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ひらめきで勝つ天才と、時間で指す棋士―同門公式戦を境に成長した日向と、静かにタイトルだけを見続けた恒一  作者: 夜明けの語り手
第一章 ライバル

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2話 読めない距離

道場の畳は、朝でも少し湿っている。

 靴を脱ぐと、足の裏にその感触が残った。


 佐伯師匠はもう来ていた。

 盤の前に座り、駒箱を開けもせず、ただ盤面を眺めている。対局前だというのに、将棋を指す顔ではなかった。何かを待っている顔だった。


 「来たか」


 それだけ言って、師匠は私を見なかった。

 相川 恒一、六段。弟子としては、もう長い。だが、この人の前に座ると、いまだに自分の段位が軽く感じられる。


 私は黙って盤の前に座る。

 駒を並べる。その音が、道場の空気を少しずつ締めていく。


 「昨日はどうだった」


 「負けました」


 「そうか」


 それ以上、聞かれなかった。

 師匠は結果に興味がない。興味があるのは、そこに残ったものだけだ。


 先手は私だった。

 初手を指す。師匠の視線が、ようやく盤に落ちる。


 数手進んだところで、師匠がわずかに首を傾げた。

 それだけで分かる。この人は、もう違和感を掴んでいる。


 「その形か」


 問いではなかった。確認でもない。

 ただ、静かな独り言だった。


 私は返事をしない。

 返せる言葉を、持っていない。


 師匠は強い。だが、それ以上に、読める人だ。筋も、狙いも、考え方も。普通の棋士なら、ここで手を変える。読まれていると感じた瞬間、別の道に逃げる。


 私は逃げなかった。


 次の一手を、同じ調子で指す。

 派手でも、鋭くもない。だが、どこか重い。


 師匠の手が、わずかに止まった。


 「……分かりそうで、分からんな」


 珍しい言葉だった。

 師匠がそう言うときは、本当に読めていない。


 恒一の将棋は、一直線ではない。

 寄せるわけでも、守るわけでもない。何かを主張する前に、一度引く。その引きが、ただの後退なのか、溜めなのか、外からは判別できない。


 それを、一番最初に教えたのは、この人だった。


 「お前はな、考えを急ぐと将棋が軽くなる」


 昔、そう言われた。

 理解できたのは、何年も経ってからだ。


 中盤に差しかかる。

 盤面は静かだ。だが、どちらも油断していない。私は、昨日の朝に思い出した一手を、まだ眠らせている。ここではない。今ではない。


 師匠が歩を突いた。

 私は、すぐに応じなかった。


 数秒の間。

 師匠はその沈黙を、じっと待つ。


 そして私は、別の手を指した。


 師匠の目が、初めてはっきりと細くなった。


 「……なるほど」


 それ以上は言わない。

 だが、その一言で十分だった。


 この人には、見えている。

 私が何を指さないか。

 何を、まだ出さないか。


 対局は、最後まで指さなかった。

 勝敗はつかなかった。時間が来て、自然に終わった。


 盤を片づけながら、師匠が言った。


 「その手は、もう少し寝かせろ」


 「はい」


 「寝かせられるのは、才能だ。だが使えなければ意味はない」


 私は頷いた。

 それでいい。今は、それでいい。


 道場を出ると、昼の光が強かった。

 私の中で、一手が、静かに息をしている。


 読めそうで、読めない。

 それが、今の私の将棋だった。

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