73話 浮いている
奨励会の対局室は静かだ。
静かすぎる。
盤を打つ音だけが響く。
水瀬遥は、その中心にいるはずなのに、少し外にいる感覚があった。
視線。
直接向けられるわけじゃない。
でも、ある。
二段なのに、八段と打っている。
六段とも打っている。
黒田律とも打っている。
噂は回る。
「外でプロと指してるらしいで」
「研究会、そっち優先なんちゃうか」
「調子乗ってるよな」
誰も面と向かっては言わない。
でも、空気が言う。
遥は黙って盤に向かう。
今日も勝った。
内容は悪くない。
でも、対局後の挨拶の温度が低い。
帰り際、廊下で声がかかる。
「水瀬」
低く、平坦な声。
振り向く。
そこに立っていたのは三段の男。
背が高く、姿勢が良い。
無駄な動きがない。
「……高槻さん」
高槻圭吾。
三段リーグ常連。
あと一歩で四段に届かない男。
年齢制限も、もう近い。
「今日の将棋」
視線が鋭い。
「また外の癖、出てたな」
遥は何も言わない。
「角の使い方。あれ、渦間型だろ」
ドクン、と心臓が鳴る。
図星。
高槻は続ける。
「悪いとは言わん。でもな」
一歩、近づく。
「ここは奨励会だ」
静かな圧。
「外で評価される将棋と、ここで生き残る将棋は違う」
遥は唇を噛む。
言い返したい。
でも、言葉が出ない。
高槻は淡々としている。
怒っていない。
軽蔑もしていない。
ただ、事実を言っている。
「研究、足りてるか?」
「……してます」
「足りてない」
即答。
「三段リーグは甘くない」
目が真っ直ぐだ。
「遊びで上がれる場所じゃない」
遥の胸がざわつく。
遊び?
違う。
自分は真剣だ。
でも。
本当に“ここ”だけを見ているか?
恒一との対局。
律との感想戦。
日向の棋譜。
外の空気。
刺激。
楽しい。
その時間があるから頑張れている。
でも。
高槻はここしかない。
奨励会一本。
生活も時間も、全部将棋。
「……次、当たるな」
高槻が言う。
リーグ表を見れば分かる。
最終盤。
昇段がかかる可能性がある一局。
「その時は」
高槻の目がわずかに鋭くなる。
「コピーじゃなく、自分で来い」
それだけ言って去っていく。
足音が規則正しい。
迷いがない。
遥は一人、廊下に立つ。
胸が苦しい。
悔しい。
でも――
少しだけ。
怖い。
高槻圭吾。
正しい人間。
努力の塊。
ああいう人が上がるべきだ、と皆が思う。
遥は壁にもたれる。
自分は浮いている。
ここにいるのに、どこか違う。
でも。
ふと、あの言葉がよぎる。
壊せ。
律の声。
コピーしてるうちは、勝てないぞ。
遥は目を閉じる。
浮いているなら。
沈むか。
それとも。
突き抜けるか。
廊下の窓から差し込む光が、少しだけ眩しかった。
物語は、まだ誰も気づいていない。
この浮いている少女が、
門番を越えるとは。




