57話 淡々と
連勝。
数字だけ見れば、順調だった。
だが高揚はない。
勝っているのに、胸が熱くならない。
対局室を出る。
駒音がまだ耳の奥で残響している。
「ありがとうございました」
頭を下げ、廊下に出る。
いつも通りの空気。
いつも通りの勝利。
スマホが震える。
通知。
《相川恒一 八段、黒田律 八段に敗れる》
一瞬、目が止まる。
――え?
画面を見直す。
もう一度、読む。
間違いない。
相川恒一が、負けた。
あの恒一が。
喉がわずかに乾く。
別に、恒一が負けることがあり得ないとは思っていない。
将棋に絶対はない。
それでも。
あの恒一が、削られて負けた。
想像する。
静かな対局室。
徐々に細くなる攻め。
焦らされる終盤。
そして黒田律。
あの、タバコ臭い男。
日向は小さく息を吐く。
「……そうか」
驚きはある。
だが悔しさはない。
胸の奥で、別の感情が芽を出す。
面白い。
いや、違う。
まだ、そこまで言えない。
楽しい、とも言えない。
正直に言えば――
自分はまだ、将棋を楽しめていない。
勝っても、何かが足りない。
昔のように、ただ前に出る感覚。
ただ盤に夢中になる時間。
それを取り戻すために戻ったはずなのに。
廊下の窓から、夕方の光が差し込む。
日向は立ち止まる。
黒田律。
あの男の将棋。
削る。
耐える。
崩れない。
恒一とは真逆の生き物。
口元が、ほんのわずかに動く。
――当たりたいな。
まだ楽しめていない。
でも、
楽しめるかもしれない。
律となら。
その可能性に、心が少しだけ反応する。
ゆっくりと歩き出す。
「俺は……」
言葉は最後まで出ない。
代わりに、胸の奥で思う。
これからだ。
今はまだ、途中。
だがきっと。
黒田律と盤を挟むとき、
自分はもう一段、何かを越える。
そう思えた。
それだけで十分だった。
渦間日向は、静かに次の対局へ向かう。
楽しむのは、まだ先でいい。
だがその“先”が見えた。
それだけで、少しだけ――
世界が広がった。




