82話 評価一転
奨励会研究室。
いつも通りの畳。
いつも通りの盤。
だが。
空気は、もう同じではない。
「……また?」
「また勝った」
小さなざわめき。
壁の掲示板。
対局結果。
水瀬遥
○ ○ ○
三連勝。
誰かが小さく言う。
「研究されてるのに」
別の声。
「なんで崩れへんねん」
遥はその前を通る。
誰も直接は何も言わない。
でも。
視線が変わった。
嫉妬でもない。
軽口でもない。
――警戒。
遥はそれを感じる。
でも止まらない。
盤に座る。
今日の研究。
対面の相手は三段候補の男。
名の知れた堅実派。
対局が始まる。
序盤。
研究通り。
中盤。
読み合い。
終盤。
遥の銀が静かに滑り込む。
パチ。
相手の手が止まる。
そして。
数手後。
「……参りました」
まただ。
部屋の空気が揺れる。
誰かが呟く。
「なんやあれ」
別の声。
「形、見たことない」
遥は一礼する。
立ち上がる。
そして廊下へ出る。
その背中を、
何人かが黙って見ていた。
もう笑う者はいない。
代わりに。
一人が言う。
「……あいつ」
静かな声。
「本物かもしれん」
同じ頃。
別の部屋。
棋譜検討室。
静かな机。
そこに座っている男。
渦間日向。
机の上には数枚の棋譜。
その一つ。
水瀬遥。
日向はゆっくり並べる。
パチ。
パチ。
駒音だけが響く。
序盤。
日向の表情は動かない。
普通。
中盤。
少しだけ手が止まる。
「……」
銀の動き。
歩のタイミング。
研究ではない。
感覚でもない。
――読み。
日向は最後まで並べる。
そして。
終盤の銀打ち。
その瞬間。
日向の指が止まる。
静かな部屋。
数秒。
そして。
小さく呟く。
「そう来るか」
驚きではない。
理解。
日向はもう一度その局面を見る。
もし自分なら。
違う手を指している。
でも。
遥の手の方が――
面白い。
日向は椅子に背を預ける。
天井を見る。
「へぇ」
ほんの少し笑う。
その時。
後ろの扉が開く。
黒田律。
「何見とん」
日向は棋譜を指で叩く。
「遥」
律が近づく。
盤を見る。
そして。
すぐに笑う。
「ああ」
「例の銀か」
日向が聞く。
「見たことある?」
律は肩をすくめる。
「ない」
一拍。
「だから面白い」
日向はもう一度盤を見る。
遥の手。
自分の手ではない。
でも。
弱くない。
むしろ。
危険だ。
日向は静かに言う。
「下じゃないな」
律がニヤッと笑う。
「今さら?」
日向は続ける。
「まだ未完成だけど」
駒を一つ動かす。
遥の手を再現する。
パチ。
「このまま伸びたら」
少し考える。
それから言う。
「普通に強い」
律が笑う。
「それ、日向の褒め言葉やな」
日向は否定しない。
盤を見る。
そして。
静かに言う。
「会いたくなった」
律が目を細める。
「盤の上で?」
日向は答えない。
ただ。
遥の棋譜をもう一度見る。
そして。
小さく呟く。
「浮いてるな」
でも。
その言葉はもう、
軽蔑ではなかった。
むしろ。
少しだけ。
楽しそうだった。




