52話 ゴキブリのような
工房の奥。
蒸気が立ちのぼる。
藍が深く沈んだ桶の中に、布がゆっくり沈められていく。
黒田律は無言で、布を持ち上げる。
色はまだ薄い。
空気に触れて、ゆっくりと青が濃くなる。
染み込む。
時間をかけて。
一度では染まらない。
何度も、何度も。
その様子を見ながら、律は思う。
一手が、浮かばなかった。
あの日の対局室。
盤面は鮮明に残っている。
桂馬を跳ねればよかった。
それだけだった。
形勢は互角。
むしろ、少し良かった。
いつもの自分なら見える。
だが、見えなかった。
喉が乾いた。
手が震えた。
そして、別の無難な手を指した。
数手後、崩れた。
終わった瞬間より、
盤を片付けたあとが地獄だった。
誰も何も言わない。
それが一番重い。
「年齢ですからね」
笑って言われた。
自分でも笑った。
ああ、そうか、と。
それだけだった。
それから。
将棋盤は工房の隅に置いた。
やめたわけじゃない。
片付けただけだ。
昼は染色。
夜は盤。
毎日。
誰にも言わない。
記録もつけない。
ただ並べる。
並べては崩す。
プロ棋士の棋譜を一局、三時間かけて再現する。
止める。
別の変化を全部読む。
朝になる。
寝る。
起きる。
仕事。
また夜。
それを何年も続ける。
大会にも出ない。
評価もない。
拍手もない。
目標も口にしない。
ただ一手を、何万回も検討する。
あの桂馬を。
跳ねる未来だけを、延々と。
途中で笑うこともあった。
「俺、何やってんだろ」
本気でそう思う。
でもやめない。
やめられない。
ゴキブリみたいだな、と自分で思う。
踏まれても潰れない。
しつこく、生きている。
美しくはない。
執念だけ。
ある日。
若手の研究会に顔を出した。
誰も期待していない。
ただの元奨励会員。
だが一局目。
中盤で相手が固まる。
終盤。
律の手が伸びる。
桂馬が、跳ねる。
迷いなく。
自然に。
あの時打てなかった一手。
体が覚えていた。
勝った。
誰かが言う。
「強……」
律は頭を掻く。
「いや、たまたまっすよ」
笑う。
軽い。
努力の話はしない。
何年も夜を削ったことも言わない。
染色の藍の匂いが、まだ指に残っている。
プロ編入試験。
圧倒的な内容。
記者が聞く。
「どんな努力を?」
律は笑う。
「別に。好きで並べてただけです」
それだけ。
本気でそう思っている。
苦しかった記憶がないわけじゃない。
だが、努力だとは思っていない。
呼吸みたいなものだった。
現在。
喫煙所。
煙が上がる。
対局前。
恒一との一局。
律は壁に寄りかかる。
誰かが言う。
「黒田八段、復帰まで大変でしたよね」
律は笑う。
「いやいや。長めの寄り道ですよ」
軽い。
軽すぎる。
だがその目は、盤面を見ている。
もう、あの桂馬は逃さない。
踏まれても、潰れない。
しぶとく、跳ねる。
黒田律はそういう男だ。




