38話 捨てる者と抱える者
次の一手を置いたとき、恒一はそれを「指した」という感覚すら持っていなかった。
気づけば、駒は盤の上にあり、指はもう離れていた。
良し悪しを測る声は、頭の中にない。
勝ちに近づいたかどうかも、考えていない。
代わりに、ひどく昔の記憶が浮かんでいた。
日向と並んで畳に座っていた日々。
研究会が終わったあとの、意味のない雑談。
そして、佐伯師匠の声。
――将棋はな、欲を連れてくると、急に重くなる。
あのときは、わかったつもりでいた。
だが本当は、ずっと持ち込んでいたのだ。
タイトル。
評価。
期待。
恐れ。
それらを抱えたまま、ここまで来てしまった。
――ああ、そうか。
恒一は、ようやく気づいた。
捨てなければならないのは、戦法でも覚悟でもない。
勝とうとする理由そのものだった。
考えるのをやめた瞬間、世界が静かになる。
盤だけが残り、次の一手だけが、そこにある。
無我、という言葉が一瞬浮かんだが、すぐに消えた。
名前を与える必要はない。
ただ、指す。
⸻
向かい側で、日向はその一手を見ていた。
――来たな。
そう思ったが、驚きはなかった。
むしろ、どこかで予想していた。
恒一は、いつかこうなる。
何も持たなくなった場所に、必ず辿り着く。
けれど、日向はそこへ行こうとはしなかった。
楽になるのは、わかっている。
強くなるのも、きっと。
だが、その先で、何かが終わってしまう気がした。
日向は、あえて考え続ける。
迷いも、欲も、焦りも、そのまま抱えたまま。
それが、自分の将棋だと知っていた。
王手。
王手。
声だけが、静かに重なる。
観客の気配は、もう遠い。
盤と、二人だけが、ここにある。
時間が尽きる。
形が閉じる。
盤の上では、引き分けだった。
だが、それは同じ場所に立っているという意味ではない。
恒一は、すべてを置いてきた。
日向は、あえて持ったまま、ここにいる。
目が合う。
ほんの一瞬。
それだけで、十分だった。
二人は、ようやく同じ場所で将棋を打っていた。
王手の音だけが、
静かに、続いていた。
結果は引き分けと記された。




