66話 次世代と天才の交差
夕方。
対局のない日。
静かな廊下に、靴音がひとつ。
水瀬遥は資料を抱えて歩いていた。
角を曲がる。
止まる。
そこにいた。
相川恒一。
八段。
何度も映像で見た。
何度も棋譜を並べた。
律から何度も話を聞いた。
「天才君」
そう呼ばれている人。
遥は、自然と背筋が伸びる。
逃げたいわけではない。
でも、近づきたいとも違う。
尊敬。
と、少しの恐れ。
――目が合う。
恒一は一瞬驚いた顔をして、それから小さく会釈した。
「……こんにちは」
思っていたより、声が柔らかい。
遥は一拍遅れて返す。
「こ、こんにちは」
沈黙。
気まずい。
でも逃げない。
遥は恒一を観察する。
もっと鋭い人だと思っていた。
近寄りがたい、尖った刃物みたいな人。
でも今、目の前にいるのは。
……丸い。
雰囲気が、違う。
恒一が先に口を開く。
「水瀬さん、だよね」
名前を知っている。
それだけで心臓が跳ねる。
「は、はい」
「律から聞いた。棋譜、見せてもらったって」
遥の顔が一瞬で赤くなる。
「あれは……その……」
恒一は少し笑う。
馬鹿にする笑いではない。
むしろ、少し嬉しそう。
「面白かったよ」
遥は思わず顔を上げる。
「え?」
「最後の一手」
静かに続ける。
「あれ、俺なら打たない」
その言葉は否定ではない。
むしろ、肯定に近い。
遥はじっと恒一を見る。
やっぱり違う。
前に見た対局の映像より、どこか柔らかい。
鋭さはある。
でも刺してこない。
遥は、思わず口にする。
「……なんか、変わりました?」
言ってから、はっとする。
失礼だったかもしれない。
恒一は少しだけ考えて、それから笑う。
「変わったかも」
あっさり認める。
「ちょっと前まで、勝つことばっかり考えてた」
「今は?」
「将棋が楽しいかどうか、考えてる」
その言葉は静かだけど、深い。
遥の胸がざわつく。
律が言っていた。
“楽しもうとしてる”
目の前の恒一は、確かにそうだ。
怖い人だと思っていた。
完成された存在だと思っていた。
でも違う。
ちゃんと悩んでいる。
ちゃんと揺れている。
人間だ。
遥は、少しだけ笑う。
「思ってたより……丸いですね」
恒一が目を瞬く。
「丸い?」
「もっとトゲトゲしてる人かと」
恒一は肩をすくめる。
「昔は、ちょっと尖ってたかも」
少し間。
「でも削られた」
律のことだ、と遥はすぐ分かる。
遥は思う。
この人は、強い。
でもそれ以上に、
壊れて、戻ってきた人だ。
それが分かるから、怖い。
でも。
少しだけ、近づける気がした。
恒一が言う。
「水瀬さんは?」
「え?」
「将棋、楽しい?」
突然の問い。
遥は答えに詰まる。
まだ、楽しめていない。
これから楽しむつもりでいる。
日向との対局を楽しみにしている。
律との対局も。
そして――
この人との対局も。
遥は小さく言う。
「……これからです」
恒一は頷く。
「いいね」
その一言が、軽い。
でも重い。
廊下に沈黙が落ちる。
今まで遠かった人が、少しだけ近くなる。
遥は思う。
尊敬は消えない。
恐れも、少しある。
でも――
この人、思ってたより丸い。
そして、
丸くなったからこそ、前より怖い。
物語はここから、
“次世代”と“再生した天才”が交差する。




