55話 勝負服
対局室を出たあと。
控室には、まだ数人が残っている。
検討盤。
誰も触っていない。
恒一は静かに座る。
盤を並べ直す。
自分が優勢だった局面。
飛車先を突破し、桂を取り、駒得。
完璧だったはずの流れ。
「……ここか」
律が金を寄った局面。
何でもない一手。
だが、そこから少しずつ削られている。
恒一の攻めが、薄くなっている。
削られたのは駒じゃない。
“勢い”だ。
その瞬間。
突然、
恒一が吹き出す。
「ははっ……!」
控室の空気が止まる。
誰も笑っていない。
だが恒一は止まらない。
「ははははは……!」
腹の底から。
初めて。
本当に楽しそうに。
記者も棋士も固まる。
負けた直後だ。
だが恒一の目は、悔しさよりも輝いている。
「やっとだ」
誰にともなく。
「やっと楽しくなってきた」
静まり返る。
そのまま立ち上がる。
廊下。
律が壁にもたれている。
今日は煙草を吸っていない。
恒一が言う。
「なんで削る」
律は首を傾ける。
「削る?」
「勝ちに来ない。踏み込まない。受け続ける」
律は少し笑う。
「勝ちに来てたけど」
「違う。あれは削りだ」
間。
恒一の目は真剣だ。
本気で知りたい。
律は天井を見る。
「俺はな、天才じゃない」
唐突だが、続ける。
「昔は勝とうとしてた。踏み込んで、ひっくり返して、派手に」
煙草を取り出すが、火はつけない。
「でもな、それ待ちなんだよ。天才の日が来るのを」
恒一は黙って聞く。
「俺は夢中なだけだ。削るのも、守るのも、詰まさないのも」
少し近づく。
「天才君は、勝ちにいくだろ」
「当たり前だ」
「将棋に夢中か?」
恒一が止まる。
律の目は静かだ。
「本当に将棋のこと好きで指してるか?」
一瞬。
時間が止まる。
恒一の中にあった疑問。
勝つのが楽しいのか。
将棋が楽しいのか。
相手との対決が楽しいのか。
高みに行くほど、わからなくなっていた。
律は肩をすくめる。
「俺は好きだよ。勝ち負けも含めてな」
そして急に軽くなる。
「だから今日は勝負服」
恒一が初めて服を見る。
確かに派手だ。
深い藍に、赤の差し。
和柄。
「自分で染めた」
「……染めた?」
「家業。染色。代々」
さらっと言う。
「対局より時間かかるぞ、あれ」
恒一がまた笑う。
今度はさっきよりも大きく。
「ははは!」
律もつられて笑う。
将棋の話は終わる。
二人は廊下を歩く。
将棋以外の話をする。
染料の話。
湿度の話。
布が生き物みたいだという話。
そして恒一がぽつりと。
「次は勝つ」
律は振り向かない。
「削られないようにな」
恒一の目が、変わっている。
負けた男の目じゃない。
世界が広がった男の目だ。
将棋は、
勝つものなのか。
好きなものなのか。
夢中になるものなのか。
その答えはまだない。
だが恒一は、
また一段、上を見ている。
そして遠く。
タイトル戦の山。
律と日向が進んでいる。
風は、確実に変わった。




