61話 煙を覚えた日
負けた日の夜だった。
対局室の畳の匂いが、まだ鼻の奥に残っている。
読み切ったはずだった。
詰みが見えていた。
だが一手足りなかった。
たった一手。
その「一手」が、
自分が天才ではないという証明みたいに思えた。
帰り道、頭の中では盤面が何度も再生される。
△7七角成
▲同銀
――違う。
あの瞬間、桂だったか?
止まらない。
駅のホームでも、
布団の中でも、
風呂の湯の中でも。
将棋が、離れない。
考えないようにすると、
余計に鮮明になる。
それが怖かった。
将棋一本で生きると決めたのは自分だ。
だが、
四六時中将棋が頭にあることが、正しいのかどうか分からなくなった。
コンビニの前。
同門の誰かが煙を吐いていた。
「吸うか?」
軽い声。
律は首を振った。
いらない。
いらないはずだった。
だがその煙を見て、
初めて思った。
あの数分間だけ、将棋を考えていない。
それが羨ましかった。
最初の一本は、むせた。
咳き込みながら、
情けなくなった。
こんなものに頼るのか、と。
だが。
火をつける。
吸う。
吐く。
その瞬間だけ、盤面が消える。
頭の中の駒が、止まる。
何も読まなくていい。
何も証明しなくていい。
ただ煙を見ているだけでいい。
その数分間が、
救いだった。
やがて癖になった。
負けた日も。
勝った日も。
考えすぎた日も。
考えられなかった日も。
吸う理由はいつも同じ。
将棋から離れるため。
だが皮肉なことに、
離れた時間があるからこそ、
また盤の前に戻れた。
奨励会を去った日。
律は一本吸った。
悔しさも、怒りも、言い訳も出てこなかった。
ただ静かだった。
煙が夜に溶ける。
「……俺は天才じゃなかったな」
それは敗北宣言ではない。
事実確認だった。
だがそのあと、こうも思った。
じゃあ、夢中でいくしかない。
努力と思わないほどに。
息をするみたいに。
ゴキブリみたいにしぶとく。
踏まれても、踏まれても、
まだ動く。
そして今。
恒一に勝った日。
律は煙草を取り出す。
だが、火をつけない。
今日は必要ない。
盤上で、ちゃんと離れられたからだ。
夢中だった。
あの時間は将棋であり、将棋ではなかった。




