59話 なぞる
夜。
奨励会の寮の小さな部屋。
蛍光灯の白い光。
盤を置く。
正座する。
深呼吸。
紙の束を広げる。
今日の棋譜。
渦間日向 八段。
名前を指でなぞる。
胸が少しだけ熱い。
「……遠い」
小さく呟く。
駒を並べる。
初手。
ゆっくり。
二手目。
静か。
三手目。
止まる。
「ここで、なんでそれなん」
声に出る。
分からない。
けれど、並べる。
進む。
進む。
進む。
中盤。
日向は攻めない。
じわじわ。
削る。
削る。
「優しい将棋やったのに」
盤面は全然優しくない。
角を打たれ、
歩を垂らされ、
逃げ道を狭められる。
派手な一手はない。
でも気づくと、
相手の呼吸が浅くなっている。
遥は駒を持ったまま止まる。
「これ……真似できへん」
いや。
できる。
形だけなら。
手順だけなら。
終盤に入る。
ここで、あの日の対局がよみがえる。
日向の指先。
静かな視線。
あの無駄のなさ。
「……こうやろ」
終盤の一手を打つ。
でも違う。
何かが違う。
遥は盤を睨む。
もう一度、戻す。
もう一度。
もう一度。
気づけば夜が深い。
時計は一時を回っている。
目が乾く。
でもやめない。
日向の終盤は、
読みの深さじゃない。
「迷いがない」
遥は気づく。
自分は、いつも迷っている。
勝ちたい。
でも怖い。
攻めたい。
でも崩れたくない。
日向には、それがない。
遥は駒を握る。
「うちは……弟子や」
誰もいない部屋で言う。
勝手に。
誇らしく。
少しだけ笑う。
でも、その笑いはどこか不安だ。
真似しているだけ。
なぞっているだけ。
まだ“自分”がない。
それでも今はいい。
今は吸収する時期。
盗む時期。
壊すのは、まだ先。
遥は盤をもう一度並べ直す。
今度は、日向の対局ではない。
自分の昨日の対局。
並べてみる。
そして気づく。
日向の手を当てはめようとしている自分。
「……あかん」
止まる。
それでも、また当てはめる。
危うい。
可愛らしい。
でも、危うい。
遥は小さく笑う。
「うちは、まだファンやな」
その自覚が、少しだけ痛い。
でも、目は輝いている。
この危うさがあるから、伸びる。
この依存があるから、いつか離れる。
机の上の棋譜。
渦間日向。
遥は最後にその名前を見つめる。
「待っとって」
小さく言う。
誰にでもなく。
まだ弟子。
まだ未完成。
でも、止まらない。
盤上に、そっと自分の一手を打つ。
それは日向の手とは、少しだけ違った。
ほんの、少しだけ。




