33話 タイトルについて
盤の前に座ると、考えてしまう。
日向は、そういう人間だった。
勝った将棋より、
負けた将棋より、
指さなかった一手のほうが、長く残る。
恒一の名前が載った新聞は、
盤の端に置かれたままだ。
盤上は空。
それでも、日向の視線はそこから離れない。
――無我の境地。
記事にあった言葉が、頭の中で反芻される。
あれは、境地なんかじゃない。
日向は、そう思っている。
境地と呼べるほど、整ったものじゃない。
むしろ逆だ。
削ぎ落として、
削ぎ落として、
残ってしまったものだ。
日向は、かつてそれを持っていた。
いや、
持っていたと錯覚していた。
勝ちたいと思った瞬間、
それは静かに崩れた。
「師匠」
声に、現実へ引き戻される。
弟子が、正座していた。
まだ若い。
盤を前にすると、目が少しだけ輝く。
「……どうした」
「さっきの記事の話なんですけど」
弟子は、少し首を傾げる。
「師匠も、タイトル狙わないんですか?」
その問いは、
驚くほど無邪気だった。
挑発でも、期待でもない。
ただの疑問。
日向は、すぐには答えなかった。
盤を見る。
ここに何局、座ってきただろう。
何人を、送り出してきただろう。
狙う、という言葉。
それはいつから、
こんなにも重くなったのか。
「……狙ってどうする」
そう返すと、弟子は一瞬考えたあと、
「勝つためです」
即答だった。
理由も、飾りもない。
日向は、思わず息を吐いた。
正しい。
あまりにも。
「師匠、強いじゃないですか」
弟子は続ける。
「恒一さんより、ずっと前から」
日向は、新聞に目をやる。
名前だけが、そこにある。
「前から、か」
同じ場所に立てる人間。
恒一について、そう言った自分の言葉が蘇る。
――じゃあ、自分は?
「強さは、続かない」
それだけを、口にした。
弟子は、少し困った顔をする。
「でも、指し続けてるじゃないですか」
その言葉に、日向は何も返せなかった。
指し続けている。
それは事実だ。
だが、
狙い続けているかは、別だ。
日向は、盤の中央に、
ゆっくりと手を伸ばした。
まだ、駒は置かない。
ただ、指を置くだけ。
「……お前は、狙え」
弟子は、目を見開いた。
「師匠は?」
日向は、少しだけ笑った。
答えは、出していない。
出せていない。
「考えてる」
盤の前で。
それで、いい。
新聞の文字は、動かない。
盤も、動かない。
次に動くのは、
日向か、恒一か。




