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27話 佐伯師匠との会話
その夜、日向は盤の前に座っていた。
駒は並んでいる。形も悪くない。
それなのに、一手も動かせなかった。
畳のきしむ音がして、顔を上げる。
「まだ、指してないのか」
佐伯師匠が、そこにいた。
実際に来たわけじゃない。
それでも、声の距離感だけは本物だった。
「研究してました」
嘘ではない言葉を返す。
師匠は、ふっと息を吐く。
「研究ってのはな、
進めるためにやるもんだ」
盤を覗き込み、駒には触れない。
「で、これは?」
「……止まってます」
「だろうな」
しばらく沈黙が落ちる。
将棋の話をしているはずなのに、
何も説明されない。
佐伯師匠は、ようやくこちらを見た。
「あの将棋はな、
もう一度指せると思ってるうちは、指せん」
それだけ言って、立ち上がる。
「答えを探すな。
条件を捨てろ」
畳の音。
気配が消える。
気づけば、部屋には日向ひとりだった。
盤は変わらない。
駒も、何一つ動いていない。
「……もう一度指したい、か」
自分の声が、乾いていた。
その瞬間、
盤の前にいること自体が、
重く感じられた。
日向は立ち上がる。
靴を履く。
理由は考えない。
扉を開けた先の夜が、
やけに広かった。
それで、走り出すのだ。




