4話 盤の外
昼の喫茶店は、将棋会館よりも騒がしい。
相川恒一は、コーヒーを冷ましながら、向かいの男の話を聞いていた。
男は同年代の棋士、村瀬だ。段位は同じ六段。だが、棋風も性格も、恒一とは正反対だった。
「昨日の対局、見たよ」
村瀬は砂糖を二袋入れ、勢いよくかき混ぜる。
「見られるような将棋じゃなかったけど」
恒一はそう言って、カップに口をつける。苦い。
「いや、あれはあれでさ……なんて言うんだろ。嫌だった」
「嫌?」
「読めるのに、踏み込めない。指してる側からすると、ああいうの一番困る」
恒一は少し考えた。
「踏み込めないのは、相手の問題じゃない?」
村瀬は笑った。
「そういうとこだよ。自分では分かってない」
恒一は首を傾げる。
分からない、というより、気にしていなかった。
「最近さ、将棋楽しい?」
不意に、村瀬が聞いた。
恒一はすぐには答えなかった。
楽しいかどうかを、将棋で考えたことがない。
「嫌ではない」
少し考えて、そう答えた。
「それ、逆に怖いんだけど」
村瀬は冗談めかして言ったが、目は笑っていなかった。
「お前、勝っても負けても同じ顔してるだろ」
「そう?」
「そう。普通、もうちょっと何かある」
恒一はコーヒーを一口飲む。
冷めていた。
「負けた将棋、引きずらないの?」
「引きずるよ」
「嘘だろ」
「一晩だけ」
村瀬は動きを止めた。
「一晩?」
「朝になったら、違う形で残るから」
村瀬はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……それ、才能だと思う?」
恒一は少し考えた。
「分からない。便利ではある」
村瀬は苦笑した。
「なあ、お前、タイトル狙ってる?」
「狙ってるよ」
即答だった。
「意外と欲深いな」
「一つだけ」
「一つ?」
「一つでいい」
村瀬は、何も言わなかった。
その沈黙が、恒一には少し居心地が悪かった。
店を出ると、午後の光が眩しかった。
人の話をしていたはずなのに、恒一の頭の中には、盤の感触が残っている。
日常は、静かだ。
将棋も、静かだ。
だが、その静けさが、誰かにとっては怖いのだと、恒一はまだ知らない。




