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ひらめきで勝つ天才と、時間で指す棋士―同門公式戦を境に成長した日向と、静かにタイトルだけを見続けた恒一  作者: 夜明けの語り手
第四章 虚しさと物足りなさ

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46話 戻る理由

夜の道場は、思ったより静かだった。


看板の電気は消えている。

三階の窓だけが、薄く明るい。


日向は階段の下で止まる。


上がる理由はない。

用事もない。

呼ばれてもいない。


それでも、足は動かない。


「……何しに来たんだ」


自分に向けた声は、やけに乾いている。


将棋から距離を置いたときここに報告に来なかった。


今さら、何を言う。


階段を一段、上がる。


足音がやけに響く。


途中で止まる。


引き返せる。


今ならまだ、将棋の世界に戻らなくて済む。


最近の日常は悪くなかった。

走って、働いて、遥みたいな子に一局だけ指して。


重くない生活。


負けても、叩かれてもいない。


「……それでいいだろ」


誰に言い訳しているのか分からない。


だが胸の奥が、静かすぎる。


あの盤の前に座っていた頃の、

息が詰まるような緊張も、

血が熱くなる感覚も、ない。


楽だ。


でも、どこか足りない。


階段を上がりきる。


扉の前。


手をかけて、止まる。


入れば、戻る。


戻らないと言い続けてきた自分が、嘘になる。


しばらくそのまま立つ。


中から、駒の音がする。


カチ、と一つ。


規則正しい音。


変わらない。


それが、腹立たしい。


日向は、息を吐いて扉を開けた。


畳の匂い。


壁の時計。


何も変わっていない。


奥に、背中。


佐伯は振り向かない。


「遅かったな」


当たり前のような声。


日向は言葉を失う。


怒られない。

驚かれない。

責められない。


ただ、そこにいる前提。


「……別に」


やっと出た声は、子供みたいだった。


佐伯は駒を並べ続ける。


「座れ」


命令でも、誘いでもない。


ただの事実のように。


日向は座る。


盤を挟む。


駒に触れない。


佐伯も、すぐには指さない。


沈黙。


その時間が長い。


日向は視線を落とす。


「俺は……」


言いかけて、止まる。


何を言う。


戻りたい?


戻りたくない?


分からない。


「将棋、嫌いになったか」


突然の問い。


日向は即答できない。


嫌いじゃない。


でも好きとも言えない。


「……分からないです」


正直だった。


佐伯は小さく笑う。


「好きかどうかでやっていたか?」


日向は顔を上げる。


昔、同じことを言われた気がする。


「お前は、やめられないだけだ」


淡々と。


決めつけでも、慰めでもない。


事実の提示。


胸の奥が、わずかに痛む。


やめられない。


それは誇りでもなく、才能でもなく、


ただの執着。


「情けないですね」


日向は言う。


「将棋から離れて。それでもまた来るなんて」


佐伯は初めて、こちらを見る。


目は穏やかだ。


「情けないかどうかは、盤の上で決まる」


短い。


逃げ場がない。


「戻るんですか」


日向の声は、ほとんど独り言だった。


佐伯は答えない。


代わりに、初手を指す。


カチ、と音が鳴る。


それだけで十分だった。


日向は、しばらく盤を見つめる。


迷いは消えていない。


自信もない。


でも、指が動く。


歩を一つ。


小さな音。


それは宣言ではない。


覚悟でもない。


ただ、


逃げきれなかった男の一手だった。


佐伯はうなずく。


「それでいい」


道場の時計が、静かに時を刻む。


将棋は、何も言わない。


だが、拒まない。


日向はまだ迷っている。


それでも、盤の前に座っている。


――戻るかどうかではない。


もう、戻っている。

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