60話 忘れ物
対局室の控室。
夜。
人はほとんどいない。
テーブルの上に一枚の棋譜。
黒田律がそれをつまみ上げる。
「誰のや、これ」
日向が視線だけ動かす。
「水瀬やな」
律が鼻で笑う。
「弟子くんか」
日向は何も言わない。
律は椅子に腰掛け、棋譜を広げる。
ぱらり、と音がする。
「……おいおい」
数手進めたところで吹き出す。
「これ、ほぼお前やん」
日向の将棋だ。
序盤の構え。
中盤の受け。
歩の打ち方。
間合い。
全部、日向の匂い。
律は大笑いする。
「真似っこやなぁ!ここまでやるか普通!」
日向は静かに棋譜を覗く。
否定しない。
「悪くない」
ぽつり。
律は眉を上げる。
「甘いな」
「正確や」
日向の声は平坦。
「正確やけど、怖くない」
律はうなずく。
「そう。怖くない。お前の将棋はな、削るけど、どこかで覚悟がある。これは……借りもんや」
ページをめくる。
終盤に入る。
律の笑いが止まる。
手が止まる。
「……ん?」
日向も目を細める。
そこにある一手。
日向なら打たない。
効率が悪い。
形も少し歪む。
でも――
「待て」
律が盤を頭の中で並べ始める。
数秒。
十秒。
沈黙。
律の口角が上がる。
「はは……」
今度は小さな笑い。
「これ、気持ち悪いな」
日向は答えない。
ただ見ている。
律が言う。
「普通は最短で寄せる。これは遠回りや。でも……」
指で棋譜を叩く。
「相手の心を折る手や」
日向の目が、ほんの少しだけ動く。
「……そうやな」
律は背もたれに体を預ける。
「借りもんの将棋のくせに、最後だけ自分出してきよった」
大笑いする。
「おもろいやんけ!」
日向は小さく息を吐く。
「まだ、揺れてる」
「揺れてるな」
「でも」
日向の視線は静かに鋭い。
「揺れてるから、伸びる」
その瞬間。
ガチャ、とドアが開く。
二人が同時に見る。
立っているのは――
水瀬遥。
手にはカバン。
顔が固まる。
テーブルの上。
自分の棋譜。
そして。
渦間日向。
黒田律。
時間が止まる。
遥の顔が一瞬で赤くなる。
「な、ななな……」
律がにやりと笑う。
「おう、弟子」
「ちゃう!!」
即答。
日向は無表情。
「忘れ物やな」
遥は小さくうなずく。
そっと近づく。
棋譜を取ろうとする。
律がひょいと持ち上げる。
「これな」
遥の心臓が跳ねる。
「見たん……?」
「見た」
即答。
「ほぼ日向やな」
遥の顔が真っ赤になる。
「う、うちは……」
言い訳が出てこない。
律が急に真顔になる。
「でもな」
棋譜の最後を指す。
「これ、なんで打った?」
遥が固まる。
迷う。
でも、答える。
「……早く勝ちたくなかったから」
沈黙。
律と日向が目を合わせる。
遥は続ける。
「ちゃんと、終わらせたかった」
言葉が震える。
「勝つだけやったら別の手や。でも、あの形のまま終わらせたら、なんか……嫌やった」
静か。
日向が遥を見る。
真っ直ぐ。
「それは、自分の将棋か?」
遥は詰まる。
数秒。
それでも、言う。
「……まだ、わからん」
律が笑う。
今度は優しく。
「ええやん」
棋譜を返す。
「その“わからん”が一番強い」
遥は受け取る。
手が少し震えている。
日向が最後に言う。
「真似は、悪くない」
遥の目が上がる。
「でも」
間。
「いつか、裏切れ」
遥の呼吸が止まる。
律が肩を叩く。
「卒業は自分で決めろ」
遥は深く頭を下げる。
逃げるように部屋を出る。
扉が閉まる。
沈黙。
律が笑う。
「お前、育てる気あるやろ」
日向は窓の外を見る。
「勝手に育つ」
律はまた笑う。
「それが一番怖いわ」




