51話 凡才な日
三段リーグ最終節。
控室の空気は乾いている。
誰も大きな声を出さない。
黒田律はやたらと喋っていた。
「いやあ今日寒いな」
「終わったらラーメン行かへん?」
軽い。
軽すぎる。
だが席に着いた瞬間、止まる。
スイッチが落ちる。
盤の上だけが世界になる。
相手は二十一歳。
勢いの塊。
開始。
序盤は律のペース。
読みは冴えている。
角交換からの乱戦。
中盤、複雑化。
検討室がざわつく。
「黒田優勢か?」
律の頭の中は静かだった。
――まだ浅い。
相手の攻め筋を三本読む。
潰せる。
だが一瞬、胸の奥に重さが生まれる。
“負けたら終わり”
その言葉が、盤面の端に浮かぶ。
手が止まる。
わずか数秒。
それだけで十分だった。
踏み込むべき一手を、選ばない。
代わりに無難な受け。
形勢が揺れる。
相手の目が変わる。
獲物を見る目。
局面が絡む。
終盤戦。
難解。
ここでいつもなら――
盤面の隅に、逆転の一手が見える。
誰も読んでいない細い筋。
桂を跳ね、角を捨て、王を引きずり出す。
狂気の一手。
だがそれが黒田律だった。
“天才の日”なら、迷わない。
律は席を立つ。
対局室を出る。
廊下。
非常階段の横。
喫煙所。
手が震えている。
タバコに火をつける。
吸う。
肺が焼ける。
煙を吐く。
視界が白む。
盤面が浮かぶ。
あの一手。
跳ねるか。
捨てるか。
勝てる。
いや、勝てるかもしれない。
いや――
失敗したら終わりだ。
灰が落ちる。
いつもなら、ここで決まる。
煙の向こうで、何かが吹っ切れる。
“行け”
今日は、何も来ない。
静かすぎる。
怖い。
若い頃は、怖さがなかった。
失うものがなかった。
今は違う。
三十代前半。
年齢制限。
父の工房。
積まれた反物。
「戻ってこい」
その声が、煙の奥から聞こえる。
律はタバコを揉み消す。
最後まで吸わない。
対局室へ戻る。
座る。
盤を見る。
あの一手は、まだある。
今なら間に合う。
秒読みが始まる。
「五、四、三――」
律は、違う手を指す。
安全な手。
負けない手。
だが勝たない手。
相手の顔が変わる。
攻めが通る。
王が寄る。
詰み。
「……負けました」
声は小さい。
静かすぎる。
相手は深く礼をする。
律は盤を見つめる。
あの桂馬。
まだ跳ねられた気がする。
検討室で誰かが言う。
「黒田さんらしくなかったな」
らしくない。
それが全てだった。
荷物をまとめる。
ロッカーの鍵を外す。
壁に貼られたリーグ表。
自分の名前。
線が引かれている。
退会。
誰も責めない。
誰も慰めない。
それが奨励会。
外に出る。
夜。
もう一度、タバコを吸う。
今度は深く。
咳き込む。
空を見上げる。
涙は出ない。
悔しさも、怒りも、ない。
ただ分かる。
“俺は、あの一手を怖がった”
それが事実。
天才の日なら打てた。
今日は凡才の日だった。
それだけ。
だがその差が、プロと非プロを分ける。
煙が消える。
律は笑う。
「……情けな」
ポケットに手を入れる。
将棋盤は、捨てない。
それだけが、意地だった。




