41話 何かが抜け落ちた一日
朝、目が覚めた瞬間に思った。
――早いな。
時計を見ると、まだ鳴る前だった。鳴る前に起きること自体は珍しくない。それでも今日は、起きてしまった、という感覚の方が強かった。
「……もう起きるか」
声に出すと、部屋に吸い込まれていく。返事はない。それを確認するために喋ったわけでもないのに、少しだけ間が空いた。
顔を洗う。冷たい水が頬を打つ。
「冷た……」
思ったより声が出た。独り言が多くなっていることに、あとから気づく。
コーヒーを淹れる。豆を挽く音がやけに長く感じられる。
「こんな音、前からしてたっけ」
誰に聞くでもなく呟く。もちろん答えはない。だが、答えがなくても構わなかった。
テーブルの前に座る。
何も置いていないはずなのに、視線が自然と一点に集まる。
「……ああ、そうか」
何が、とは言わない。言葉にすると形がはっきりしすぎる気がして、そのまま飲み込んだ。
気づけばカップは空になっている。
時間を見て、少し驚く。
「もう?」
時計は間違っていない。
時間だけが、勝手に先に行っている。
外に出る。風が思ったより強い。
「走るほどじゃないか」
そう言いながら、足は自然と速くなる。
呼吸が整う前に、身体が動き出す。
「……悪くない」
走りながら、意味のない言葉が口をついて出る。
「今なら、誰にも会わないな」
「会っても、別にいいけど」
どちらも本音だった。
信号で止まる。
大型スクリーンが切り替わる音がして、無意識に顔を上げる。文字が流れた気がした。
「……ふーん」
それ以上、見ない。
見なかったことにしたわけでもない。ただ、続きを受け取る準備ができていなかった。
喫茶店に入る。
ドアベルが鳴り、店員が顔を上げる。
「いらっしゃいませ」
「……どうも」
返事が少し遅れた。
メニューを見るが、決め手がない。
「今日は、これでいいか」
指差したものは、普段頼まないものだった。
それだけで、少しだけ今日は違う気がした。
運ばれてきたカップを見て、ひとりごちる。
「普通だな」
飲んでから、
「でも、悪くない」
この「悪くない」が何度も出てくることに、また気づく。
窓の外を眺める。
人が通り過ぎていく。
「ああやって、急いでるんだろうな」
「俺は……急いでない、はずだけど」
“はず”が付くのが、自分でも気になった。
時計を見る。
「……もうこんな時間?」
昼が、ほとんど記憶に残らないまま終わっていた。
家に戻る。
靴を脱ぎながら呟く。
「今日、何したっけ」
思い出そうとして、やめる。
思い出せないほど何もしていないのに、疲れている。
部屋の灯りをつける。
「広いな」
前から変わっていない。
変わっていないはずなのに、空白が増えた気がした。
夜になる。
何かを始めようとして、結局何もしない。
「……一日、早すぎるだろ」
誰に向けた文句でもない。
ただ、置いていかれた感覚だけが残る。
それでも、不思議と嫌ではなかった。
「満足じゃないけどさ」
「悪くは、ないんだよな」
そう言って、電気を消す。
今日も一日は成立していた。
何かが確実に抜け落ちている。
だが、その正体を探すほど、今は困っていなかった。
――悪くない。
それだけが、今日をまとめる唯一の言葉だった。




