25話 噂
翌朝、日向は走らなかった。
身体が重いわけでも、気持ちが沈んでいるわけでもない。ただ、動かない朝を選んだ。
テレビの電源を入れる。音量は小さめ。
画面の端で、将棋のニュースが静かに流れ始めた。
『昨日行われた公式戦――』
その言葉に、日向の指が止まる。
コーヒーを注いでいた手が、ほんの一瞬、宙で止まった。
『現在、恒一七段が順調に勝ち上がっています』
名前が出た瞬間、胸の奥がわずかに鳴る。驚きではない。確認に近い感覚だった。
――やっぱり、来ている。
画面は切り替わり、別の対局者の話題へ移る。
そこで、アナウンサーが一拍、間を置いた。
『なお、関係者の間では――』
その間が、妙に長かった。
『来期、かつて話題となった同門公式戦の再戦が実現するのではないか、という声も上がっています』
日向は、無意識に息を止めていた。
同門公式戦。
誰もがもう終わった話として扱っていた言葉。
決着はついている。記録も残っている。ビデオもある。
それでも――。
『正式な発表はありませんが、両者の勝ち上がり次第では』
可能性、という言葉が画面に浮かぶ。
確定ではない。煽りでもない。ただの噂だ。
日向はテレビを消した。
部屋に残ったのは、電源が落ちた画面と、自分の呼吸音だけ。
忘れかけていた、という表現は正しくない。
忘れたふりをしていただけだ。
あの対局を境に、日向は師匠になった。
走るようになった。
将棋を語らない時間を、大切にするようになった。
それでも、世界は覚えている。
盤の上で、二人が何を置いてきたかを。
日向は立ち上がり、窓を開けた。
朝の空気が、昨夜よりも少しだけ冷たい。
「……再戦、か」
声に出してみると、不思議と重くなかった。
あの夜、橋の上で叫ばなかった言葉が、今になって形を持ち始めている。
追いかけてくるのではない。
こちらが、もう一度、歩き出す番なのだ。
ニュースは終わった。
だが、物語は――
再び、動き始めていた。




