70話 タイトル戦 最終局
会場は、異様な静けさに包まれていた。
重い絨毯。
照明は白く、影が濃い。
盤は中央に置かれている。
まだ誰も座っていない。
だが、もう勝負は始まっている。
先に現れたのは――
黒田律。
ゆっくり歩く。
いつもの和柄の羽織。
煙草は吸っていない。
今日は吸わない。
代わりに、指を鳴らす。
「静かやなぁ」
小さく呟く。
少し遅れて、
渦間日向が入ってくる。
足音がほとんどしない。
無駄がない。
律がちらりと見る。
「楽しそうやな」
日向は答えない。
座布団の前で一礼。
それから盤を見る。
静かに。
深く。
別室。
モニターの前。
相川恒一が立っている。
腕を組んでいない。
背中も張っていない。
ただ、見る。
その横に、水瀬遥。
手が少し震えている。
「……始まるな」
恒一が言う。
遥は頷く。
自分でも分からない緊張。
憧れの人と。
おっちゃんの。
決勝。
会場に戻る。
対局者、入室。
一礼。
駒が並ぶ。
律が言う。
「なあ」
日向を見る。
「今日、楽しめそうか?」
日向は少しだけ間を置く。
そして言う。
「多分」
律が笑う。
「そうかい」
振り駒。
先手、日向。
カチ、と音が響く。
その一手は、
力みもなく、
静かで、
迷いがなかった。
別室。
恒一の目がわずかに動く。
「……軽いな」
遥が呟く。
「軽い、ですね」
でも軽いのに、重い。
盤面に、余白がある。
呼吸がある。
日向は――楽しんでいる。
律の指が止まる。
ほんの一瞬。
そのわずかな間を、
日向は見逃さない。
だが攻め急がない。
ただ、形を整える。
律が小さく笑う。
「成長したな」
日向は返さない。
だが、その目は言っている。
――まだ途中だ。
夕方。
盤面は張り詰める。
形勢は互角。
いや、わずかに――
日向が柔らかい。
律は気づいている。
(こいつ、削ってこない)
昔の日向なら、
相手の余裕を削る将棋だった。
だが今日は違う。
余裕を奪わない。
自分の呼吸で進める。
律は、嬉しそうに目を細める。
(やっと、楽しんでやがる)
別室。
遥の目が離れない。
「あの手……」
恒一が言う。
「真似できるか?」
遥は即答しない。
少し考えて、
小さく首を振る。
「……できる気がしない」
恒一は静かに笑う。
「いいな」
「え?」
「真似できない将棋は、強い」
遥は初めて、
恒一の横顔をちゃんと見る。
丸くなった。
でも奥が深い。
変わった。
確実に。
夜。
終盤。
律が長考する。
盤は細い。
一手で崩れる。
律がふっと笑う。
「なるほどな」
そして指す。
鋭い。
会場がざわめく。
だが日向は驚かない。
少しだけ目を閉じる。
呼吸。
一拍。
そして――
置く。
静かに。
一手。
誰も気づかない。
だが律だけは分かる。
止まる。
時間が止まる。
律の目が細くなる。
そして――
小さく笑う。
「……参った」
⸻
静寂。
一瞬遅れて、
拍手が起こる。
渦間日向、
タイトル奪取。
日向は頭を下げる。
派手な喜びはない。
ただ、
少しだけ、
目が柔らかい。
別室。
遥は立てない。
恒一は、立っている。
目を逸らさない。
日向が、こちらを見る。
目が合う。
ほんの一瞬。
そして、
日向は少しだけ笑う。
その視線が、
恒一から、
遥へ。
(ここからだ)
誰も言葉にしない。
だが全員、分かっている。
物語は、
今、
本当に動き出した。




