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ひらめきで勝つ天才と、時間で指す棋士―同門公式戦を境に成長した日向と、静かにタイトルだけを見続けた恒一  作者: 夜明けの語り手
第四章 虚しさと物足りなさ

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45話 名前は遥

夜風が、汗の残りをゆっくり冷ましていく。


体育館の裏口から、子どもたちの声がまだ漏れていた。

「次どうする?」「あそこ成らなきゃよかったかな」

軽い後悔と、すぐに次へ向かう声。


日向は足を止めない。


悪くなかった。

本当に、それだけだ。


それだけのはずなのに――


胸の奥が、妙に静かだった。


将棋を指した直後の、あのざらついた余韻がない。

勝ったとか、教えたとか、そういう感覚もない。


ただ、あの一瞬。


角が成ったときの、あの音。


カン、という乾いた音だけが、やけに残っている。


「……急ぎすぎたな」


独り言が、夜に溶ける。


誰に向けた言葉かは分からない。


中学生か。

それとも、昔の自分か。


歩きながら、ポケットの中のスマートフォンが震えた。


通知。


将棋ニュースの速報。


――タイトル戦挑戦者、決定。


名前は、まだ開かない。


開けばいいのに、指が止まる。


しばらく見つめて、画面を伏せた。


「関係ない」


小さく吐き捨てる。


本当に関係ないのかどうか、考えないように。


体育館の明かりが背後で小さくなっていく。


そのとき、後ろから足音が走ってきた。


「ちょ、ちょっと!」


振り向く。


さっきの中学生だ。


息を切らし、華奢な肩を上下させながら、まっすぐこちらを見ている。


「さっきの……なんで、あそこで取らなかったんですか」


いきなりだ。


悔しさと、純粋さが混ざった目。


日向は少しだけ笑う。


「取らせたかったからだよ」


「え?」


「成らせてから、取るほうが痛い」


しばらく沈黙。


中学生は考えている。


そして、顔を上げる。


「……次は、取られません」


その声は震えていない。


日向は一瞬だけ、視線を逸らす。


昔の自分が、そこに立っているようだった。


「好きにしろ」


素っ気なく言う。


それ以上は何も足さない。


中学生はうなずく。


「また、会えますか」


問いはまっすぐだ。


日向は夜空を見る。


星は見えない。


「……さあな」


曖昧なまま、背を向ける。


歩き出す。


数歩進んでから、ふと立ち止まる。


振り返らないまま、言う。


「名前は?」


少しの間。


それから、元気な声。


「遥!」


その響きが、夜に跳ねる。


日向は小さくうなずき、今度こそ歩き出した。


ポケットの中のスマートフォンが、もう一度震える。


今度は開く。


画面に映った名前を見て、呼吸がわずかに止まる。


――恒一。


日向は目を細める。


「……へえ」


感情は、まだ表に出ない。


だが胸の奥で、何かがゆっくり動き出していた。


悪くない。


本当に、それだけのはずだったのに。


夜は、まだ終わらない。

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