62話 負けた夜
部屋は静かだった。
スーツを脱ぎ、ネクタイを外し、盤を出す。
電気はつけない。
窓からの街灯だけで十分だった。
駒を並べる。
あの一局を、最初から。
初手。
角道を開ける。
自分の得意な形。
迷いはなかった。
中盤。
仕掛ける。
飛車先交換。
桂の活用。
優勢。
評価値は良かった。
間違っていない。
間違っていないはずだった。
手が止まる。
あの瞬間。
律の陣は崩れていなかった。
傷はあった。
でも、壊れていなかった。
なぜだ。
盤を睨む。
自分は攻め続けていた。
だがいつの間にか、
「攻めさせられていた」。
気づく。
削られていたのは駒ではない。
余裕だ。
自信だ。
「……」
駒を握る。
ふと、笑いが込み上げる。
対局後に笑ったあの感覚。
あれは何だった。
負けたのに。
削られたのに。
悔しいはずなのに。
楽しかった。
その事実が、今さら重くなる。
勝てなかった。
でも面白かった。
じゃあ俺は何を目指している?
タイトルか。
勝率か。
それとも
対局そのものか。
盤上で、自分が削られていく感覚。
精度を問われる時間。
呼吸のような応酬。
あれが、楽しかった。
それは間違いなく、本心だ。
恒一は盤に手をつく。
子どもの頃。
祖父と向かい合った畳の匂い。
回り将棋。
笑い声。
「飛車角は大胆に動かせ」
「守ることも大事やで」
あの頃は、勝ち負けではなかった。
ただ、指すのが面白かった。
いつからだ。
勝たなければならなくなったのは。
好きだったはずなのに。
極めれば極めるほど、純粋さは削れていく。
勝つことが義務になる。
負けが許されなくなる。
楽しい、が消えていく。
でも今日。
律に負けた今日。
その奥に、もう一段深い何かがあった。
苦しい。
削られる。
自信が崩れる。
それでも
面白い。
恒一は初めて、はっきりと言葉にする。
「……将棋が、好きだ」
勝つから好きなのか。
違う。
強いから好きなのか。
違う。
削られても、壊されても、
盤の前に座る自分がいる。
それが答えだ。
静かに駒を崩す。
音が小さく響く。
負けは負けだ。
だが、
あの一局は間違いなく前に進んでいる。
恒一は天井を見る。
笑いはもうない。
でも、目は澄んでいる。
「次は、削らせない」
呟く。
そして少しだけ、柔らかくなる。
「……いや、削られてもいいか」
その先に何があるのか、
知りたくなった。




