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蒐集家という名の棋士について  作者: 夜明けの語り手
第三章 違う方向へ

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36話 違う方向を向いたまま

朝、目が覚めたとき、胸の奥に何もなかった。

 心臓は規則正しく動いていて、呼吸もいつもと同じ速さだった。再戦の日だと気づいたのは、歯を磨き終えてからだった。


 ――今日、日向と指す。


 その事実は、音を立てずに頭の中に置かれた。

 置かれただけで、感情は動かなかった。


 窓を開けると、冬の空気が部屋に入り込む。冷たいはずなのに、どこかぬるく感じた。去年の同じ時期は、同じ空を見上げて、意味もなく焦っていた。負けたらどうしようとか、勝たなきゃいけないとか、そういう言葉が常に喉元に詰まっていた。


 今日は、ない。


 会場へ向かう道は、一年前とまったく同じだった。駅前の自販機、信号の待ち時間、歩道橋の影。すべて覚えているのに、懐かしさが湧かない。記憶の上をなぞっているだけの感じがした。


 控室で盤を見た瞬間、少しだけ立ち止まった。

 盤は、盤のままだった。


 日向のことを考えていない自分に気づく。

 あれだけ意識していたはずの相手なのに、今日は輪郭がぼやけていた。


 ――変わったのは、俺の方か。


 廊下を歩いていると、向こう側から足音がした。軽くて、迷いのある歩き方。視線を上げれば、たぶん日向がいる。それは分かっていた。でも、俺は顔を上げなかった。


 すれ違う一瞬、空気が揺れた。


 言葉は交わさない。

 挨拶もしない。

 それでいい気がした。


 対局室に入る。静かすぎるほど静かで、音という音がすべて引き算されている。盤の前に座ると、自然と背筋が伸びた。緊張じゃない。姿勢が、勝手にそうなる。


 日向が向かいに座る。

 目が合った。


 一年前の彼は、目の奥に熱を抱えていた。焦りと、期待と、不安が混ざった色をしていた。今は違う。どこか外を見ている。ここに座っているのに、半分は別の場所にいるようだった。


 それを見て、ようやく理解する。


 これは再戦じゃない。

 取り戻す勝負でも、続きでもない。


 違う方向を向いた二人が、最後に一度だけ交わる場所だ。


 駒箱の蓋を開ける音が、小さく響く。

 日向の指が一瞬止まり、それから駒を持ち上げる。


 彼は、初手を指さなかった。


 立ち上がり、盤から視線を外す。

 そして、対局室を出ていった。


 ざわめきが起こる前に、俺は盤を見つめたまま動かなかった。

 外に出た理由は分からない。でも、分かる必要もなかった。


 ――日向は、今、将棋から離れている。


 それだけで十分だった。


 数分後、彼は戻ってきた。表情は、少しだけ軽くなっている。席に座り、深く息を吸ってから、今度こそ駒を持った。


 駒が盤に置かれる。


 音は、静かだった。


 この一手で、何かが終わる。

 勝敗じゃない。関係でもない。


 同じ場所に立っていた時間が、ここで終わる。


 俺は、駒を取る。

 視線を上げずに、応じる。


 もう、迷いはなかった。

 前を見る必要も、振り返る必要もない。


 ただ、指す。

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