83話 誰だ?
研究室。
いつも通りの畳。
だが。
今日は視線が多い。
遥は最近連勝している。
「今日の相手、雨宮や」
誰かが小声で言う。
別の声。
「終わりやな」
笑い声。
遥は少し首をかしげる。
雨宮澄人。
聞いたことがない。
盤の前に座る。
対面。
細い男。
目が合わない。
ずっと盤を見ている。
「お願いします」
遥が言う。
雨宮は少し遅れて頭を下げる。
「お願いします」
声が小さい。
駒が並ぶ。
対局開始。
序盤。
普通。
遥のいつもの形。
だが。
三十手目。
雨宮が突然仕掛ける。
早い。
鋭い。
遥の眉が動く。
「……」
知っている。
この形。
自分の棋譜だ。
前回の対局。
全く同じ流れ。
遥の喉が鳴る。
雨宮は止まらない。
次の手。
また同じ。
完全に。
研究されている。
周りがざわつく。
「全部読まれてる」
遥は考える。
なら。
違う手。
自分の将棋。
歩を突く。
だが。
雨宮はすぐ指す。
迷いがない。
さらに数手。
遥の攻め筋が消える。
金。
銀。
全部。
消される。
遥の背中に汗。
中盤。
盤面は静か。
でも。
遥だけが苦しい。
自分の将棋。
全部。
封じられている。
雨宮が初めて口を開く。
「水瀬さん」
遥が顔を上げる。
雨宮は盤を見たまま言う。
「この銀、好きですよね」
遥の心臓が跳ねる。
雨宮が続ける。
「でも今日は打てません」
次の手。
パチ。
銀の打ち場所が消える。
遥の攻めが完全に終わる。
終盤。
遥は何もできない。
盤は崩れていく。
数手後。
雨宮が静かに言う。
「詰みです」
遥の手が止まる。
盤を見る。
本当だ。
完全に詰んでいる。
遥はしばらく動かない。
そして。
深く頭を下げる。
「……参りました」
研究室が静まる。
誰も声を出さない。
遥は立ち上がる。
負けた。
しかも。
完全に。
廊下に出る。
息が重い。
後ろから声。
雨宮。
「水瀬さん」
遥が振り向く。
雨宮は少し嬉しそうだ。
「やっと当たりました」
遥は何も言えない。
雨宮は続ける。
「ずっと研究してたんです」
一拍。
「あなたのことだけ」
遥の胸がざわつく。
雨宮は首を傾げる。
「次は負けると思います」
遥が眉をひそめる。
「なんで」
雨宮は少し考える。
そして言う。
「今日、あなたは変わるから」
静かな声。
「負ける人は、強くなる人です」
雨宮はそれだけ言う。
そして研究室へ戻る。
遥は廊下に立つ。
胸が痛い。
でも。
目は死んでいない。
むしろ。
少しだけ燃えている。
遥は呟く。
「……潰されたな」
でも。
ゆっくり拳を握る。
「面白い」
遠くの研究室。
恒一がまた棋譜を並べている。
そこに、
新しい棋譜が置かれる。
水瀬遥 ●
相手の名前。
雨宮澄人。
恒一の手が止まる。
「……誰だ?」




