34話 鏡に映る俺たち
控室の鏡は、いつもより近くにあった。
恒一はネクタイを結び直し、鏡の中の自分を見る。
そこに映っているのは、肩書きをいくつも背負った棋士の顔だった。段位、実績、次の挑戦者――そういうものが、表情の奥にうっすらと貼り付いている。
けれど、目だけは違った。
鏡の中の目は、どこか遠くを見ている。
「……まだだな」
声に出しても、意味は変わらない。
覚醒した、などという感覚はない。
ただ、置いてきたものが少しずつ減っている気がするだけだ。
廊下の向こうから、足音が聞こえた。
一定のリズム。速すぎず、遅すぎず。
恒一は振り返らない。
それでも分かる。
――日向だ。
同じ建物にいる。
それだけで、盤面が一段、深くなる。
一年前。
同門公式戦の最後の局面を、恒一は何度も思い返した。
王手、王手。
追い詰めていたのか、追い詰められていたのか、今でもはっきりしない。
決着はついた。
だが、勝敗だけが取り残された。
日向は、あの局から出ていない。
恒一は、出たつもりで、まだ振り返っている。
それが、鏡に映る自分の正体だった。
「恒一先生、準備よろしいですか」
スタッフの声に、恒一は小さくうなずく。
盤のある部屋へ向かう途中、ふとガラス張りの壁に映る影が二つ、重なった。
一瞬だけ、歩調が同じになる。
ガラスに映った二人は、よく似ていた。
年齢も、立場も、選んだ道も違うのに、
同じものを捨てようとしている顔をしていた。
日向が足を止める。
恒一も止まる。
言葉は交わさない。
視線も合わせない。
それでも、互いに分かっていた。
――今日は、まだ答えは出ない。
――だが、鏡はもう歪まない。
恒一は一歩、前に出た。
日向もまた、別の方向へ歩き出す。
背中越しに、同じ音が聞こえた気がした。
駒箱が、静かに閉じられる音。
鏡に映っていた「俺たち」は、そこで消えた。
残ったのは、それぞれの盤だけだった。




