37話 初手
同門公式戦の再戦が決まったとき、日向は思ったより何も感じなかった。
胸が高鳴ることも、手が震えることもない。
それが、一番の違和感だった。
一年前のあの対局は、今でも映像として残っている。
決着の数手前で止められたまま、何度も流されるビデオ。
誰もが続きを知りたがり、誰もが語りたがる。
けれど日向だけは、あの先を言葉にしなかった。
再戦までの日々は、驚くほど穏やかだった。
弟子に囲まれ、盤を挟み、指導をし、夜は走った。
将棋から離れているわけではない。ただ、将棋に縛られていなかった。
それでも、ふとした瞬間に恒一の名前が浮かぶ。
ニュースのテロップ。
対戦表。
街頭の大型スクリーン。
思ったより、静かに受け止めている自分がいる。
それが、少しだけ怖かった。
対局当日。
会場に入るまで、日向の心拍数は変わらなかった。
控室の廊下ですれ違ったとき、恒一がいた。
距離は近かった。
声をかけようと思えば、かけられた。
けれど、目が合わなかった。
恒一は前を見ていて、日向も前を見ていた。
それだけのことなのに、胸の奥が、きゅっと縮んだ。
――ああ、もう同じ場所には立っていないのかもしれない。
盤の前に座る。
駒は並び、時計が置かれる。
立会人の声が、静かに響く。
「それでは、お願いします」
日向は、初手を取らなかった。
代わりに、立ち上がった。
誰かが小さく息をのむ気配がしたが、気にしなかった。
扉を開け、外に出る。
冷たい空気が、肺に入る。
夜の匂い。
街のざわめき。
ここに来るつもりはなかった。
逃げるつもりもなかった。
ただ、指せなかった。
初手を打てば、名前が戻ってくる気がした。
段位。
因縁。
一年前の続きを求める視線。
それらを、まだ盤に持ち込みたくなかった。
外で、日向は何かを見た。
それが何かは、分からない。
光だったのかもしれないし、影だったのかもしれない。
あるいは、ただの風景だったのかもしれない。
けれど、その瞬間、胸の奥にあった重たいものが、静かに落ちた。
日向は戻る。
理由はいらなかった。
盤の前に座り直すと、恒一がそこにいた。
さっきとは違い、今度は、目が合った。
言葉はない。
合図もない。
それで十分だった。
初手が指される。
ようやく、将棋が始まる。
勝つためでも、証明のためでもない。
ただ、指すために。
日向は気づいていた。
緊張していないのではない。
――もう、縛るものがないのだ。
一年前、同じ場所に立てなかった二人は、
今、ようやく別々の方向を向いたまま、同じ盤に向かっている。
王手、王手。
音だけが、静かに続く。
この勝負が、区切りになる。
それは確信に近かった。
そして、もし次があるなら――
そのときは、もう目を逸らさない。
日向は、そう思いながら、次の一手を置いた。




