3話 鋭くない手
観戦席から見ると、盤は少し平坦に見える。
師匠は背筋を伸ばさず、壁にもたれるように座っていた。対局開始から、ほとんど姿勢を変えていない。ただ視線だけが、相川恒一の手元を追っている。
恒一の将棋は、速くない。
序盤から中盤にかけて、どの手も強く主張しない。受けでも攻めでもない、曖昧な形が続いていた。
恒一は長考していた。
盤面は互角だ。形勢判断をすれば、そう言うしかない。だが、均衡は薄い。恒一はその薄さを、言葉ではなく身体で感じている。少し指を間違えれば、崩れる。だから動かない。
観戦席の後ろで、若い声がした。
「鋭さがないですね」
日向だった。
十八歳。五段。将棋を速さで切り分ける世代の棋士だ。
「悪くはないけど……正直、つまらない。どこを警戒すればいいか、全部見える」
日向はそう言って、小さく肩をすくめた。彼にとって怖さとは、速さであり、強さとは鋭さだった。
師匠は、何も言わない。
恒一はまだ考えている。
長考。
時間が減っていることは分かっているが、急ぐ理由が見つからない。
昨日の朝に浮かんだ一手が、頭の奥にある。だが、それはここではない。使えば局面ははっきりする。良くなるか、悪くなるか、どちらかに振れる。恒一はそれを望まなかった。
勝ちに行く将棋ではない。
だが、負けに行く将棋でもない。
恒一は、少し形を整える手を指した。
鋭さはない。
だが、盤面は崩れない。
相手は前に出る。
恒一は下がる。
互角のまま、終盤に入っていく。
師匠の視線だけが、わずかに深くなる。
恒一の将棋は、読める。だが、読んだ通りに進まない。少しずつ、予想より時間がかかる。思ったより、前に出られない。
終盤、恒一は再び長考に入った。
逆転の筋はある。
だが、それは鋭い手だ。
今の自分の手ではない。
恒一は、安全な受けを選んだ。
結果として、形勢は相手に傾く。
数手後、投了。
ほぼ互角だった。
だが、負けは負けだ。
恒一は盤を見下ろし、特別な感情を持たなかった。悪くない将棋だった。それ以上でも、それ以下でもない。覚醒した感触は、どこにもない。
席を立つと、師匠が視線を外した。
何も言わない。
それが、この人なりの答えだった。
廊下に出たところで、背後から声が聞こえた。
「やっぱり、つまらないですね」
日向の声だった。
恒一に向けた言葉ではない。空気に向けた評価だ。
恒一は立ち止まらなかった。
鋭くなくていい。
怖くなくていい。
少なくとも、自分ではそう思っている。
眠らせている手は、まだ静かだ。
だが、盤の上には、確かに何かが残っていた。




