67話 プライド
廊下の沈黙を、恒一が破る。
「……今、時間ある?」
遥は一瞬固まる。
「え?」
恒一は盤のある部屋の方を見る。
「一局、お願いできる?」
遥の思考が止まる。
八段が。
自分に。
奨励会二段に。
「え、いや……その……」
「嫌ならいいよ」
本当にあっさりしている。
そこに上下はない。
遠慮も、見下しもない。
ただ純粋に、将棋を指したい人の目。
遥は気づく。
この人、プライドがない。
少なくとも、階級に対するプライドが。
「なんで……うちなんですか」
恒一は少し考える。
「面白かったから」
「最後の一手?」
「うん」
盤のある部屋に入り、恒一は自然に座る。
遥は少し遅れて座る。
盤を挟む。
向かい合う。
距離が、近い。
恒一は駒に触れながら言う。
「でも、条件がある」
遥の背筋が伸びる。
「条件?」
恒一は目を上げる。
静かだが、真剣。
「真似しないで」
遥の心臓が跳ねる。
「……」
「日向の将棋も、俺の将棋も、律の将棋も」
ゆっくり続ける。
「今日だけは、全部忘れてほしい」
盤の上に手を置いたまま、恒一は言う。
「本当の水瀬遥の将棋を見たい」
静か。
でも逃げ場がない言葉。
遥の中で何かが揺れる。
今まで。
研究して。
並べて。
なぞって。
少しずつ強くなってきた。
でもそれは“安全な強さ”。
自分で選んだ手ではない。
恒一が言う。
「負けてもいいから」
「……」
「本音で指して」
その目には優しさがある。
でも甘さはない。
遥はゆっくり深呼吸する。
怖い。
本当の自分の将棋なんて、まだ曖昧だ。
形になっていない。
でも。
逃げたくない。
「……分かりました」
声が震えている。
でも、目は逸らさない。
恒一は少しだけ笑う。
「ありがとう」
その言い方が自然すぎる。
八段が、二段に礼を言う。
階級が、消える。
将棋だけが残る。
遥は思う。
この人は、強い。
でもそれ以上に、
自由だ。
恒一が初手を置く。
カチリ。
音が響く。
いつもなら相手の型を読む。
今日は違う。
遥は盤を見る。
日向ならどう指すか、を考えかけて――
やめる。
消す。
消す。
消す。
そして。
自分の手を置く。
カチ。
その瞬間。
恒一の目が、わずかに光る。
(……それでいい)
彼は気づく。
危うい。
荒い。
でも、生きている。
盤上に、
“水瀬遥”が初めて現れ始める。




