2話 読めない距離
道場の畳は、朝でも少し湿っている。
靴を脱ぐと、足の裏にその感触が残った。
佐伯師匠はもう来ていた。
盤の前に座り、駒箱を開けもせず、ただ盤面を眺めている。対局前だというのに、将棋を指す顔ではなかった。何かを待っている顔だった。
「来たか」
それだけ言って、師匠は私を見なかった。
相川 恒一、六段。弟子としては、もう長い。だが、この人の前に座ると、いまだに自分の段位が軽く感じられる。
私は黙って盤の前に座る。
駒を並べる。その音が、道場の空気を少しずつ締めていく。
「昨日はどうだった」
「負けました」
「そうか」
それ以上、聞かれなかった。
師匠は結果に興味がない。興味があるのは、そこに残ったものだけだ。
先手は私だった。
初手を指す。師匠の視線が、ようやく盤に落ちる。
数手進んだところで、師匠がわずかに首を傾げた。
それだけで分かる。この人は、もう違和感を掴んでいる。
「その形か」
問いではなかった。確認でもない。
ただ、静かな独り言だった。
私は返事をしない。
返せる言葉を、持っていない。
師匠は強い。だが、それ以上に、読める人だ。筋も、狙いも、考え方も。普通の棋士なら、ここで手を変える。読まれていると感じた瞬間、別の道に逃げる。
私は逃げなかった。
次の一手を、同じ調子で指す。
派手でも、鋭くもない。だが、どこか重い。
師匠の手が、わずかに止まった。
「……分かりそうで、分からんな」
珍しい言葉だった。
師匠がそう言うときは、本当に読めていない。
恒一の将棋は、一直線ではない。
寄せるわけでも、守るわけでもない。何かを主張する前に、一度引く。その引きが、ただの後退なのか、溜めなのか、外からは判別できない。
それを、一番最初に教えたのは、この人だった。
「お前はな、考えを急ぐと将棋が軽くなる」
昔、そう言われた。
理解できたのは、何年も経ってからだ。
中盤に差しかかる。
盤面は静かだ。だが、どちらも油断していない。私は、昨日の朝に思い出した一手を、まだ眠らせている。ここではない。今ではない。
師匠が歩を突いた。
私は、すぐに応じなかった。
数秒の間。
師匠はその沈黙を、じっと待つ。
そして私は、別の手を指した。
師匠の目が、初めてはっきりと細くなった。
「……なるほど」
それ以上は言わない。
だが、その一言で十分だった。
この人には、見えている。
私が何を指さないか。
何を、まだ出さないか。
対局は、最後まで指さなかった。
勝敗はつかなかった。時間が来て、自然に終わった。
盤を片づけながら、師匠が言った。
「その手は、もう少し寝かせろ」
「はい」
「寝かせられるのは、才能だ。だが使えなければ意味はない」
私は頷いた。
それでいい。今は、それでいい。
道場を出ると、昼の光が強かった。
私の中で、一手が、静かに息をしている。
読めそうで、読めない。
それが、今の私の将棋だった。




