんです?」


「『再生の記録』だ。1ページ目。……人々はカレーを食べ、歌を歌っている。絶望の中にも、希望の灯火が見える」


 久住は手すりに寄りかかった。


「明日の天気はどうなりますかね」


「私のノートには、もう未来のことは書かれていない。君の出番じゃないか、予報士くん」


 久住は空を見た。


 雲が流れている。風の匂いが変わった。湿度が上がり、気圧が下がってきている。これは嵐の予兆ではない。ただの雨だ。


「明日は雨でしょう。冷たい雨が降ります」


「それは残念だ」


「でも、雨が降れば大地が潤う。井戸水も増える。埃も洗い流される。悪いことばかりじゃない」


「そうだな。……雨か。久しぶりだな」


 佐々木は懐かしそうに目を細めた。



 翌朝。


 予報通り、雨が降った。


 しとしとと降る、静かな雨だった。


 人々は雨水を集めるためにバケツや鍋を外に出した。


 子供たちは雨の中で走り回り、泥だらけになって笑った。


 小林さんは枯れかけたバラの鉢植えを軒下に出した。


「たっぷりお飲み」と声をかけながら。


 佐藤は雨を見ながら煙草を吸っていた。


「漁には出られねえな。まあ、海もあんな色じゃ魚もいねえだろうけどよ」


「魚はいなくても、ワカメくらいあるかもしれませんよ」


 久住が言うと、佐藤は笑った。


「おう、違げぇねえ。ワカメの味噌汁、飲みてえな」



 雨は三日続いた。


 その間、住民たちは会議を開いた。


 リーダーとして久住が選ばれたが、実務は自治会長や商店街の役員たちが分担することになった。


 大工は壊れた家の修繕を始め、電気屋はソーラーパネルのある家から電気を引く計画を立てた。


 医者は薬の在庫を確認し、看護師たちは高齢者の健康チェックに回った。


 みんな、自分の役割を見つけて動き出した。


 誰かに命じられたからではない。


 自分たちの生活を守るために、自発的に動いているのだ。


 歯車ではない。


 一人一人が、生きる意志を持った人間として。



 四日目。


 雨が上がった。


 久住は朝早く起きて、海岸へ向かった。


 雲が切れ、東の空が白んでいる。


 水平線の向こうから、太陽が昇ってきた。


 強烈な光だ。


 ループの中の、プログラムされた優しい朝日とは違う。網膜を焼き尽くすような、荒々しく、生命力に満ちた太陽。


 海が輝く。


 黒い油膜のような海面も、光を受ければ黄金色に輝く。


「……おはよう」


 久住は太陽に向かって呟いた。


 二度と来ない昨日への別れと、


 初めて見る今日への挨拶。



 後ろで足音がした。


 宮下と、永田と、佐々木だった。


「久住さん、おはようございます」


「おはよう」


 三人は久住の横に並んだ。


「晴れましたね」


「ああ、快晴だ」


 永田がカメラを持っていた。


「久住君、やろうか」


「え?」


「天気予報だよ。機材はないけど、スマホで録画して、みんなに見せるんだ。今のみんなに必要なのは、君の声だ」


 永田の目が真剣だった。かつての半開きの眠そうな目ではない。ディレクターとしての矜持きょうじが戻っていた。


「……分かりました」


 久住は背筋を伸ばした。


 宮下がスマホを構える。


「行きますよ。三、二、一、キュー!」



 久住はレンズを見つめた。


 その向こうにいる、泥だらけで、腹を空かせて、それでも笑っている仲間たちの顔を思い浮かべて。


「おはようございます。天気予報の時間です」



 ――完――

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