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ひらめきで勝つ天才と、時間で指す棋士―同門公式戦を境に成長した日向と、静かにタイトルだけを見続けた恒一  作者: 夜明けの語り手
第二章 一年後

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29話 身体の限界

走り続けているうちに、距離の感覚がなくなった。

 どこまで来たのか分からない。

 戻る方向も、もう意識していない。


 呼吸が乱れる。

 肺の奥が、きしむように痛む。


 ――まだ走れる。

 そう思った瞬間に、違う声が混じった。


 走らないと、追いつけない。


 誰に、とは言わない。

 恒一の名前を、口に出す必要もない。


 足が重くなる。

 それでも、止まらない。


 同門公式戦の盤面が、また浮かぶ。

 あのとき、確かに同じ場所にいた。

 互いに、何も背負っていなかった。


 なのに今は、

 自分だけが、そこに戻ろうとしている。


「……違うだろ」


 声が漏れた。

 夜に吸い込まれて、すぐ消える。


 無我は、追うものじゃない。

 取り戻すものでもない。


 それでも、身体は理解しない。

 脚は前へ、前へと出続ける。


 橋の上に出たとき、視界が揺れた。

 街の光が、滲む。


 一歩、踏み出そうとして、

 足がもつれた。


 手すりに掴まり、かろうじて立ち止まる。

 心臓が、耳の裏で鳴っている。


 ――恒一は、今も指している。

 盤の前に座っている。


 それだけで、

 自分がここにいる理由が、

 急に空っぽに見えた。


「……俺は」


 言葉にならない。

 約束も、誓いも、出てこない。


 ただ、

 まだ将棋を捨てきれていない

 その事実だけが、はっきりしていた。


 夜風が汗を冷やす。

 走る理由も、止まる理由も、

 どちらも見つからない。


 日向は、ゆっくりと手すりから手を離した。

 一歩、歩く。


 もう走らない。

 でも、戻りもしない。


 この身体で、

 このまま、朝まで行く。


 それが、今の自分に許せる

 唯一の距離感だった。


 遠くで、また街のスクリーンが光る。

 もう名前は見えない。


 それでも、

 恒一が勝ち上がっているという事実だけは、

 消えなかった。


 日向は前を向く。

 歩幅は小さい。


 けれど、

 今度は置いていかれない速度だった。

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