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ひらめきで勝つ天才と、時間で指す棋士―同門公式戦を境に成長した日向と、静かにタイトルだけを見続けた恒一  作者: 夜明けの語り手
第三章 違う方向へ

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38話 捨てる者と抱える者

次の一手を置いたとき、恒一はそれを「指した」という感覚すら持っていなかった。

気づけば、駒は盤の上にあり、指はもう離れていた。


良し悪しを測る声は、頭の中にない。

勝ちに近づいたかどうかも、考えていない。


代わりに、ひどく昔の記憶が浮かんでいた。


日向と並んで畳に座っていた日々。

研究会が終わったあとの、意味のない雑談。

そして、佐伯師匠の声。


――将棋はな、欲を連れてくると、急に重くなる。


あのときは、わかったつもりでいた。

だが本当は、ずっと持ち込んでいたのだ。


タイトル。

評価。

期待。

恐れ。


それらを抱えたまま、ここまで来てしまった。


――ああ、そうか。


恒一は、ようやく気づいた。

捨てなければならないのは、戦法でも覚悟でもない。

勝とうとする理由そのものだった。


考えるのをやめた瞬間、世界が静かになる。

盤だけが残り、次の一手だけが、そこにある。


無我、という言葉が一瞬浮かんだが、すぐに消えた。

名前を与える必要はない。


ただ、指す。



向かい側で、日向はその一手を見ていた。


――来たな。


そう思ったが、驚きはなかった。

むしろ、どこかで予想していた。


恒一は、いつかこうなる。

何も持たなくなった場所に、必ず辿り着く。


けれど、日向はそこへ行こうとはしなかった。


楽になるのは、わかっている。

強くなるのも、きっと。


だが、その先で、何かが終わってしまう気がした。


日向は、あえて考え続ける。

迷いも、欲も、焦りも、そのまま抱えたまま。


それが、自分の将棋だと知っていた。


王手。

王手。


声だけが、静かに重なる。


観客の気配は、もう遠い。

盤と、二人だけが、ここにある。


時間が尽きる。

形が閉じる。


盤の上では、引き分けだった。


だが、それは同じ場所に立っているという意味ではない。


恒一は、すべてを置いてきた。

日向は、あえて持ったまま、ここにいる。


目が合う。

ほんの一瞬。


それだけで、十分だった。


二人は、ようやく同じ場所で将棋を打っていた。


王手の音だけが、

静かに、続いていた。


結果は引き分けと記された。

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