44話 攻めも大事だが守りも大事
中学生は小さくうなずき、盤に向き直った。
指先が、ほんの少しだけ震えている。
初手。
歩を一つ。
日向はそれを見て、すぐには返さない。盤全体を眺める。駒の配置というより、呼吸の速さを読むように。
――早い。
悪くない。だが、急いでいる。
日向は、角道を開けた。
中学生の目が一瞬だけ大きくなる。
攻め筋が、はっきりと見えたのだろう。
数手進む。
日向は受けない。かわすだけ。
取れる駒を、あえて取らない。
中学生は少しずつ前に出る。飛車も、角も。
盤の中央に熱が集まっていく。
――いい。
日向は心の中で、そう思った。
攻めたい気持ちが、そのまま指に出ている。
形よりも、前へ。
中学生は一度、日向の手元を見る。
何もない。眉も動かない。
なら、と。
角が、前に出た。
成れる位置。
視界に「成」の二文字が浮かぶ。
一拍。
駒が、裏返る。
カン、という乾いた音が、静まりかけた会場に残った。
中学生の口元が、わずかに緩む。
うまくいっている。そう思ったのが、伝わってくる。
日向は、すぐには指さない。
盤を見ている。
今の盤面全体を、静かに。
それから、飛車を滑らせた。
成った角の、すぐ横。
中学生の表情が変わる。
初めて、時間が止まる。
数秒。
そして、角が取られる。
成ったまま。
盤から消える。
中学生は唇を噛んだ。
だが、泣かない。駒を見つめている。
そこから先は、早かった。
形勢は静かに傾き、やがて詰む。
日向は王手をかけない。
詰みの形が、自然に盤に残ったところで、手を止めた。
中学生が、気づく。
盤を見る。
もう一度、見る。
そして、頭を下げた。
「……負けました」
日向は、うなずくだけだった。
駒を片付ける。
一枚ずつ、裏返して箱に戻す。
最後の駒を入れ終えてから、日向は顔を上げた。
「対戦ありがとう」
それだけだった。
中学生は一瞬きょとんとして、それから、深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
日向は立ち上がる。
盤から一歩、離れる。
駒に未練はない。
教えたという実感も、ない。
ただ、一局が終わった。
将棋は、今日もどこかで続いていく。
自分がいなくても。
日向は会場を出る。
夜の空気が、肺に入る。
悪くなかった。
本当に、それだけだった。




