32話 想定内だが
道場の朝は早い。
畳はまだ冷たく、窓の外の光も低い。
日向は、盤を拭いていた。
特別な意味はない。
ただ、朝はそうすることにしている。
「師匠!」
入口から、声が飛んだ。
振り返ると、門下生の一人が立っている。
息が少し上がっている。
普段はここまで慌てない子だ。
「どうした」
「これ……!」
差し出されたのは、新聞だった。
折り目のついた一面。
まだインクの匂いが残っている。
日向は、すぐに目を落とした。
名前は、探すまでもなかった。
恒一 タイトル戦線へ
大きな見出し。
その下に、短い取材記事。
弟子は、指で記事を叩く。
「このコメント、見ました?」
日向は、ゆっくりと読み進める。
――同じ場所に立てるなら、指したい。
――条件が揃っただけ。再現性はない。
――タイトルを狙います。
紙の上の文字は、静かだった。
騒ぎ立てる言葉は、一つもない。
「……なるほどな」
日向は、そう言った。
弟子は、少し拍子抜けした顔をする。
「驚かないんですか?」
日向は、新聞をたたむ。
指先が、ほんの一瞬だけ止まった。
「予想はしてた」
それは本心だった。
あの将棋を指した人間が、
欲を捨てたままで終わるとは思っていない。
「でも」
日向は、息を吐く。
「ここまで、きれいに言うとは思わなかった」
弟子は、目を見開く。
「きれい、ですか?」
「余計なものがない。
だから、怖い」
新聞を、盤の横に置く。
「……強いってことですか?」
日向は、少し考えた。
「強い、とは違う」
盤を見る。
まだ駒は並んでいない。
「もう一度、同じ場所に立てる人間だ」
弟子は、その意味を完全には理解できない。
それでも、背筋を伸ばした。
「……再戦、あるんでしょうか」
日向は、新聞から視線を外し、窓の外を見る。
朝の光が、少し強くなっている。
「あるだろうな」
そう言ってから、
日向は、わずかに笑った。
自分でも気づかないほど、小さく。
驚きは、確かにあった。
予想の中に、収まっていたはずなのに。
恒一は、
予想よりも、ずっと先の言葉を選んでいた。




