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蒐集家という名の棋士について  作者: 夜明けの語り手
第二章 一年後

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26話 佐伯師匠の声

日向は、しばらく盤の前に座っていた。

駒を並べることも、崩すこともせず。


対局時計は止まったままなのに、

時間だけが進んでいる気がした。


指せばいい。

何か一手、動かせばいい。


そう思っているうちは、

指せないことも、もう知っていた。


テレビをつける。

消す。

またつける。


画面には、知らない棋士の勝敗が流れている。

名前だけが強く、内容は頭に残らない。


「……俺は、何を待ってるんだ」


誰に聞かせるでもない声。


同門公式戦の盤面が、

不意に、はっきりと浮かんだ。


あの数手前。

止まったままの局面。


再生も、停止も、

自分の手ではできない映像。


佐伯師匠の声は、もうそこにはいなかった。

それでも、言葉だけが残っていた。


あの将棋はな、

もう一度指せると思ってるうちは、指せん。


日向は盤を閉じた。

丁寧でも、乱暴でもなかった。

ただ、今はこれ以上、駒に触れる理由がなかった。


部屋の明かりを消す。

夜は思ったよりも静かで、考えが逃げ場を失う。


「……もう一度指したいって、思ってるな」


自分の声が、妙に他人行儀に聞こえた。

取り戻したい。証明したい。

そんな言葉が、次々と浮かぶ。


全部、佐伯師匠の言葉に照らされて、輪郭を失った。


無我に行きたい。

あの場所に、もう一度。


――その考え自体が、もう違う。


頭ではわかっている。

わかっているのに、身体がついてこない。


玄関で靴を履く。

理由はない。

走るための理由を考えるのを、やめただけだ。


夜の空気が肺に入る。

冷たいはずなのに、妙に軽い。


足が出る。

ひとつ、またひとつ。


走りながら、同門公式戦の盤面がよぎる。

あの間。

あの沈黙。

王手の音だけが続いていた、あの時間。


「……指せると思ってる、うちは、か」


言葉は風に切られ、形にならない。


橋が見えた。

川は暗く、街の光だけを映している。


立ち止まることもできた。

叫ぶこともできた。


でも、しなかった。


日向は視線を前に戻し、

もう一段、速度を上げた。


考えるためじゃない。

忘れるためでもない。


何かを手放すために。


それで、走り出すのだ。

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